. |
![]() |
. | . |
96年 | 1月 | 15日 | 22日 | 29日 | 2月 | 5日 | 12日 | 26日 | ||
3月 | 4日 | 11日 | 18日 | 25日 | 4月 | 1日 |
96.4.1 放送 (第26回) |
私は4歳からの5年ぐらい、あるマインドコントロールにかかっていました。
弟が生まれたので母のいる病院に父と一緒に向かう途中、アメを買ってもらい病院に向かいました。
そしてエレベーターに乗ろうとした時アメを車に置いてきた事に気付き、父に待っていてもらって帰ってくると、父がエレベーターを手で開けていました。
普通に止めていただけなのにそこは4歳。「お父さんはあれを止められるほど強いんだ、さすがだ」と思ってしまいました。
そして私も小学校に入り、友達のマンションに遊びに行った時の事。友達が何気なく手でエレベーターを開けているではありませんか。
私はその日から「同級生に出来るなら、俺も努力して出来るようにならねば」と風呂上がりに腹筋・背筋・腕立て伏せを繰り返し、1年ほどの時間を無駄に過ごしました。
また彼の家に遊びに行く事があり、1階でエレベーターのボタンを押してドキドキしていると、エレベーターがやってきて、私はエレベーターに立ち向かうべくドアの所に立ち、背中をエレベーターの方に向け、両足ともドアの角に固定させ、手を壁に付け、ケツをやや後ろに突き出し、戦闘準備完了。いつでもドアが閉まるのを待つ状態でした。
ドアがするする閉まるのですが、完全に閉じようとはしません。何度もドアは行ったり来たりしているのです。
よく見ると私の突き出したケツにドアがぶつかっているのでした。私は手と足をドアより外の部分に付いていたのでした。
その失敗はすぐに気付きましたが、ケツにぶつかっただけでドアが開く理由が分かりません。
そして結局出た結論としては、「俺は知らぬ間にケツの筋肉も鍛えていた」という結論でした。
しかし9歳の時にクラスの女の子のマンションに一緒に行った時、S子さんがドアのあの柔らかい部分を押さえているのを見て、ドアは力で無理矢理押さえる物だというマインドコントロールが解けました。
P.S.エスカレーターは下りる時に段でコケたことで、その夜エスカレーターと段の隙間にペシャンコになって吸い込まれる夢を見た事から、今でもエスカレーターに乗ったまま下りないとペシャンコ(エスカレーターのギザギザの跡は付く)になって吸い込まれると思っている、僕。
(札幌・PN:ペキチポキチパキチ)
96.3.25 放送 (第25回) |
小学校4年生の頃、ほとんど友達がいなくて色んな一人遊びをしていた僕は、愛用の忍者ハットリ君の自転車で街の中を色々探検する事を始めました。
最初のうちは普通に楽しかったんですが、そこは小学生。行動できる範囲はたかが知れており、すぐに飽きてしまいました。
それから僕の妄想は始まりました。ハットリ君自転車には警笛用のブザーがついているのですが、その時にはもうそのブザーは壊れてしまっており、右ハンドルにあるスイッチを押しても何の反応も無い状態でした。
僕は知らない間にそのスイッチをビーム砲のスイッチに見立て、自転車を戦闘機と思い込み、街の中にある建物を敵の要塞だとし、バーチャルシューティングゲームを楽しんでいたのです。
子供の思い込みとは怖い物で、僕の目にはスイッチを押す度に、前輪の両脇にあるライトから赤いビームが発射されるのが確かに見えていました。
ザコキャラは町中を走る自転車や通行人などです。前輪を目標に向け、スイッチを連打。「ビル、ドッカーン」などの効果音ももちろん自分の口で言っていました。
ザコを次々と破壊しながら自転車をこぎ、いよいよ第1ステージの要塞である杉田さんちの車庫に到着。シャッターを開ける時に指をかける2つの穴から僕にだけしか見えないミサイルが僕の戦闘機目掛けて襲ってきます。
それらを上手くかわしながらそのミサイル発射口に16発ずつ計32発ビームを打ち込めれば第1ステージはクリアです。第2ステージの要塞である、近くのタイル工場へと向かいます。
以下郵便局、市役所などステージが進むごとに要塞は大きくなっていき、攻撃も困難でした。こんな空想を僕は半年近くも続けていました。
目が覚めたきっかけは、市役所の前で何か言いながら自転車でぐるぐると走り回っている僕を見つけた母の友人が、母にこの事を気の毒そうに教え、母が僕に尋ねたのです。
この時僕は、自分が今までやっていた遊びの異常さに気がつきました。
あれから7年、今でもあの車庫の前を通ると2つのミサイル砲が気になる時があります。
(石川県・PN:イーストアミューズ)
特に何かに夢中になったわけでもない、小さい頃に年寄りが言った些細な事をずっと信じ続けてしまう、それも一種のマインドコントロールですよね?
そんな僕のマインドコントロールは、『かつお節ご飯のかつお節がご飯の上で踊るのは、かつお節がまだ生きてるからだ』というものでした。
僕が小さい頃、物心がついた時には既に家族、特におばあちゃんにこのマインドコントロールをかけられていたのです。
このマインドコントロールを人前で口にして恥をかく、というような事があったわけではないのですが、逆に人前で話すような機会が無かったからこそ、僕は数年間このマインドコントロールに深くハマっていたのでした。
僕はまず、このマインドコントロールを元に様々な学説を次々と自分の中で生み出していきました。
その中で代表的なものは、『学説1:かつお節はご飯の余りの熱さに暴れている』『学説その2:醤油をかけた瞬間死ぬ。かつお節の弱点は醤油』というものでした。
その学説が僕学会で発表されてから、かつお節でご飯を食べる度に僕のかつお節に対する虐待が始まりました。
普通にかつお節ご飯を食べる時に醤油をかける時には、醤油挿しの片方の穴を押さえて醤油を小出しにし、部分的にかつお節が動かなくなるのを見てサディスティックに微笑んだり、ある時は醤油をかけずにほとんど噛まずに飲み込んで、生きたかつお節の喉越しを楽しむ踊り食いをしていました。
しかし考えてみれば幼稚なマインドコントロールです。小さい頃から賢い子だった僕は、小学校2、3年の頃からかつお節の生命に疑念を抱き出し、小学校5、6年の頃にはご飯の湯気の仕業である事にだいたい気付いていました。
そしてマインドコントロールからほぼ抜け出していた中1、かつお節ご飯を食べようとしている時、当時小4の弟が「かつお節って生きてるの?」と聞いてきたのです。
弟も僕と同じマインドコントロールにかかり、そして昔の僕と同じように疑念を抱いているのだなあと思い、それは湯気のせいで動くんだと教えてやると、それを横で聞いていた中2の姉が「えーっ!?生きてないの?」と言いました。
姉は中2になるまでこのマインドコントロールを一時も疑うことなく信じきっていたのです。
ああ、それにしてもマインドコントロールってやつは怖いねぇ。
(福島・PN:2号)
96.3.18 放送 (第24回) |
純粋な子供ほど世の中の物を信じやすく、また親や兄弟からのマインドコントロールにかかりやすいもの。今日はそんな私のお話を聞いて下さい。
当時4歳の私はお母さんと一緒に買い物に行き、「何でも好きなお菓子を買ってあげる」と言われ、色々な色のつぶつぶに魅了されマーブルチョコを選びました。家に帰ってその未知なるチョコを食べようとしたその時、当時8歳の兄に「マーブルチョコの黒いやつは毒だから食べると死ぬよ。」と言われたのです。
今思えば、買い物に一緒に行かなかった兄が少しでも私のマーブルチョコのおこぼれをもらおうという作戦だったのですが、そこは4歳。お兄ちゃんの言葉をそのまま信じ込み、黒い色のマーブルチョコだけ食べずに捨ててしまったのです。
それからの私はしばらくの間黒マーブルだけ捨て続ける事に疑問を憶えるようになり、黒マーブルを机の中一杯に貯めていました。
それから1年ぐらい経ったある日、ふとあのお兄ちゃんの言葉はもしや嘘だったのではと思い、1年間貯め続けたマーブルチョコを金魚の水槽へ大量投げ入れるという実験を試みたのですが、そこは金魚。みるみるうちに水槽は黒ずんでいき、金魚は仰向けになり、プカプカ浮いたさ。私は「お兄ちゃんの言葉は本当だったんだ」とますます信じたさ。
「金魚さんごめんなさい、毒を入れてしまいました。」と泣きながら庭に埋葬した私は、金魚さんに死んでお詫びをしようと考え、自ら黒マーブルを大量に服毒したのですが、死ぬはずもなく、死ねずに泣いている私の所にお兄さんがやって来たので事情を説明すると、いとも簡単に「ああ、あれウソ。」と否定。
私の黒マーブルでマインドコントロールは、金魚さんの犬死にで幕を閉じたわけですが、今でも「ひょっとしたら100万粒に1粒の割合で死ぬかも…」と思い、黒マーブルを食べれない。
(相模原・PN:月刊ピングー増刊号)
あれは小学校2年生の頃、押しボタン信号のボタンを連射すると早く信号が変わるという、全く今思うとアホみたいな事が流行の最先端でした。
そしてこの流行に乗っ取り、大浦君が今のハドソン社長の「高橋名人よりも速く撃てるぜ!」全く見え透いた嘘を言っていたのです。
皆、マインドコントロールされていたんでしょうか。未だに大浦君はボタンを連射すると早く信号が変わる事を信じています。
(徳島県鳴門・PN:福耳)
かなりたくさんいると思うんです。小さい頃、自動販売機の返却口を調べまくっていた人が。僕もそんな中の1人です。
初めは小遣いの足しにという感覚でしたが、段々それを当てにするようになり、お金を持たずに家を出て途中の販売機で100円ぐらい見つけ、なかったら販売機の下の隙間を調べてから駄菓子屋に行くようになっていました。
そのうちそんな僕に同胞が3人現われ、4人グループを結成しました。誰かが見つけたらそれを4等分という、平等なようで良く分からない制度まで作り、もう気分はトレジャーハンター。
その4人でいつものように探して下校していたある日、僕は500円1枚、100円2枚、50円1枚、10円2枚、合計770円をビールの販売機で見つけました。
わざわざその酒屋に入り1円単位まで崩してもらい、4等分して192円。残りの2円は見つけた僕の分で、770円も見つけたのに僕の取り分は194円。何か納得が行かず、僕はそのグループから脱退し、ソロ活動を開始しました。
『ビーボ』と書いてあった自販機のコンセントを抜いておいたら、次の日コンセントは元の状態で挿してあったのですが、たまたま返却口から100円玉が見つかり、調子に乗って何日も『抜く』『戻っている』『ない』『また抜く』『戻っている』『ない』を続けているうちに遂に店の人に見つかり、「何でこんな事するの?」と説教をくらい、「電気代の節約のためですと」言い訳をして以来、もうやらなくなりました。
(PN:フルーツドロップ)
96.3.11 放送 (第23回) |
女の子なら誰でも通った道、それはリカちゃん。
中でも私のリカちゃんハマリっぷり、いや私のリカちゃんなりきりっぷりは正気の沙汰ではありませんでした。
当時金持ちだった私は、お年玉全てをつぎ込みリカちゃんを3体買い、気に入ったリカちゃんから順に良いリカちゃん、悪いリカちゃん、普通のリカちゃんと名付け、なぜか欽ドンのコント風にリカちゃんを動かしていました。
そんな事をしているうちに、私は自分も『不幸な星の下に生まれてきたリカちゃん』と名乗り、『セイントフォー』ならぬ『セイントリカちゃんズ』というグループを結成し、どこに行くにも『リカちゃんズ』と一緒でした。
しかしいつの間にか『セイントリカちゃんズ』のメンバー、普通のリカちゃんがソロ活動で王子様と結婚するなどとほざく夢まで見るようになってしまい、それが許せない私はロケット花火で普通のリカちゃんを爆破。
その一部始終を目撃していた残りのリカちゃん達の口を封じるために、良いリカちゃんを水溜まりに沈め、悪いリカちゃんを自転車で轢き、3体まとめて埋葬し自分が勝ち残ったリカちゃんになるという事で、マインドコントロールから覚めた私こと現在のスーパーモンキーズの気持ちが良く分かる今日この頃です。
(PN:月刊ピングー増刊号)
私が小学生、あれは小学校2年の頃、燃えないゴミの中からまだ使える物を拾い、それを宝物のように思っていた時期がありました。
最初のうちは針金ハンガー(大人には見えない扉の鍵と思い込んでいた)、ねじ(43mのロボットを作るための部品だと思い込んでいた)などを拾っていたのですが、そのうちゴミ箱の周辺の物は拾っても良いルールというのが成立してしまい、植木や自転車を拾うようになっていきました。
そしてある日、友達のK君が箱、しかもファミコンソフト『ドンキーコングjr.』と印刷された箱をたくさん持ってきました。K君曰く「道に落ちていたから持ってきた」というので、僕たちは何とも思わなかったのですが、あれは立派な窃盗でした。
その日から僕たちはトレジャーハンター、今で言う蜘蛛霧仁佐右衛門一家となっていったのです。
近くの倉庫に落ちていた台車を『スーパーブルドーザー』と名付け、店先に落ちているダンボールを片っ端からスーパーブルドーザーに載せ持ち帰るという行為をしていました。
その時には何とも言えない快感とスリルがありましたが、盗みという意識は不思議な事に全くありませんでした。
この洗脳が解けたのは、K君がネスカフェのコーヒーのダンボールをスーパーブルドーザーに搭載させようとする時に店の主人に見つかり、顔面をボカンボカンと殴られ物理的にキツい顔になったのを見たからです。
あの時のお宝は学校の理科室に隠していましたが、今はどうなっているのか分かりません。
(PN:華原朋美のマネージャー with K.春樹)
96.3.4 放送 (第22回) |
虫が好きな子供はたくさんいます。
昆虫博士的な純粋な虫好きと、ガチャガチャに入っていたスタンガンを小さくしたような軽い電流の流れるおもちゃで「残念だがお前は電気椅子の刑だ!」と言ってバッタやコオロギの体に電流を流せて弱らせるような、虐待的に虫が好きな人が2パターンいると思います。
僕はもちろん後者です。
ある暑い夏の昼下がりの事、僕が外で霧吹きで虹を作って遊んでいると、家の壁をアリが数匹はっている事に気が付きました。
すかさず手にある霧吹きをシャワーモードから直噴モードに替え、アリを目掛けて乱射。何度撃ち落とされても虫けらのようにはい上がって来るアリたち。
僕が悪の爽快感に浸っている所に姉ちゃん登場。本来なら「そういう遊びは止めた方がいいわよ」と来る所が、どうやら姉も僕と同じ正反対ムツゴロウだったらしく、「面白そう、あたしにもそのたけし城をやらせて。」
姉は10分ほどで飽きたのですが、僕は物足りなさを感じていました。
そして地面に穴を掘り水を溜め、手当たり次第にアリを投げ込み、泳ぎの上手いアリだけを助ける『水泳スクール』という遊びや、そのプールに細い糸を垂らし一番初めによじ登ってきたアリに『カンダダ』という名前を付け、2人目が登ってきたら「この糸は俺のもんじゃ!勝手に登ってくるでねぇ」とカンダダが言っている事にして、カンダダの目の前で糸を切るという『蜘蛛の糸ゲーム』に発展していました。
その夜、水泳の下手だったアリ達の怨念によるものか高熱を出し、夏風邪をひいてしまいました。
それ以来僕はアリの怖さを知り、アリに対して手を出さなくなりました。
代わりにトンボの羽ちぎりは始まりましたとさ。
(青森県・PN:フルーツドロップ)
なぜあの時私は、あんなにも狂おしく彼を求めていたんだろう。彼とは、スーパーの食料品に貼ってある、値段のシールの事です。
小学校1年生の頃、何を血迷ったかこのシールを溺愛していて、サンリオのキキララちゃんのメモ帳に1枚ずつ奇麗に並べて貼っていました。
ところがこの密やかな楽しみに妹が参入してきた事で事態はエスカレートします。
シールをコレクションするという当初の目的はどっかに吹っ飛び、買い物から帰ってくる母親を玄関で待ち伏せて買い物袋を奪い合い、先を競って値段の高いシールを取ってはおでこに貼りつけ、「あんた148円?やっすーい。私398。」などと自らを商品と化したり、そのうち値段シールだけでは飽きたらず、『特売』や『広告の品』などのシールにまで手を広げてしまい、最後にはリンゴにかぶせてある変な白い網や長ネギに巻いてあるセロテープを後生大事に持っていました。
それほど夢中になっていたシール集めも、妹に勝ちたい一心から道を踏み外し、自らスーパーに出向いて片っ端からシールを剥がしている所を店員に見つかった事で、あっけない結末を迎えました。
それにしてもなぜあの時、私はあんなにもおかしくなっていたんでしょうか。やはりマインドコントロールされていたんでしょうか。
だとしたら一体、誰が何の目的で…?
(東京都葛飾・PN:ビリンダ)
今晩は伊集院さん。早速ですが、僕もマインドコントロールされていた時期がありました。
当時中学校2年生の僕の周りはもう何が何でもガンダム。きらめく青い初夏の教室では皆その話で持ちきり。
僕のクラスでも盛り上がっており、クラスの番長格でもある僕が心でひっそり呼んでいた『ドム』こと石橋君が「皆、俺様がジオラマを作るから3日以内にガンダムのプラモを1つ以上持ってこい。」
持ってこないととてつもなく痛い目にあうため、ドム以外のクラスの皆はくじ引きで何を買うかを決めました。
僕は出来れば自分の欲しいやつが当たればいいなあと思っていました。前から引いたやつはガンタンク、ギャン、ジム、ガンキャノン、戦艦ムサイなどどうでもいいキャラクターを出し切っていたため、早速僕の番。出た物はジオングでした。
最初は「やったー」と喜んだのですが、そいつがまたとんでもないやっかいな奴で、ジオングはシャア専用ゲルググと同じぐらい入手困難。しかもその月はゲームウォッチ『、オクトパス』を買ってしまったため、お小遣いが底辺をついていました。
お金が無い事と入手困難な事を友人に相談した所、卓球部の寺田先輩にお願いするといいとの事。
早速寺田先輩に相談。献上金200円を払い、お金の稼ぎ方とプラモの入手ルートを聞き出し、家に帰り近所の家からコーラの瓶を拝借。10軒ほど探したのですが15本ぐらいしか集まらなく、一時退却。
仕方なく家に帰ると4歳の、まだガンダムの何たるかを知らない妹が待機していました。何かと思いきや「遊ぼう」と言ってきましたがそこは僕、うまく振り払い、とりあえず自分の部屋に。
後でママさんにお小遣いの前借りのことを言うと、「妹と遊んでやればお小遣いをやるざます」との事。
仕方なく妹の小聖(こせい)を連れて行き、江戸川区は鹿骨の遠藤模型に電話。
「もしもし、ジオングが欲しいんですけど。」と言うと、「それじゃですね、抱き合わせなんですけどロボダッチと戦艦ムサイ、どっちがいいですか?」とおっしゃいました。「それは何?」を言わせないばかりに「どうすんの?こっちは忙しいんだから。早くしてよ。」「えっ、ロボダッチって何?」「なくなるよ!」「えっ、じゃあムサイ。」と言ったのですが、「あごめんちょっと待って、今ムサイなくなったから。えー、ということでお待ちしてまーす。」と僕の会話はフェードアウト。電話を切ってしまいました。
僕は渋々その模型屋を妹の手を引きながらやって行きました。そこはまるで凄まじい長蛇の列。真っ昼間の午後1時、日陰なしの炎天下。
僕と妹はもうろうとなり半べそかいて立っていると、妹が「アイス買って、アイス買って」とダダをこねました。
僕は妹の手を引き、とりあえず後ろの方の順を取ってもらい、アイスを買いに出かけ安いアイス(四角いホームランバー、1本30円)を勧めたのですが、妹は「これがいい」とカネボウアイス『宝石箱』をすかさず手に取り勝手に食べてしまいました。
渋々妹の頭をぶっ叩きながらプラモデル屋に戻るとすぐにプラモデル屋に入れる状態になっていました。
おばさんに「滝沢ですけど、ジオングの予約で…」と言うと「予約連絡で50円頂きますが」と言われ、渋々プラス50円と埃の付いた抱き合わせの4個パックのロボダッチを引き換えにお金を渡した所、妹が突然胸やお腹などをさする化学反応を起こしました。
「何だ、どうしたんだ」と心配しながら聞いてみると、「どうもコアファイターのあたりが痛い」とのたまわり、店の中で唸りながらガンダムになった妹はそのままのた打ち回り、病院に運ばれて行きました。
妹の病名は古いアイスを食べての食中毒という事。
色々ゴタゴタがあり、やっと自分の部屋に戻り、やけくそにお約束のガンダムカラーを吸いながらプラモを作りました。
僕は結局600円のプラモを買うのに対しロボダッチ300円、妹のアイス100円、先輩へ200円、予約代50円、救急車に連絡した10円、合計1300円弱がかかってしまいました。
次の日、石橋君はその事が友人の田原君にチクられて先生にこっぴどく怒られ、ガンダムはそれ以降禁止になってしまいましたとさ。
(東京都足立区・PN:滝沢みない)
96.2.26 放送 (第21回) |
小学校ぐらいの時って、有りもしない物が見えるじゃないですか。いや、あると思い込んでいるうちに見えるようになった…そんな記憶はありませんか?
小学校1年の時、私には透明人間が見えていました。私だけではありません。当時の仲良し、ゆきちゃん、えみちゃん、ようこちゃんを始めとする1年3組の女子の大半がこの言わば集団催眠にかかっていたのです。
事の起こりは、私たち4人の何でもない会話の中の「透明人間がいたら楽しいよね」という誰かの一言でした。
話しているうちに私たちの透明人間熱はどんどん高まり、しまいにはその熱によってこんな重病に犯されていたのです。その名も『私たちには透明人間の友達がいると思う病』。
その日から、この透明人間はアメリカ出身、9歳の男の子、リンゴが大好き、テレパシーで会話するから英語は喋れなくても平気等、各自で考えた透明人間像についての意見を交換し合い、練りに練ってとうとうジミーとチャッピーという2人の透明人間を完成させたのです。
ジミーとチャッピーのねぐらは我が家の物置に決定し、学校が引けると速攻物置前に集合。4人で開発した呪文を唱えて2人を呼び出し、4人、いや6人で日暮れまで遊び倒したものでした。
日を追うごとに私たちの病は悪化していき、2人の透明人間は学校にも顔を出すようになったのです。
例えば自習時間、何気なく窓の外を眺めて一言「あっ、ジミー来てる。」例えば体育の時間、縄跳びに引っかかって一言、「もー、チャッピーが邪魔するから。」
幸い私たちは小学校1年生。クラスの友達の反応もとても暖かく、言われる事は決まって「私にもジミーとチャッピーを紹介して。」
このように『透明人間見える病』患者は着々と増えていったのです。
しかし事件が起きました。「意地悪するから紹介してあげない」とのけ者にしていた日置さんが先生にタレ込んだのです。
主犯格の私たち4人は職員室に呼び出され「そういうウソはやめなさい」。4人とも目が覚めました。
意外とあっけない、透明人間の最後でした。
(千葉県柏・PN:ごみ。)
僕が幼稚園に通っていた頃、同い年のまさひろ君と2人で同時に悪魔のマインドコントロールにかかっていました。それは、毒作りです。
初めはかわいい物で、缶の中に水や虫、草花を入れて混ぜる程度の物でしたが、火の技術を覚えてからかなり本格的に虜になっていきました。
油を持ってきて虫を炒め、そこにおしっこを注いでグツグツ煮るともう魔法使いのおばあさん以上の悪心地。
それからボヤ騒ぎを起こして火を使う事を禁じられましたが、毒への情熱は増すばかりでした。
そしてそれは行きつく所まで行ってしまうのです。
僕たちの中で最高の毒の素材はおしっこだったのですが、他に何かないかと考えていると、まさひろ君が変わった色、臭いの液体を持ってきました。
この2つの液体をメインにした毒は今までの毒とはちょっと違う物でした。その毒を虫にかけると本当に弱っていくのです。
その直後、それが農薬である事が親達にバレ、毒作り永久禁止命令が出るまで、2人は本当の毒を作ったという感動でいっぱいでした。
親には1リットル瓶に一杯入った毒の隠し場所を泣きながら黙秘し、それから時々過去の栄光を眺めて楽しんでいました。
(秋田県・PN:ゲーリーヒッピー)
皆さん、僕のミニ四駆に酔いしれていた頃の話を聞いて下さい。
当時小学校4年生だった僕は連日連夜、参考文献である所のコロコロコミックを読みながらいかに速く、カッコ良くなるかを研究していました。
当時の1ヶ月の研究費用は僕の一月のお小遣いの2倍から3倍。足りない分はおじいちゃんの財布からでした。
ミニ四駆に乗れそうな気がしてきた最盛期には、女の子がぬいぐるみと一緒に寝るようにミニ四駆のバンパー部分を頭に見立てまくらの上に置いてやり、ボディには寝冷えをしないように布団をかぶせてやって一緒に寝たり、モーター音がミニ四駆がしゃべってるように聞こえたりしてしました。
更に当時ミニ四駆を題材にした漫画の中のセリフに「ミニ四駆はおもちゃじゃない」というものがあり、そのセリフに僕もいたく感動を受け、親に「この車のおもちゃはお前のか?」と言われた時には真剣に腹が立ち、親の車のボンネットに油性ペンで「これはおもちゃ」と書くほどミニ四駆に忠誠を誓っていました。
しかしある日、兄の「でもミニ四駆って曲がらねぇんだろ?」というセリフに僕はハッとしました。
「乗れない!」
そして1年半もの間ずっと抜け出せなかったバミューダミニ四駆地帯から抜け出す事ができました。
その日以来コロコロコミックはまとめてどこかへ消え、ミニ四駆の全ての部品はなぜかイチコキャンディーでべとべとになっていたおもちゃ箱に放り入れられていました。
あんなに忠誠を誓っていたはずのミニ四駆を、どうして「曲がれない」という本人も分かっていたはずの事を指摘されただけで裏切ってしまったのか、未だに不思議です。
(青森県・PN:フルーツドロップ)
96.2.12 放送 (第19回) |
誰でも1度はマインドコントロールされた事があるでしょう。
ハイジのブランコ。
私のブランコ憧れっぷりは並大抵のものではありませんでした。公園に行けば必ずブランコへ直行。ハイジのテーマを口ずさみながらブランコを漕ぐんです。その時の私は、ハイジでした。まさにハイジでした。
私の目にはあるはずの無いアルプス山脈や、馬鹿ヤギの群れが見えていて、近日中にはクララを招く予定でした。
しかしいくらブランコを漕いでもクララが来るはずもなく、私のブランコのテーマは「いつかクララを迎える」ということから、「いかにハイジっぽくブランコを漕ぐか」に変わっていったのです。
皆さんご存知の通り、ハイジのブランコはブランコの紐が天井から伸びてボイジャー2号のように右から左、左から右へハイーハイーと投げるものです。
私は来る日も来る日もハイーとブランコへ乗り続けました。頭の中に妖精が住もうが無重力状態のブランコを楽しみ、顔をハイジというより向井千秋にさせていました。
そんなある日、いつものように調子に乗ってハイーとなっていた私は、お約束のようにブランコから落ち、私の、いやハイジのマインドコントロールは覚めたわけですが、今思えば自律神経がおかしくならなくて良かったなと感じています。
(相模原・PN:月刊ピングー増刊号)
昔、俺らの小学校では、朝一番に教室に入った者にはその日1日『神の足』として、クラスの皆から称えられるという名誉が与えられていました。
そんな物が全校生徒800人のうち約70%によって競われていたのでさあ大変。
昇降口の開く3分前、午前7時50分の昇降口前はまさに…。
想像してみて下さい。3日間の断食後、オリの外にバケツ一杯のサツマイモを見つけた猿の群れ。それです。もちろん当時はまだ若かった僕もそんな猿のうちの1匹でした。
色々ありました。
裏口(職員用昇降口・生徒使用禁止)からこっそり入ったり、ドアのガラスを破り自ら鍵を開けて乱入しては、先生と共に1時間目の始め、1番最後に教室に入る羽目になったり、それほど『foots of the god・神の足』の座に憧れ、執着していました。
時にはタッチの差でガキ大将豊田君に破れ、悔しさの余り大喧嘩を巻き起こした事もありました。
そんな俺も6年生になり、テレビ東京のゼータガンダムの再放送を見始めると、それまで血涙を流すほど執着していた神の足の輝きは、Jリーグブームの如くあっさりと消え去っていったのです。
が、今思うとあの地獄絵図も来たるべき受験戦争に備え、非情な競争意識を植え付けるための教員側の先導によって引き起こされた物と思わずにはいられないのです。
もしかしたら、俺があれほど追い求めた神の足の座も彼らのマインドコントロールによる幻影に過ぎなかったのでしょうか。
(八王子・PN:ウルトラトド)
これは5年ほど前、僕がSDガンダムに惹かれていたと思われる話です。
当時僕の周辺ではSDガンダムが凄まじい人気で、具体的にいうと近所のプラモ屋で2代目ガンダム大将軍のプラモデルがうさん臭いロボットらしきプラモと抱き合わせで価格300円増しで売られていたほどの事です。
当然僕も買っていたのですが、今考えると組み立てて30秒ほど眺めた後、おもちゃ箱に無造作にぶち込み、そのまま2ヶ月ほど埃をかぶってから見てみるといつの間にか壊れているので捨てるを繰り返していただけなのに、なぜ少ない小遣いをつぎ込んでいたのかわかりません。
また、20円投入してカードを引く『カードダス』では、大当たり的存在のプリズムカードが20枚から25枚に1枚出るという法則を読みだし、年下の子に20枚ぐらい引かせておいて、「いわすぞコラ」とばかりに脅して割り込み、計算通りプリズムカードを引いて嬉しくなる、そして愕然とする割り込まれた子供の表情を楽しんだりもしていました。
やはり、某P社のマインドコントロールで『ぼったくって懐ホクホク、僕も貴様も大ハッピー化』の人達にやられていたのでしょうか。
(埼玉県熊谷・PN:チョダンダンビッジー)
96.2.5 放送 (第18回) |
私は割とアニメなどを見なかったのでよく知らなかったのですが、中2の初めに『キャプテン翼』に出会いました。
もうとっくにブームは過ぎていたのに、私は松山君のファンになり、透明の下敷きにネームペンで松山君を写し常にそれを持ち歩き、それを机から床に落とした先生に「先生、松山君に謝って下さい」と叫んだりもしていました。
夢に何度も見、松山君を幼い頃殴った日向には漫画の紙の上から制裁を加えたりしていました。
高校進学も松山君のいるふらの高校に行きたいと言い出し、親を困惑させ、自分の事を本名ではなく『松山』と呼ばない限り振り向かず、周りをも巻き込むハマリっぷりでした。
しかし高校に入ってからというもの、さほど熱狂的ではなくなってきました。
マインドコントロールが自然に解けるという事があるんでしょうか。
(荒川区・PN:コビー)
今日は僕の現在進行形のマインドコントロールの話をします。
以前伊集院さんが「FMでギャグ抜きのフランクなトークをしている俺をなじってくれ、俺はダメ人間だ」と言っていましたが、そんなに自分を責めないで下さい。僕も伊集院さんに負けないダメ人間です。
普段は伊集院さんの番組に、やれ「へそ毛を抜いていたらへその中から大ナマズが釣れた」だの、やれ「肛門にマヨネーズの容器の口を装着するとチョリトスみたいなクソが出る」だのといったハガキネタを書いている僕ですが、実は三浦理恵子ちゃんの大ファンで、まさに今マインドコントロール真っ最中なのです。
先日ふと、汗っかき面白ジャンボよりも三浦理恵子ちゃんのかわゆい声で自分のハガキを読んでもらう事に価値を見出した僕は、FMの理恵子ちゃんの番組に1つのギャグもなく、至って真剣で重い本物の人生相談や恋愛相談などのハガキを大量に書いて送ってみた所、その中の1枚、「過去の苦い失恋経験のために恋愛に対して臆病になっている僕の境遇を語った末に理恵子ちゃんの恋愛観を聞く」という内容のハガキが見事採用され、理恵子ちゃんはみのもんたの100倍は親身になって恋愛のアドバイスをしてくれました。
ところが、いざ放送に乗った自分のハガキを自分で聞いてみて、これは汗っかき面白ジャンボのリスナーが絶対やってはならないハガキだったことに気付き、赤面してしまいました。
せめて照れ隠しに、「P.S.」で乳輪の面積ぐらいは聞いておくべきだったと、後悔しています。
しかし僕のマインドコントロールは解けていないので今後が不安です。
(千葉県千葉市・PN:ガンビット)
96.1.29 放送 (第17回) |
私は小学校5,6年生の頃、ある品物にマインドコントロールされていました。
その品物とは、給食に出るバナナに6本に1本の割合で貼られていた、チキータバナナのシール。それをおでこに貼って喜んでいました。
最初のうちは給食をもらう列に早く並んでシールが貼ってあるバナナを選んで手に入れるという正当な競争が行われていたのですが、ずる賢さ&運動神経No.1だった私は、俊足を生かし、給食当番でもないのに4時間目が終わるや否や給食室にダッシュし、全てのバナナのシールをはがして顔中に貼り、ヒーローよろしく教室に帰還。
するとそれを見た当時は永遠のライバルだと思い込んでいた関君が号泣。
この問題は学級会で取り上げられる事になり、先生から「男だったら正々堂々と勝負してシールをおでこに貼りなさい」と真面目に説教されているうちに、何だか急激に馬鹿馬鹿しくなり、マインドコントロールから覚めました。
(埼玉県・PN:ロッドマン内田)
伊集院さん今晩は。今夜は僕の『土だんご』に振り回された1年の話をしようと思います。
あれはそう、僕がちょうど小学校に入学した頃でした。
家の近くに同級生がいなかった僕は、自然とマインドコントロールを受け入れてしまう環境にいたのでしょうか。一度土をつかんだその日から僕の頭には見えないヘッドギアがきつくきつく締められてしまっていたのです。その日から僕は猛然と土だんごを作り始めました。
しかし幾日か過ぎて、僕は何だか物足りなくなってきたのです。
その時です。見えないヘッドギアを通じて僕の脳に直接指令が届いたのです。
「究極の土だんごを作れ!お前が生まれてきた理由は、究極の土だんごを作る事だ!」
僕はハッとしました。ただ、漠然と土だんごを作っていた自分が恥ずかしくなりました。
その時から僕は土だんごの究極のイデアを追い求めるようになったのです。
『固い=強い』。僕はひたすら土だんごの英才教育に努めました。その時僕が考案した作り方は、バームクーヘンのように核となる小さな土だんごに少しずつ泥を重ねていき、1回ごとに1日陰干しするというもので、1つのだんごに2週間から1ヶ月かかっていました。
そうしてできただんごを僕は毎日毎日同じ高さから落としては、割れるだんごと割れないだんごを選別していきました。
そうして残った10個ほどのだんごを、僕は保管場所である靴箱の下から取り出してきては聖書やコーランを見るように毎日眺めていたのです。
最盛期の僕の土だんごへの信仰心は狂信的とさえ言えるほどで、お気に入りだった土だんごを踏まれた時など、家族に向かってエアガンを乱射した事をよく憶えています。
これほど土だんごにがっしりと脳をつかまれていた僕でしたが、意外にもあっけない決別を迎えたのです。
今ではその決別の理由をはっきりと憶えていないのですが、僕が泣きながら投げた土だんごが家の壁に当たってはパカッときれいに割れる様子が僕の脳裏に今でも浮かんでくるのです。
こんな土だんごに夢中になった僕ですが、これは伊集院さんおっしゃる所のマインドコントロールでしょうか?
(東京都多摩市・PN:たいのしっぽ)
96.1.22 放送 (第16回) |
小学生時代に皆がマインドコントロールにかかる物の王様といえば、やはり牛乳キャップでしょう。
給食の瓶牛乳の日のキャップに見飽きた同級生等は、最先端のキャップを求め駅の牛乳スタンドやスーパー、コンビニ、さらには銭湯にも旅立っていったのです。
同級生はコーヒー牛乳やりんごジュース、少し先端を行く奴はマミー、パンピーといったマニアックな物を持っていました。
しかし私は反則技とも言える、大きさが普通の牛乳の約2倍の瓶のヨーグルトの蓋を持っていったのです。
牛乳の蓋は当然バトルをするための物。メンコと同じ要領で2枚を先にひっくり返した者の勝ちであり、連戦連敗の私はヨーグルトの蓋で起死回生を計りました。
相手は牛乳の蓋のタイトルホルダーこと中村君。彼は蓋を真っ平らにする技術をとり、さらに黄金の人差し指であっという間に2枚をひっくり返したのです。
結局私が皆に自慢をする前に中村君に持っていかれた蓋は、中村君さらなるクラスの人気者になり、タイトルを不動のものにしていきました。
牛乳キャップのマインドコントロールは日が経つにつれフェードアウトしていき、マミーの蓋は今でも私の一服の清涼剤となっています。
P.S.うちのクラス特別ルールとして、真ん中の数字(製造日の日付)が1の物はプレミアキャップとして、裏に好きなデザインが出来るというルールがありました。
(PN:懐かしきHYU^2)
私が通っていた保育園では、冬になると毎朝9時に『ジンギスカン』の曲が流れ、園児は半裸になり踊りながら乾布摩擦をするという決まりがありました。
庭に集った園児達は『ジンギスカン』の曲に合わせて、まるで悪霊でも追い払うかのように「ウー、ハー!ウー、ハー!ウーハーウーハーヤッハハハホーイ!」と叫びながら乾布摩擦をしていました。
私ももちろん喉血を出さんばかりの絶叫で「ジーン、ジーン、ジンギスカーン!エーハラハーハラアーリャリャコーリャリャ」と自分で適当な歌詞を作って歌っていました。
今でも街で不意に『ジンギスカン』を聴くと、乾布摩擦をしたくてしたくてしょうがなくなるのは、あの時のマインドコントロールされていた名残だと思います。
(相模原・PN:月刊ピングー増刊号)
なぜ、あの時僕は人生の全てを『たま』に尽くしていたのか、不思議でなりません。
あの時小学校3年だった僕は、無け無しの金で『たま』の1stアルバム『さんだる』を買った。その中の2曲目の『オルガン』を聴いて、二晩眠れなかったのに。
シングル『オゾンのダンス』『夕暮れ時のさびしさに』を買い、あのカッパ頭の知久がミュージックステーションに出た時に、「トイレ中(しかも大)電話がかかってきた時は尻にトイレットペーパーを挟んで電話を取りに行った」などと言っていた時も、今の女子中学生がKinki Kidsを見るような目で見ていたり、石川浩司のランニングがけなされれば物凄い形相で怒っていたり、後の2人は何人?と思いながら見ていたのです。
なぜあの時、僕の頭脳は『たま』に支配されていたんだろう。
(岡山県・ラジオネーム:午後の烏龍茶)
96.1.15 放送 (第15回) |
あれは小学校2年の夏休み。
僕は当時1000個以上あったキン肉マン消しゴム(キン消し)を2チームに分け、1人で毎日毎日狂ったようにトントン相撲をやっていました。
ルールは勝ち抜き方式で負けたキャラは勝ったキャラチームに新たに加わっていくというものだったので、永遠に勝負は付かず。真夜中に1人でトントントントントントントントン…ウルフマンの勝ち!などやっていたものです。
これが伊集院さんのおっしゃる所のマインドコントロールなんでしょうか?
(秋田県・PN:あーらた)
今から数年前、『ビックリマンチョコシール』なるものが巷で流行っていました。
1個30円のそのお菓子は全国の小学生をその虜とし、挙げ句の果てには1箱買い占めするバカタレどもを生み出し、3、4年経つとパッタリと姿を消しました。
僕がそのシールに投資した額はおよそ10万円。
他の皆は中学生ぐらいになるとマインドコントロールから解けていきましたが、僕は『ビックリマンチョコシール』をやめるどころか、『あっぱれ大将軍チョコ』、『ラーメンバー』、『バムラツイスト』、etc.と何個ものマインドコントロールに続けざまにかかり、解けるのに長い期間を費やしました。
いまでもそのシール達は「いつか値が上がるだろう」と机の中に大切に保管されています。
(埼玉県・PN:ピコピコポン)
伊集院さんのガンダムブームの真っ只中、僕は完全に脳をジャブジャブと洗われていました。
僕はクールなシャアが好きで、友人は主人公のアムロの大ファンでした。こんな両者で巻き起こったのが『激突!ララア事件』という、O・J・シンプソン事件以上に物凄い事件でした。
「ララアを殺したのはシャアなんだよ」と友人が攻撃を仕掛けて来ました。
「なんでだよ。ガンダムのビームサーベルでララアは死んだんだよ」と僕が応戦。
「違うね、シャアは後ろにララアがいる位置で戦ってたんだ。シャア(注・話の流れからすると『アムロ』が正しいと思われる)はなあ、女を犠牲にするような戦い方はしないんだよ」
「アムロって奴はララアを殺す事で彼女を自分だけの物にしようとする、そういった奴なんだよ。」
こういった『激突!ララア事件』に数日を費やし、僕は10年来の親友と数年にわたって口を聞く事が無かったという。
ああ、洗脳ってやつは怖いねえ。怖い怖い。
(町田市・PN:じゅじゅ)