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自ギャグの詩
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注:97.8/18、97.8/25、97.12/15、98.2/23、98.4/13、98.4/20、98.6/8、98.6/15、98.8/17〜98.8/31、98.10/19はスペシャルウィークのため、98.6/29は時間がなくコーナーはなし。このコーナーは98年12月7日放送分をもって終了しています。
98.7/13〜98.10/12分のテキストは湊田 眞弘さんに提供していただきました。ありがとうございました。

追加(99.10.23)99.10.11〜99.10.18分
97年 7月 28日 8月 4日 11日
9月 1日 8日 15日 22日 29日 10月 6日 13日 20日 27日
11月 3日 10日 17日 24日 12月 1日 8日 22日 29日
98年 1月 5日 12日 19日 26日 2月 2日 9日 23日
3月 2日 9日 16日 23日 30日 4月 6日 27日
5月 4日 11日 18日 25日 6月 1日 22日
7月 6日 13日 20日 27日 8月 3日 10日 17日
9月 7日 14日 21日 28日 10月 5日 12日 26日
11月 2日 9日 16日 23日 30日 12月 7日
99年 10月 11日 18日

 99.10.18 放送 (第210回)  
(たまごっちエピソード)

 父親が十日間、神奈川県の問屋に通い詰め、頼みに頼み込んで1万円で購入したたまごっちを中学校に自慢げに持っていったところ、体育が終わると盗まれていました。
 1週間も経たないうちに、同じクラスの関口君が全く同じたまごっちを持っているのを見ましたが、何も言えませんでした。
 もちろん、頑張ってゲットしてくれた父に「盗まれた」とは言えず、なけなしのお小遣いで似た色の偽物を買って父にはチラチラ見せてごまかしていました。
 今も僕はこう確信できます。
 関口君が盗りました。

 (千葉県・ひろつぐ)

 たまごっち全盛の頃、僕はへびっちにならない方法や、超レアなすもうっちになる方法などをアドバイスする『たまごっち博士』として、それはそれは人気者でした。
 でもクラスのみんなには内緒にしていることが一つだけありました。
 それは、僕はたまごっちを持っていないという事です。

 そもそも、この先にたまごっちを手に入れた時のために覚えておこうと本屋さんに行っては最新情報を集めていたのが、ある日たまごっちを持つ人同士の会話に「それは、お菓子のやりすぎが原因だね。」と、雑誌に載っていた事をいかにも自分の経験談のように話してしまい、その評判がクラス、学年へと広がり、たまごっちを持っている人からも一目置かれる存在となったわけです。
 初めのうちは、「どうせ近いうちにたまごっちが手に入るだろうから、そこまで逃げ通せば大丈夫」と気軽に考えていたのが、ブームが加熱するに連れて入手はますます困難になり、しかもたまごっち博士としての威厳を保つための立ち読みによる情報収集などで、かなりの時間やお金を使うようになったため、次第に後には引けない状態になってきました。

 そして2年前の5月、英語の時間の時、事件は起きました。
 新種発見のうさみみっちを育てていた小川君のたまごっちが授業中、ピコーピコーと鳴ったのです。
 小川君のたまごっちはもちろん没収。
 しょんぼりする小川君に、「授業中はさぁ、時計のモードにしてさぁ、ウェイトにしておくのが基本だろ?育て方がなってないよ。」と、博士らしい嫌味の入ったアドバイスをしたのが大失敗でした。
 カチンときた小川君はこんな事実無根な戯れ言を叫びました。

 「んだよテメェ、持ってねーくせにうるせェんだよバカ!」

 バレていました。
 廊下を伝わって学校中に響いたのではないでしょうか。

 次の休み時間、しょんぼりする僕に友人の宮坂君が、
 「あんまり気にすんなよ。お前ほんとは持ってねーなんてみんな知ってたから。」

 その日は早退しました。
 その後どうやって時間を潰して帰宅したのか家に帰って何をしたのかはまるで憶えていませんが、ただ、立ち読みで一生懸命集めた情報をメモした、表紙に『ノートっち』と書かれたノートは、数ページ破り捨てられた形跡があるものの、今でも僕の部屋にあるのです。

 (神奈川県・PN:お刺身食べ放題)

 たまごっちブームの真っ只中のある晩、中学に入ってからすっかり口を利くことの少なくなった親父が「会社の取引先の人が、たまごっちっつう奴をくれるらしいんだけど、欲しいか?」と、僕と弟に聞いてきました。
 もちろん答えは「YES」です。
 その晩は、「うん、それじゃあ二人とも、いい子にしてるんだぞ。」「オッケー、父さん!」などと会話をして、なんかドラマに出てくる家族みたいだなぁと思ったのをよく憶えています。

 ところが、待てど暮らせど、親父はたまごっちを持ってきません。
 催促しても、「取引先の人と連絡が取れないからまた今度。」とか何とか言うばかり。
 さらに、「それより、勉強してるのか?」などと付け加えてくるので、内心「たまごっちが欲しいから下手に出てりゃよ、親父面しやがって。」と思っていました(今思えば、親父だから親父面して当たり前なのですが)。
 日に日に元の、いや、前以上のどんよりとしたムードが親父と僕の間に漂い始めました。

 そんなある日、親父が帰宅するなり、僕と弟を居間に呼んで座らせました。
 「二人ともー、毎日、母さんの言う事は聞いているか?」
 何を言ってるんだと思いつつ、親父の横を見ると何やら小さな袋が。
 もしや。
 小学校3年の弟はワクワクし過ぎて体を上下に揺すりながら「お手伝いもしてるよ!勉強もしてる!」と、脳内麻薬が出っぱなしのご様子。
 正直、中学生の僕も少し脳内麻薬を出していたかもしれません。

 そして、ついに親父が差し出したのが、『ぎゃおっぴ』でした。
 そうです。類似品の奴です。
 一目見て「これはたまごっちじゃない」と確信した僕は、何だかボーッとしました。
 親父が「これは手に入りにくいもんなんだぞ。」と言っている声がスロー再生のように聞こえました。
 小学校低学年ならではの馬鹿さ加減で、偽物だというのにまだ大喜びの弟が、遠くにいるように見えました。
 ボーッとしていたのはほんの一瞬だと思いますが、僕には10分にも20分にも感じられました。

 ふいに時間の感覚が戻ったのと同時に、僕はキレてしまいました。
 ぎゃおっぴを床に叩きつけて、
 「ニセモンじゃねーかこのサギ野郎!」
 親父はぎゃおっぴをたまごっちだと本気で信じていた様子で、大変びっくりしていました。
 それでも収まらない僕は弟のぎゃおっぴまでむしり取り、床に叩きつけ、
 「てめーも騙されてんじゃねーよバカ!」
 裏拳で殴ってしまいました。
 物凄いことになってしまいました。
 もうこうなったら逃げ出すしかありません。
 それからその後の事はよく憶えてませんが、気が付いたら僕は、自転車で30分ぐらいかかる三鷹の叔父さんの家で泣いていました。
 お母さんが迎えに来たのと、三鷹の叔父さんが電話で親父に、
 「中学生っつったら、色々ある年頃だから。まさみち(親父の名前)も、理解してやれ。」
 というような会話をしていたのをよく憶えています。

 家族仲は、まだ2年も経っていないので重苦しいままです。

 (匿名匿住所)

 2年前の春のことです。
 少し仲が良くなってきたK君、T君、F君、僕、その他3人でたまごっちを買いに行くことになり、日曜日にわざわざ埼玉から渋谷に行きました。
 初めは普通に買う予定でしたが、考えていた以上に高価だったため、買うことができませんでした。(当時は1個1万円〜1万5千円ぐらい)

 結局みんなで牛丼屋に入りしょんぼり飯を食べていると、K君が、
 「おい、盗んじゃえ。」
 と言いました。
 しばらくの沈黙の後、T君が牛丼を見たまま、
 「パクッか。」
 と言いました。
 僕は黙って下を向いていました。
 他のみんなもあまり乗り気ではなかったらしく黙っていましたが、言い出しっぺのK君が、「じゃあさ、みんなのも取ってやるから。」と言ったので、結局他の全員は牛丼を見たままやる事になりました。

 そして会議の結果、駅から一番近いテントみたいな出店に行きました。
 そしてK君とT君は行動を開始しました。
 僕と同じくらいか弱いF君は近くで見張りをやるように言われましたが、少し遠くに離れて、
 「こ、この服いいね。」
 「…そうだね。」
 「何色好き?」
 「く、黒かな。」
 などとほとんど意味のない会話をしていました。
 遠くではK君がたまごっちを吊してあるプラスチックの紐をカッターで切って、1個2個とT君のバッグの中にたまごっちを入れていました。

 そして3つ目を入れる瞬間、事件は起こりました。
 テント裏で休憩していた外国人の店員がK君に気づいたらしく、「HEY HEY HEY!HEY YOU!」と叫びながら物凄く乱暴にK君を掴みました。
 そしてその横にいたT君も後から出てきた外国人2人に掴まれ、2人はテント裏に引きずられていきました。
 テント裏からは「Sit!」という外国語や、「カネダセー!カネダセー!」という片言の日本語が聞こえてきました。
 僕とF君ですが、
 「か、帰るか。」
 「…う、うん。」
 と短い会議を終えると、電車に乗りました。
 電車の中では、
 「へぇ、F、は、よ、洋楽を聴くんだ。」
 などと話をして帰りました。

 月曜日に学校に行くと、K君とT君がこっちを睨んでいました。
 それ以来3年近く、僕の友達はF君だけでした。

 (PN:ひとう紳士)
 99.10.11 放送 (第209回)  
(たまごっちエピソード)

 ブームも最高潮のある日、たまごっちが欲しくて欲しくてたまらない僕の耳に、「駅前のパチンコ屋にたまごっちがある、玉1万円分と交換できる」という噂が飛び込んできました。
 当時中2だった僕はパチンコ屋には入れないので、おじいちゃんに1万円を渡して「玉を買って直接たまごっちと替えてきて」と頼みました。
 日頃はほとんど口も利かない孫に頼りにされた事が嬉しかったらしいじいちゃんは、「まかせとけ」とばかりに家を出ていきました。
 僕もおじいちゃんがいて本当に良かったと思いました。
 2時間後にじいちゃんが帰ってくるまでは。

 たまごっちを一つだけ持って帰ってくるはずのじいちゃんは、景品をたくさん抱えて帰ってきました。
 お菓子に、変なウォークマンにCDと色々な物を抱えて帰ってきました。
 おじいちゃんは、たまごっちはもう既になかったので、店員さんに聞いて中学生の男の子向けの物を色々見繕ってもらったというような事を言っていたとは思いますが、そんな話を聞く冷静さは僕にはありませんでした。

 「この、泥棒ジジイ!なかったんなら1万円返せよ!そんなもの、いらねーよ!」

 僕はそう言ってじいさんを責めました。
 じいちゃんは何度も何度も、
 「ごめんな、じいちゃんは、もう、じいちゃんだから。」
 と言って、財布から1万円をくれました。
 僕は1万円をひったくるように取ると、自分の部屋で一人で少し暴れました。

 それからしばらく、じいちゃんの部屋の前を通ると、背中を丸めて子供向けの菓子をボソボソと食べているじいさんの姿が見えて、嫌な気持ちになりました。

 (埼玉県・PN:絶対匿名 コピーカード一番)
 98.12.7 放送 (第165回)  
 あれは僕が幼稚園の頃の事です。
 その頃、僕の幼稚園ではスキップが流行っていて、幼稚園の授業でもイスを円に並べて1人ずつスキップして自分の席に戻っていくなんというスキップの練習をする時間があり、誰かが考えたスキップ鬼(鬼がスキップして追いかけるというただそれだけの事、後は鬼ごっこと一緒)なんていう遊びができ、それが拍車をかけて当時スキップが出来ない人はつまはじきになっていました。
 僕もやっと微妙に早歩きっぽいスキップをマスターし始めて、飛び跳ねたくて仕方が無い年頃になっていました。

 そんなある日の事です。
 その日は雨。外で遊ぶ事ができないので、教室の中でレゴやままごとをしていました。
 すると友人のT君が「スキップ鬼をやろう。」と言い出しました。皆も「やろうやろう」ということで、スキップ鬼は始まりました。
 そのうち、友達改め性格の悪いT君が鬼になり、僕狙いで追いかけてきました。
 僕も早歩きから早走りのややスキップで逃げます。
 僕は必死になって、まだ休み時間前の授業で残っていたサークル上になったイスに飛び乗りました。T君もイスに乗ってきました。
 「ぐるぐるイスの上を回っていればT君がそのうちバターになるので大丈夫。」などと考えながら次のイスに移ろうとした瞬間、T君が僕の襟を掴んできて2人ともイスから転げ落ちました。
 僕の中の記憶ではイスを3つ重ねたぐらいの高さから落ちたような感覚でした。
 僕が先に起き上がったと思います。
 T君改め虎の方を見ると、うつ伏せになってぐったりしていました。
 「T君大丈夫?大丈夫?ねぇ大丈夫?」と起こそうと仰向けにした時に僕は「うわっ!」と大声を上げて飛びのきました。
 それにつられて教室中の子供たちがビクッと止まりました。

 T君の額から赤いバターが。

 頭血でした。
 注射の時に見た血より濃い色をしていてトロリとしていました。
 そして僕の声に気付いたようにT君が目を覚ましました。
 ところがT君が僕を見るなり、「おい、おい!お前血出てるよ。」と言って僕の額を手で抑えようとしてきました。

 そうなんです。ツイン頭血だったのです。
 僕は全然気付いていませんでした。痛みも血が出ていたのも分かりませんでした。
 T君も自分が頭血ってるのを分からないご様子で、僕に「ごめんね、ごめんね」と泣きながら謝っていました。
 それにつられてか周りの友達も僕の頭血に驚いたのか、カエルの合唱のようになぜか泣き出しました。
 そして僕も泣きました。
 その泣き声に先生たちが気付いて僕たちは病院に連れていかれました。
 僕の頭の中のイメージでは、暗い中にベッドが2つあって隣にT君が寝ていて、母親たちがいて、先生がいて助手がいて、「先生がさぁ、始めようか。」と言って頭を縫い始めた記憶があります。
 確か麻酔はしていなかったと思います。

 伊集院さん、ダブル頭血はダブル浅野よりは大丈夫なのでしょうか?

 (ラジオネーム:阿鼻叫喚)

 僕が小学校3年生か4年生の頃、ビックリマンシールが大ブームになっていて、僕も集めていました。
 あまりにも人気があったため、なかなか手に入れる事ができないという状態でした。当然、近所のスーパーでもなかなか売っていませんでした。

 しかし、あるコンビニだけは(コンビニとはいっても個人経営の24時間営業ではないタイプのもの)毎週水曜日に一箱入荷していました。
 1人3個までというルールがありましたがビックリマンシールを確実に入手できるスポットとして大盛況でした。
 学校にはお金を持ってきてはいけないというルールがあったので、水曜日は授業が終わるや否や家にダッシュで帰り、そのコンビニに向かうという日々を送っていました。
 しかし、あまりにも多い需要を一箱のみでさばき切れるはずもなく、行った頃にはもう売り切れてしまっている事がしばしば。
 また、何度か入荷しない事もあり、トップでやって来たビックリマン集めに命を懸けている少年が店の中で泣いていたり、こっそり誰か1人に全部売ったんじゃないか?と噂になる事もありました。
 そんな訳で、なかなか僕のコレクションは増えず、一箱に1つだけしか入っていないヘッドを見る事もなく、不満がたまっていきました。

 そこで、父に相談しました。すると父は「まかせておけ。」と自信たっぷりにいいました。
 夏休みの工作で「俺が手伝ってやろうか?」と言い始め、最終的には父一人で作った物が市のコンクールに入賞してしまう事があるほど行動力のある父が根拠の無い事を言うはずがありません。
 実際、流通関係の会社に勤めている父のコネは強大で、ある日本当にビックリマン一箱抱えて帰ってきたのです。僕は嬉しさのあまり何か叫んでいました。
 僕は父に感謝しつつ次から次へと袋を開けていきました。以前は出ると結構嬉しかった天使シールに対しても何も思う事はありませんでした。
 まさに至福です。至福の時です。そして夢にまで見たヘッド・魔将ネロが出てきました。
 「ぃやった。ぃやった。」

 翌日、皆に自慢しました。もちろん、父の力を借りた事は伏せていました。
 そしてヘッド1枚の陰に隠れている数十枚のシールの事も怪しまれるといけないので闇に葬りました。
 あくまで、たまたま買った物にいきなりヘッドが入っていた事にしました。
 「すげぇ、すげぇよ。」
 僕はヒーローでした。

 その後も甘い物に目が無く、ビックリマンチョコの味をなぜか気に入った父と、シールだけが欲しい僕の利害が一致し、何回も買ってきてもらい、次のヘッド・ヘッドロココに関しては2枚も手に入れる事が出来ました。
 余った1枚を友達の天使シール数枚と交換するという気前の良さを発揮するなどしてヒーローの地位は不動のものになっていきました。
 さて、ヒーロー扱いにもちょっと飽きていた頃、母にどうやって父がビックリマンを手に入れているのか尋ねました。母は言いました。

 「あ、あれね。お菓子の問屋さんが本当はどっかの店に売らなければいけない物を特別に回してくれているのよ。だから、どっかのお店ではビックリマンを全く入荷できないでいるの。」

 その言葉を聞いた時、あのビックリマンが入荷していなくて店で泣いていた少年の姿を思い出しました。とんでもない事を頼んでいた事に気付きました。
 「僕のせいだ。僕のせいだ。」と思うといたたまれなくなり、僕はその日、ビックリマンシール集めからスッパリ足を洗いました。
 父が一箱手に入れてから近所のコンビニに入荷しない事があったという事は時間の関係上有り得ませんが、確実にどこかの店であのコンビニと同じような状態になっていた、その事を思い出すと今でも辛いです。

 伊集院さん、僕は大丈夫でしょうか。
 今からその地域にビックリマンを配りに行くべきでしょうか。

 (PN:りゅうじ)
 98.11.30 放送 (第164回)  
 僕たちの小学校では、5年生の夏休みに臨海学校という行事がありました。
 最後の夜には花火大会とキャンプファイヤーを囲んでのフォークダンスがあり、片想いのIさんとペアになれるかもという淡い期待を1ヶ月も前から持っていました。
 手で持つ花火で大騒ぎした後、先生たちが打ち上げ花火を上げていました。
 しかし、僕の心はすでにフォークダンスに向かっていました。
 「早く花火よ終われ、早く花火よ終われ。」
 ただただそう思っていたのをよく覚えています。
 先生たちが打ち上げ花火のカスをキャンプファイヤーに投げ入れ始め、そろそろダンスタイムです。

 突然僕のランニングシャツの肩が爆発しました。
 女の子の悲鳴と男子の先生を呼ぶ声がして一時騒然となりましたが、幸い怪我も大したこともなく、僕は片想いのIさんとマイムマイムを踊ったんだ、そうだと記憶していました。

 が、先日押し入れを片づけていると当時の文集が出てきて、みんなの作文を総合すると実際は以下のような事が起こっていたという事になりました。
 体育の三浦先生がまだ不発のままの打ち上げ花火をキャンプファイヤーに誤って投げ込んでしまったらしく、それが僕の肩に直撃したそうです。
 それだけなら武勇伝の一つにもなって良さそうですが、フォークダンスは続行され、救急車が来るまでの間、僕は「フォークダンスがしたい、フォークダンスがしたい」というような事を繰り返し、駄々をこねて泣いていたそうです。
 翌日、ちょっとした手術が終わった僕に先生がお見舞いにきてゲームボーイとテトリスを持ってきてくれ、みんなに自慢していた。
 これを見て昔の記憶が全て繋がりました。
 僕は確か、「Iさんとフォークダンスをする、Iさんとフォークダンスをする」と心の限りもうろうとする意識の中叫んでいたと思います。
 しかし、どの作文にも正確に名前まで書き記している物はありません。なぜでしょうか。
 そして、左肩が血だらけになりながらもうつろな目で自分と踊りたがっている少年を少女はどう思ったのでしょうか。

 伊集院さん、僕の小学校の時の初恋の記憶は途切れたままなのですが、どうだったのでしょう。

 (PN:スナイパー)

 あれは、5歳の頃だったと思います。
 5歳といえば、僕に弟ができた年。弟が生まれて嬉しかった記憶があります。
 生まれて何日かは。

 弟が生まれてから両親は弟に付きっきりで、僕のことなど二の次、三の次、四の次、五の次でした。
 そんなかまってくれない日々が数ヶ月過ぎると、両親も僕の気持ちを少し分かってくれたのか、家族三人で遊園地に行く事になりました。もちろん、生まれたばかりの弟は抜きです。

 そして当日、弟は近くに住むおじいちゃんの家に預けられて、僕は両親と共に車で遊園地に行きました。
 遊園地に着いてからの二時間、とても楽しかったです。
 そしてお昼ご飯、母がいません。心配していると、すぐに戻ってきました。おじいちゃんの家に電話をかけていたようです。
 そして母はこう言うではありませんか。
 「帰りましょう。」
 理由は、弟が熱を出したからでした。
 僕はレストランの隅から隅まで、そして2階まで聞こえるぐらい大きな声で泣き叫び抵抗しました。
 それぐらい僕にとって、僕だけにとって大切な時間だったからです。しかし抵抗空しく、僕抜きの家族会議で帰る事に即決定しました。

 突然、僕は走り出しました。レストランを出てずっとずっと遠くの方に向かって走っていました。
 僕にはこうするしかなかったのです。
 両親を帰らせないためには、こうするしかなかったのです。

 そして僕は観覧車の裏側の樹の茂みに体を小さくして隠れました。
 そして待ちました。待って待って待ち抜きました。両親が来るのを。
 30分ぐらいしてアナウンスがありました。それは迷子の子供を捜しているという内容でした。
 もちろん、僕の名前が何度も繰り返されていました。
 ここで易々と出て行く訳にはいきません。
 しかも、弟のためなら帰ると言っているくせに、僕に対しては直接探しに来ないで放送に任せている事が許せません。
 僕は隠れ続けました。1時間、2時間、そして遊園地が終了する時間まで。
 なぜここまでしたのかは今ではよく分かりませんが、多分僕の僕なりの意地だったのでしょう。
 辺りが真っ暗になって段々不安になってきました。そして僕を見捨てた両親に対しての怒りもどんどんこみ上げてきました。

 と、その時、「ウ〜」という音と、無数の赤いライトと共に片手の指だけじゃ足りないぐらいの数のパトカーが遊園地の柵の向こうに見えました。
 「うわぁ、何かの事件かなぁ。こんなにパトカーが来るなんて、大事件だぞ。」
 と思いました。
 警察官たちは遊園地の中に入ってきて、探索し始めました。
 「何ぃ、大事件の犯人がこの遊園地の中に、逃げ込んだのか?」
 そう思ったのも束の間、事件は解決。
 警察官に僕が見つかり保護という形で解決。
 この時僕は、「こんなにたくさんの警察官を見るなんて生まれて初めてだ」という気持ちと、「犯人は僕だったんだ、このままじゃ死ぬ」という気持ちが半々でした。

 その後の事を本当によく覚えていません。
 ただ真っ暗な遊園地に赤いライトが光った時の景色がとてもとても綺麗だったという事と、泣いている顔と怒っている顔が同居した、滅亡の危機に瀕している人類みたいな母の顔だけは今でも忘れようと思っても忘れられません。

 伊集院さん、僕は大丈夫でしょうか。

 (PN:スリーブランチ 17歳)
 98.11.23 放送 (第163回)  
 あれは、僕が小学校4年生だった時の事です。
 これぐらいの時期の小学生といえばカブトムシやザリガニなど、生き物に非常に興味のある年頃で、その例に漏れず僕の周りの友人たちも毎日のように近くの川や林に小さな獲物を求めて駆け回っていました。

 そんなある日、小学校のクラス担任のK先生(中年女性教師)が、クラスの皆で何か生き物を飼いましょうと提案しました。
 クラスの男子たちは大はしゃぎでした。
 皆しきりに放課後ザリガニを捕りに行く約束や、クワガタがよくいる樹のポイントなどの懇談で盛り上がっていました。
 そんな中、僕は内心面白くありませんでした。
 当時の僕はいわゆる勉強や運動は苦手だが、何か面白いことを言ったりやったりしてクラスの皆を笑わせ注目されるタイプの子供でした。
 だからこういったイベントや運動会になると俄然クラスの注目は1年中ランニングシャツ姿の走るのがやたらに早い色の黒い男子や、あの樹とあの樹の裏には必ずクワガタがいるなどの昆虫の生態を知り尽くしたプチファーブルのような男子たちに集まり、僕の出る幕はなくなるのです。

 案の定翌日、クラスの男子の捕まえてきた腹に卵を抱えたザリガニがクラスに持ち込まれ、皆の注目を集めていました。
 「ねぇねぇ、このザリガニ誰が捕ったの?」
 「昨日川でM君が捕まえたんだって。」
 「すごーい。」
 普段虫やザリガニにはあまり興味のない女子たちですら、先生からの提案という事だけあって口々にすごいすごいを繰り返しています。
 僕は焦りました。
 「何とかしてM君や他の男子たちよりも凄い物を捕獲したい、そして皆の注目を集めたい。」
 そう強く思いました。
 その日の放課後、僕は1人で近くの川に新種の生物を見つけるべく出かけていました。
 しかし、いくら東京郊外、田舎とはいえそうそう珍しい生き物がいる訳もなく、1人河原の石をひっくり返したりする作業が続きました。
 そして、そろそろ腹も減ってきたし帰ってサツマイモでも食べようかなと考えている時でした。前方の草むらで何か動きました。
 近寄ってみて、僕はギョッとしました。ヘビです。
 しかも、当時うちのばーちゃんが「頭が三角で茶色いヘビはマムシっつって凄い毒があるから気をつけるんだよ」と、口を酸っぱくして言っていましたが、そのヘビは頭が三角で茶色でした。
 しかし、マムシといえど大きさは15cmか、それぐらいの子供のように見えました。
 「そうだよ。こいつ捕まえて持っていけば皆びっくりするよ。」
 僕はそう思い、近くにあった棒でそのマムシを軽く弱らせてから網ですくって持ってきたビニール袋に入れました。
 その日はそのビニール袋を庭の片隅に隠して、翌日学校に持って行きました。案の定クラスの皆は僕のビニール袋の中でぐったりしている小さなマムシに驚きました。
 「うっわすっげぇ、よく捕まえられたね。」「怖くなかったの?」などなど。僕はちょっとした英雄です。しばらくして先生が教室に入ってきてその騒ぎを見て、「今度は誰が何を捕まえてきたの?」「先生、N君(僕の事)がマムシを捕まえてきたんだよ!」「うわっ!」
 先生は短く悲鳴を上げ、そしてすぐ、
 「何をやってるんです!危ないからすぐに床に置きなさい!」と怒鳴りました。
 「大丈夫だよ先生、こいつ子供だし弱ってるし、多分開放して元気になったらなつくよ。」
 僕は言いましたが先生は、
 「こんな危ない生き物を教室で飼える訳ないでしょ。これは先生が後で山に放してきますからよこしなさい!」
 そう言って僕のマムシを職員室に持って行ってしまいました。僕は表面上がっかりしていましたが、内心皆に「ヘビを持ってきた凄い奴」って注目されたし、まあいいかと1人変な達成感に酔っていました。
 その日のお昼、給食の準備をしていると、校内放送。
 「ただ今、職員室内で、毒ヘビがいなくなりました。生徒の皆さんは、職員室に決して入らないで下さい。」というような内容の放送が流れ、学校中のあちこちの教室から「キャー」とか「ウワァー」とか悲鳴とも笑いともとれない声が上がっています。
 僕とクラスの男子数人は「ウォー」、半分笑い顔で奇声を発しながら職員室の方に見物に行きました。
 既に職員室の前には人だかりが出来ていて、男の先生が「近づくな、コラ!教室に戻れ!」と怒鳴っています。
 ふとその横で真っ青な顔でオロオロする担任のK先生を見た時、それまで人事のようにはしゃいでいた僕でしたが、急に嫌な気持ちになり、とぼとぼと教室に戻りました。

 それから1週間ぐらい経って、マムシは職員室に積んであった油粘土の下から死体で発見されました。
 僕の父と母は学校に呼び出され、K先生に泣きながら注意されたそうです。
 もちろん、その後に僕が泣いたのは言うまでもありません。

 伊集院さん、マムシを持ってきたのは僕です。
 でも逃がしたのは僕じゃありません。
 なのに今もこの事を思い出すと、あの時の真っ青なK先生の顔を思い出すと、嫌な気持ちになるのはなぜでしょう。
 そして僕は、僕は大丈夫なんでしょうか。

 (ラジオネーム:激痛)

 子供の欲望の中でエロ以前に目覚めるものといえば何でしょう。
 はなきんデータランドの調査によると、9割以上が食べる事と出ていたとかいないとか。
 とにかく、あれは小学校高学年の時の事でした。
 友人と学校の校庭で遊んで帰る時、当時学校の周囲の斜面に植えられていたツツジに目が止まりました。
 PTAか何かが植樹したものらしく、植え込みはそりゃあ鮮やかな赤と白でした。
 その時、友人の1人がその斜面を上りツツジの花をむしり始めました。そしてその花の下部(分かりやすく言うとガリバートンネルの出口)を口に当て、おもむろに吸い始めたのです。
 この行動を一通り終えた友人は「甘いぞ、甘いぞ。吸ってみろよ。」と言ってきました。
 それに対して当時クラス委員まで務め、正義感の固まりだった僕の心には、
 「せっかく大事に育ててるのに、そんな暴挙は出来ないよ。許せないよ。注意しなきゃ。」
 ちょっと青臭いけど、爽やかな甘みでした。
 友人全員で1つ2つの花を堪能すると帰宅しました。
 その後僕のグルメ調査により、赤い花はあまり甘くないダミー、白い花でも良い感じに育たないと甘くないという結論が出ました。
 その後先生とかには決して言えない、シークレットブランチの虜となった僕は、この秘密を誰かに教えたくなり、他の友人達にも教えたりしていました。
 ところが、誰も乗ってきません。人の物なら何でも欲しがるHやMまでもが怪訝な顔をして拒否するのです。
 なぜだろうと不思議に思いましたが、原因はすぐに分かりました。

 翌日の朝会、校長のトークによると「ツツジの花がほとんどむしり取られている。せっかく父兄の皆さんが(中略)。やった者は素直に名乗り出るように。」

 問1.名乗りましたか?
 問1の答え:いいや。

 しかもその日も部活の帰りについつい摘まんでしまいました。
 吸い終わって良くその跡を見てみると、そりゃあ怒るだろう、そりゃあ気付くだろうぐらいのパンチョツツジになっていました。
 幸い密告する事も無く、この事も、そしてツツジブランチの事もやがて忘却の彼方へと去っていきました。
 が、ついこの前、この閉じ込めておいた記憶がパカッと開き、新しい知識と化学反応を起こし、いや〜な臭いがしてきました。
 スーパーの新古本セールで見つけた死に至るもの百科なる毒物の本を買って読んでいる時の事でした。
 「レンゲツツジ:全株有毒。けいれん毒が含まれ呼吸停止を起こす。」
 あれ?
 「日本各地の市街地に広く分布。最もポピュラー。」
 あっ、でも、まさか同じ種類じゃねぇ?
 この絵おんなじ。
 そこに書かれていた事を抜粋すると、動物に対する毒作用が強烈。害虫駆除にも使われた程のポイズンぷりが明らかにされています。しかしそれ以上に目を引いたのが、親は子供たちにツツジの花の蜜を吸ってはいけないと注意をしていたという言葉。
 「八手の葉で弁当を包んだ人が死んだ」「野グソ中に肛門からヘビが侵入した人が死んだ」、そういう話を良くしてくれていた親でしたが、ツツジに関してはノータッチでした。
 今となってはお腹が痛くなったりしたのかどうかは覚えていません。
 伊集院さん、僕は今この鍛練のおかげで一流の忍者の体質になっているんでしょうか。

 (PN:じん六さんの宴ことあのマネージャー殺す)
 98.11.16 放送 (第162回)  
 あれは、僕が小学校3年生、弟が同じく1年生だった時の事です。
 当時僕たちの小学校の校庭には「回転板」という、水車を横にしたような形の皆でくるくる回してそれに飛び乗って遊ぶ遊具がありました。
 いくら子供の力とはいえ、慣性の法則で物凄い勢いで鉄のフレームが回転する様は、今考えても十分危険なものですが、その危険度が故にでしょうか、当時僕たちの間では人気No.1の校庭遊具でした。

 その日の放課後も僕は弟と他数人の友達と、その回転板をぐるぐる回して遊んでいました。
 すると突然、僕の握っている鉄パイプに「ゴン」という振動が伝わり、一瞬間を置いて「アー!!」という叫び声。
 見ると弟が頭から血を流し、泣き叫びながら立ち尽くしています。
 「うわっ、しんちゃんの頭からすっげ血が出てる、やべ死んじゃうよ!」
 周囲の友達たちは大パニックです。そして僕もパニックでした。
 「とっ、とりあえず家に帰ろう。」
 今思えば小学校の校庭です。放課後とはいえ保健室ぐらい開いていたはずですが、僕の家は学校から歩いて5分ぐらいの近所だった事と、かなりパニックになっていた事で、頭から血をボタボタ垂らし泣き叫ぶ弟を連れて帰る事にしました。
 しかし、血と涙で物凄い形相で泣き叫ぶ弟の手を引いて家に向かう途中、僕は何だかとっても怖くなってきました。
 そして家と学校の中間ぐらいまで来た時、血まみれの弟を一人残して、僕は何故か逃げてしまいました。
 僕は校庭の友達の所に戻りました。
 皆は「しんちゃん大丈夫?」「平気だった?」としきりに聞いてきましたが、僕は「全然平気。」と言ったきり、黙ってしまいました。
 その後夕方になり、次々と友達は帰っていきましたが、僕は7時ぐらいまで1人で校庭で遊んでいました。
 ふと手を見ると、爪や指のくぼみに弟の頭血が土ほこりと混ざり、こびり付いていて物凄く嫌な気分になりました。

 家に帰ると僕は母に引っ叩かれました。弟は頭に真っ白い包帯をぐるぐる巻きにして、茶の間でテレビを見ながらケロリとアイスを食べていました。
 母には散々叱られましたが父が「しょうがないなぁ、お前も怖かったんだよなぁ。でも、お兄ちゃんなんだから弟を残して逃げたりしちゃダメだぞ。」と、少し笑って言ってくれました。
 僕は途端に泣き出し、泣きながら弟に謝りました。
 あれから17年、現在サラリーマンをしている弟と無職24歳の僕はそれでもとても仲が良いです。
 でもふとした時にあの時の事が思い出され、とても申し訳ない気持ちになります。

 伊集院さん、こんな僕ですが大丈夫なんでしょうか。
 あと、優しく接してくれた父の過去にも何かあったのでしょうか。

 (ラジオネーム:激痛)

 あれは、僕が小学校3年生の時でした。
 僕の家は母子家庭で、母が夜に働きに出ていました。それで僕はいつも母の友達のおばさんの家に預けられていました。
 僕はそのおばさんもその家もとても好きで、寂しいという事はありませんでした。

 夏休みに入り、僕の家にある事件が起こりました。母が入院したのです。
 そこで僕は母が退院するまでおばさんの家に泊まる事になりました。
 1日が過ぎ、2日が過ぎ、そして運命の3日目です。
 僕は退屈で何気なくおばさんのお母さん、つまりこの家のおばあちゃんの部屋に入りました。
 そして何気なくその部屋を物色していると、ある物が見つかりました。
 お金でした。
 それも、小学校3年生で母子家庭の僕が見たこともないような大金で、言うなれば僕にとって宝発見でした。
 それはおばあちゃんの使っている筒状のイスで、僕はその宝、宝というか112万円を見て思いました。
 「ははーん、これはきっとおばあちゃんがここに隠して忘れているんだ。」
 とりあえず1万円を持って知らせに行きました。しかしおばあちゃんがいません。

 そうこうしているうちにその当時一番仲の良かった友達のK君が遊びに来ました。
 「カードダスやりに行こうぜ。」
 僕は「よし、行こう。」と言いました。
 当時僕たちの間ではカードダスが流行っており、僕たちは夢中で近所のおもちゃ屋に走りました。
 まず僕がやりました。そしてK君がやりました。
 「ねえ、いいの出た?」「全然出ないよ。」
 するとK君が「あと2回やればキラキラが出るのにな。」と何の根拠もなく言いました。
 そのK君の目は僕に「やれ」と言っている目です。
 でも僕にはお金がありません。
 ポケットの中を探ってまで…ありました。ありました。宝がありました。
 するとK君が「すっげー、どうしたのそれ?」と言いました。
 「えっ、これ?これは、もらった。」と言ってしまいました。
 それから僕たちは鬼のようにカードダスをやりました。そしておばさんの家に帰りました。
 誰も僕が宝の一部を持ち出したことに気づいていません。僕は安心しました。

 そして次の日近所のゲームセンターに出かける時、また僕の手には宝が握られていました。
 当たり前のようにゲームを始めた僕には、これっぽっちの悪意もありませんでした。
 「僕が発見した宝を僕がどう使おうと勝手だ。」
 既にこの宝はおばあちゃんの物ではなく、どこをどう間違ったのか自分が発見した宝になっていました。
 そしてそんな宝を1日1枚ずつ使う日々がまるまる1週間続きました。
 そして8日目の朝、何かおばちゃんが騒いでいます。
 僕はすぐ気づきました。宝関係のことだ。
 僕はとりあえず寝た振りをしました。でも案の定起こされておばさんに聞かれました。
 「おばちゃんの部屋にあった7万円知らない?」
 「知らないよ。」
 ウソをつきました。でもどう考えても犯人は僕しか考えられません。おばさんの疑いの目は僕しか見つめていません。
 それから8時間ほどの尋問が続きました。しかし僕は口を割りませんでした。
 本当のことを言ったらお母さんに怒られる、その一心で絶対に口を割りませんでした。
 すると、おばちゃんが変なことを言い始めました。
 「それじゃ神様に聞きに行こう。」
 ボケたのかな?僕は思いました。
 しかし違いました。おばちゃんが言うには近くの寺に何でも教えてくれるお坊さんがいるらしいのです。
 僕は、
 「もうダメだよ。神様が相手じゃウソがばれちゃうよ。」
 そう思いました。

 そして運命の時です。目の前には神様と話ができるお坊さんがいます。
 何か始めました。
 するとおばちゃんが神様らしき人に尋ねました。
 「7万円を取ったのは誰ですか?」
 直球でした。
 すると神様らしき人のお告げをもらったお坊さんが答えました。
 「あなたのお金を取ったのは…」
 もうダメだ。神様は何でもお見通しだ。

 「あなたのお金を取ったのは、女の子です。」

 涙が出てきました。もちろん、歓喜の涙です。
 それからの事はよく覚えていません。
 1つ覚えているのは、そのころよく遊んでいた2つ年上のYお姉ちゃんがあまり遊びに来なくなったことです。それから僕は今まで何にも犯罪を犯さずにここまでやって来れました。

 伊集院さん、僕は大丈夫ですか?
 そしてあの神様大丈夫ですか?

 (PN:すんてつ)
 98.11.9 放送 (第161回)  
 あれは、僕が小学校2、3年の頃の話です。
 当時僕の近所に2歳年上のK君という人がいました。K君は引っ越してきて以来の友達でした。
 そのK君が「面白いもん見してやるよ。」と僕に言ってきました。それはちょうど日も暮れかかり、辺りが薄暗くなってきた時の事です。
 僕は「何何?何を見せてくれるの?」とK君に付いていくと、K君はおもむろにゴルフのアイアンを取り出しました。
 その頃僕の家の前は砂利道で、石もごろごろ転がっていました。
 K君は地面にめり込んでいるいい感じの石を見つけると、アイアンを石目掛けて振りました。
 アイアンは石をかすり、奇麗な火花が出ました。
 「うわぁ、奇麗だなぁ。」
 僕はうっとり。そして僕は自分自身でもやってみたくなりました。

 「K君、僕にもやら…うーっ!」ブーッ。
 僕の頭から火花が出ました。一瞬僕は何が起こったのか分かりませんでした。
 痛みは感じず、ただ頭がなんだか暖かく、目の前がうっすら赤くなっていました。
 ふとK君を見るとおびえきった顔で「だ、だ、大丈夫?」と聞くので、「ははーん、これは頭血だな、頭から血が出ているのだな」ということに気づき、僕は「大丈夫だから、ちょ、ちょっと待ってて。」と言いつつ、とりあえず応急処置をと思い家に入った時です。
 ちょうど2階からうちの母が降りてきて、僕を見るなり「どうしたの!?」と強い口調で聞いてきたので、僕は「んー、何でもないから、平気、うん。大したことないから。」となぜか血が出ている理由を悟られないようにしていました。
 母の顔は真っ青、僕の頭は真っ赤、という不思議なコントラストに見舞われ、僕はその後のことは余りよく覚えていません。
 ただ覚えているのは傷が大したことはなかったという事と、母が僕を連れてK君の家に行き、K君の親に半泣きで注意をしていたという事です。

 伊集院さん、僕は何ヤード飛んだのでしょうか?

 (PN:後ろ体重)

 小学校5年の体育の授業中のことでした。
 その時間は鉄棒の時間で、逆上がりの出来ない私は逆上がり練習機を使って練習をしていました。
 逆上がり練習機とはちょっと反った斜面で銀河鉄道999の発射台のような形をしています。
 勢い良く回りさえすればきっと出来ると思いこみ、僕は思いきりその逆上がり練習機の斜面を蹴りました。

 「体が伸びてる、これで良かったんだっけ?あっ、体が止まる。」

 何かに頭をぶつけた後、私は地面にいました。薄目で左手を見ると、血が。
 「ケガ=保健室、保健室に行かなくちゃ。」
 そう思った私は「保健室に行ってきます」と言って一人で保健室に行きました。
 保健の女の先生に「ドジってケガしちゃいました。」とニッコリ言ったら、応答もせず私を見つめているので、もう1度言い直したらやっと動き出してくれました。
 少し落ち着いたら「なんで誰も僕の事を助けてくれなかったんだろう」と思いましたが、後で確認したら皆余りの状況に凍り付いて動けないうちに1人で血をボタボタ流しながら1人で歩いていってしまったから、びっくりして追う事も出来なかったとの事でした。

 病院に着くと母親が来ました。
 その時母親が医師から「お母さん、ほらここに骨が見えているでしょう?」と見せられたらしいのですが、私からは見えないので覚えていません。
 結局ほとんど縫わずに済ませました。
 そして私は卒業まで鉄棒の時間は校庭をぶらぶらしていました。先生はそれでも何も言わないようになっていました。

 その後あの練習機のキャッチコピーが『絶対にケガをしない』である事を知りました。
 私はその練習機の会社に迷惑をかけていたのでしょうか。
 逆上がりは急に中学校で出来るようになりました。

(私とは関係がないのですが、顔面血まみれの子供を抱えた父親らしき人が耳鼻科医院に飛び込むのを見たことがあります。お父さん、整形外科は隣り。)

 (PN:への三式)

 小学校の時のクラスメートに一人はいましたよね?給食食べるのが遅くて5、6時間目までのろのろのろのろやっている奴が。
 ハイ、私。
 昼休みに遊んだ記憶はほとんどないし、給食室まで一人遅れて返しに行っていたのでおばさんともすっかり顔なじみでした。
 5年生の時、私ともう一人Yさんが給食チンタラコンビを組んでいました。
 私の通っている小学校では基本的にお残しは死刑だったのですが、主食(ごはんかパン)は半分あらかじめ自分の家から持ってきた入れ物に入れて持って帰ってもいいというルールがありました。
 半分と言われているものの食べるのが遅い私は、それより少し多めに残していました。

 その日は私の大嫌いな変なサラダとやばいマヨネーズの何か。
 これは絶対授業時間を超えて放課後になってしまうかもと思った私は、パンを2、3口食べた後すぐにビニールに入れ、隠しました。
 3年の時に同じ事をやった時に担任の先生に見つかって「お前そんなズルすんなよ」と悲しそうに言われた事がチラッと頭をよぎりましたが、そんな思い出にかまっていたらすぐに昼休みは終わってしまいます。
 そのまま必死に食べ続け、私にしては上出来の5時間目に10分ほど食い込んだ早さで食べ終えました。
 その時、コンビのYさんはまだもむもむ食べていました。

 6時間目、確かクラス会か何かをやったため、机を動かしたんだと思います。
 私が机の中に入れておいた、パンを入れたビニール袋がその拍子に落ちてしまいました。
 でもその時私は教室にいませんでした。

 私が帰ってくると黒板の所にパンが置いてありました。2つ。
 1つは完璧に私のズルパンです。しかしもう1つは半分ほど食べてあったパンでした。私はズルパンが私の残した物であるという記憶を消去して、ルール通り半分は食べてある方のパンを取り、机に戻りました。

 そしてズルパンが置き去りにされたまま帰りの会の時間、先生が教室に入ってきました。
 パンを見つけると先生は声を荒げて「このパンは誰のだ。大体ほとんど食べてないじゃないか!」とクラスを睨み付けました。
 するとYさんがおずおずと手を挙げて言いました。
 「先生、私の残したパンがないんですけど、で、でも…。」
 Yさんは先生の剣幕にちょっと押されていて上手く言葉が続かなかったのでしょう、でも先生はYさんの「でも」の後を全く聞かずに物凄い勢いでYさんを叱り始めました。
 「半分しか残しちゃいけない決まりになっているだろう!」という事を延々と。そしてYさんは泣いてしまいました。
 私も消したはずの記憶なのになぜか罪悪感が湧いてきて、手を挙げて「先生、せ、先生。Yさん、は、具合悪そうにしてたから、それでちょっと多めにパンを残したんだと思います。」と意見しました。

 そうですよ、もちろん嘘です。たまらずそう言ってしまいました。
 私とYの仲の良かったNさんも「そうですよ。Yさんは朝から体調が良くないって私に言ってました。」と助け船を出してくれました。
 私とNとの発言が功を奏したのか否かは分かりませんが、何とか鎮火しました。
 私は帰り道、駅のトイレに半分のパンを流しました。Yさんがどんな気持ちでズルパンをどこまで持って帰ったかは知りません。

 時は流れて去年の11月、今だ連絡を取り合っているNと担任の先生に会いに行きました。
 その帰り道、懐かしい話をしているうちにNが急に「先生には確かにお世話になったけど、1つだけ覚えていることがあるな。Yのパンの事、まだ許せない。」と言い出しました。
 そして続けて言いました。

 「でもあの時、あんたがとっさにかばったじゃん?私凄い感動したー。」

 伊集院さん、Yとはもう音信不通なのですが、彼女は食べるのは早くなったでしょうか。
 そして私はでーじょーぶでしょうか。

 (PN:清水湯改め8月の光に感動)
 98.11.2 放送 (第160回)  
 それは僕がまだ小さかった頃の話です。
 その当時僕は2歳、その上に4歳になる姉がいました。その事件はほんの些細なことが事件の引き金になりました。

 2階で遊んでいた僕たちをお母さんが呼びました。
 「ごはんよ。」
 はーい、と返事をして僕たちは2階から1階へと下りていきました。
 僕はまだ2歳であるという身体的理由から、階段を1段1段両足を交互ではなく片方ずつ丁寧に下りていたので非常に遅く、姉が下に着いた時僕はちょうど2階と1階の間に差し掛かったところでした。
 姉が「早く下りなさいよ」と言いました。
 しかしそう言われてもこのシステムでしか階段を下りることは出来ません。
 また続けて1段1段下りていくと、姉は腹が立ったのかそれとも手伝ってくれようとしたのか、僕の所まで来て背中を押しました。

 僕は転がりました。
 しかし大したCPUを積んでいない2歳児頭脳はこの出来事に対して、「あれ?僕転がってる。」ぐらいの事しか考えなかった。
 転がり落ちた時の大きな音でお母さんが飛んできました。
 僕は頭から著しい頭血を吹いていましたが、不思議とそんなに痛くはなかったように思います。周りの大人が騒いでいるのが不思議なぐらいでした。

 その後僕はママチャリ改め自家用救急車で近くの病院へと運ばれました。
 お母さんは僕に「手術には麻酔という物を使うから痛くはないのよ」と言いましたが、実際は幼児の手術には後遺症が残る危険性があるのであまり麻酔は使わないらしいのです。
 これから先の事は自分でははっきりと覚えてはいません。
 自分の頭の中を針やら糸やらが通り抜けていく感覚や、にこやかスマイルを浮かべつつ何一つ根拠のない「痛くないよ〜」を連発しながらてきぱきと処置するドクターの顔は今でもおぼろげながら覚えています。

 で、最近その当時の事を母に尋ねると笑いながら、「あの時のあんたは先生に対して必死に『もう直ったんでありがとう。』」
 拭いても拭いても血が止まらないのに、「ありがとうありがとう」を連発しながら手術室の中を頭に糸を付けたまま元気に走り回って見せ、看護婦さんも取り押さえるのが大変だったと言いました。
 記憶のパズルが完成しました。
 僕の頭には1円玉クラスのハゲが残っています。もうスポーツ刈りをするのは恥ずかしいです。

 伊集院さん、最近の増毛技術を持ってすれば頭皮にピンポイントで増毛することは可能なんですよね?
 申し込んで下さい。

 (PN:おがくず)

 あれは僕が5歳か6歳の時です。
 当時僕の住んでいたマンションだかアパートだかでは、毎年夏に縁日みたいなものをやっていました。
 そしてその後のプログラムとしてパラシュート花火を打ち上げ、それを子供たちがこぞって取りに行くという物がありました。僕もそれに参加をしていました。

 我こそはとパラシュートを取るためにエントリーした子供たちがスタートラインについて、パラシュート花火が打ち上げられるのをその時かと待ちました。
 しばらくして大人の人がパラシュート花火に点火。
 打ち上がった瞬間、一斉に全員が走り出しました。僕も走りました。全力で。
 時刻は夜の7時ぐらいで、真っ暗ではなく少し暗い程度でした。
 その闇夜の中僕は前も見ずパラシュートだけを見て走りました。

 そしてそれは起こりました。
 ちょうど砂場に差し掛かった時、砂場には周囲に砂が散らないように少し段差があり、僕はその段差に足を引っかけてそのままコンクリートに突っ込んでいました。
 周囲の人はパラシュートの方を見ていて、誰一人として僕のことに気づいていません。
 僕はわんわん泣きながら、「うちには帰らなきゃ、うちには帰らなきゃ。」と思い、ふらふらと家に歩いて帰ろうとしました。
 ぶつけた額が熱くなっていて、痛みはありません。
 ただ分かるのは、頬の所まで涙ではない何かが流れている事が。
 帰り道は3分程度でしたが、途中人に会い、僕を見たその人は「おわーっ!」と言って変な方向に走っていきました。

 その後僕は家に帰り、そのまま病院に行きました。
 傷自体は大した事なく今では傷口はもうほとんど見えません。
 後になって気づいたのですが、僕が帰った道には血の痕が点々と残っていました。

 伊集院さん、なぜ僕に会った人は逃げたんですか?
 そして僕パラシュート取ったかな?

 (PN:うらなり)

 あれは小学校6年生の頃だったと思います。
 当時の僕は、学校の行事という行事が大嫌いでした。
 その頃嫌いな行事の中の1つである学芸会が迫って来ていました。僕の小学校の学芸会は2年に1度行われていました。
 そして6年の時、学校創立60周年記念という名目が打たれた大きな学芸会がありました。
 役決めの時、僕は照明係に立候補し、なりました。
 なぜ照明係になったかというと、仕事が楽な上セリフが少ない軽い役になれるからです。
 予想通り、僕は照明係&通行人Bという役でセリフも「この服、買おうか。」の一言だけです。
 行事嫌いの僕にとってこの役でさえ面倒臭いとは思っていました。
 そして練習でも近くの同じ照明係で通行人Aの役の人に「出番が来たら起こしてね。」と言うぐらいいい加減で劇の内容全体は全く知りませんでした。
 「この服、買おうか。」と言うだけの練習が続き、ついに学芸会の当日になりました。
 5年生の劇が終わり、次は6年生の番です。体育館の2階の照明場から下を見ると、母親がいました。
 「どうせ通行人の役だから見に来なくていいよ」、ずっと前から念には念を入れて言っていたのですが、母は来ていました。
 そして劇が始まりました。僕はいつもと同じように2階の照明場で寝ていました。

 と、目が覚めたときには同じシーンに出るはずの通行人Aがいません。
 僕は焦りました。下でやっている劇を見ても、僕の出るシーンが過ぎたのか過ぎていないのか分かりません。
 通行人という役なのに、母は見に来てくれている。そう思うとパニックになって、「母のためにもきちんと劇には出なきゃ、母のために劇に出なきゃ」という言葉を頭の中で連呼して、僕は劇の流れを完全に無視して体育館の舞台の中央まで来ていました。
 今考えるとなぜこんな暴走をしたのかは分かりません。多分その時はまだ母親思いの僕がいたのでしょう。
 ただその過剰すぎる母親思いが裏目に出てしまいました。
 そして気づきました。今は僕が出るシーンでは全くないことを。
 僕がパニックになって出てしまったシーンはほぼラストシーンで、悪の大王と主人公が剣で対決するシーンでした。
 そして僕は大王と主人公が剣を構えてから対決という、僕にとってもまた劇にとっても最悪のタイミングで通行人Bとして通りかかりました。

 この後の事はよく覚えていません。
 ただ僕以外の会場全体の時間が一瞬止まった事だけは明確に覚えています。
 最近小学校の小学アルバムを何気なく見ていました。アルバムの中の『学校創立60周年記念学芸会』という大きな特集写真の中に1つ、大王が主人公と剣を構えている写真の左隅に、体半分だけ写っている良く見覚えのある少年がいます。
 それさえ見ていなければ思い出さなかったと思います。

 伊集院さん、なぜ大王はとっさに僕を斬ってくれなかったのですか?
 そして、僕は大丈夫ですか?

 (PN:日比谷のみつえだりゅう)
 98.10.26 放送 (第159回)  
 今から10年前、小学校3年生だった僕はその日、テレビ朝日の玄関口をくぐっていました。
 そう、夏の真っ最中の蒸し暑い日のことでした。
 僕がテレ朝にやって来たのは他でもありません。
 某局の名物クイズ番組、『100万円クイズハンター』に出場する母を応援するためでした。
 僕の横には晴れがましい顔の父、興奮を抑えきれない様子の祖母、そしていつになく無口な母。
 僕はと言うと、緊張のあまりトイレに際限なく行き続けるという小学生っぷり。
 しかし、大と小を交互に垂れ流しながらも僕の胸は期待に打ち震えていたのでした。
 世界一難しいクイズ、当時の僕はそう思い込んでいました。
 この世界一難しいクイズに果敢にもチャレンジする母への期待。
 うん、確かにそれもありました。でも正直なところ、僕の期待を一身に受けていたのは…。
 これを説明するために話を2週間ほど戻すことをお許し下さい。

 舞台は小学校そして昼休み、登場人物は僕と僕を取り囲む友人たち。
 その日僕はいつになく興奮して、重大発表を行っていました。

 僕「すっげーだろ。そんなこんなでさ、1万倍だよ、1万倍の難関をくぐり抜けて、あおのクイズハンマーにさぁ出場が決まったってわけさ。」
 友人「すっげぇ、すっげぇ。」
 僕「でさ、お母さんにさ、賞品にマウンテンバイク取ってくれって頼んであるからさ、みんなにも載せてあげるよ。」
 友人「ほんとにー!すげぇーよ!」

 あの時から10年を経た今の僕にははっきりと理解することが出来ます。
 捕らぬ狸の皮算用とは、この事を言うのでしょう。
 しかし完全に舞い上がっていたあの時の僕は、マウンテンバイクお披露目会及び試乗会開催の決定、そのバイクに自らの名前を冠して『たけし号』と名付ける事など、次々と重大発表を始めていました。

 さあ、そんなわけでテレ朝の便所。
 僕はたけし号にまたがり、さっそうと街路を乗り回す自分の姿を夢想し、うっとりとクソをひり出していたのでした。
 ああ、なんてカッコいい僕。そしてなんてステキなたけし号。その夢がもうすぐ現実のものとなるのです。
 うっとりと緊張が交互に僕を襲います。
 しかし僕は幸せでした。ええ、確かに便所の中で僕は幸せでした。

 いよいよ収録本番の時がやってきました。
 司会進行はご存知の通り柳生博。
 番組は2部構成になっていて、初めは単純にクイズに答え賞品を獲得するというもの。
 ただし、賞品名は伏せられていて、正しい答えを出して初めて何を獲得したのかが分かる趣向、つまり意中の品物をゲットするには、運の力のみしかありません。
 にわかに不安になる僕を後目に、柳生はにこやかオーラを振りまき続け、スタジオをにこやか一色に染め上げていきます。

 第1問、僕の不安は早々と吹き飛びました。母は事前に嫌と言うほどやった早押し特訓の成果を発揮し、クイズに正解。
 賞品は、マウンテンバイクだったのです。
 あまりにも美味すぎる展開。
 しかし、母はこれを皮切りに怒濤の快進撃を始めました。
 そして、番組前半を終了した時点で母改めクイズ王はなんとぶっちぎりのトップ。番組がしらけやしないかと、子供心に心配を始めるほどキングでした。

 事態は劇的に暗転しました。
 番組後半はハンターチャンス。4人の回答者の間で今まで取った賞品を奪い合うというサバイバルです。
 あれ、おかしいぞ。
 始まってすぐ、僕は好ましくない雰囲気を察知しました。
 一体どうしたというのでしょう、母は別人になっていました。クイズ王西村改めただのデブになっていました。
 母の顔色が変わり、うろたえている様が手に取るように分かりました。
 僕は必死に自分をなだめました。

 「オレ、オレ?落ち着けオレ。落ち着け。だってオレが欲しいのはマウンテンバイクだろ?他のメンバーはみんな主婦なんだから、貴金属が狙われるだろ、な?だから、平気。」

 予想通り、まずは貴金属。次は宿泊券、食器洗浄機、留守番電話、そして、マウンテンバイク。
 次々と身ぐるみを剥がされていく母。
 お手つきを連発する母。
 にこやかバッファローこと野牛。
 凍る僕ら3人の応援団。
 この時母は明らかに平常心を失っていたはずです。
 だって、勝負そっちのけでダイヤのリングの争奪戦に加わっていたのですから。
 マウンテンバイクには、僕との約束には目もくれずに。
 僕は、なんか泣いてました。
 すんすん泣いてました。

 収録は終了しました。その後母は何とか盛り返し、2位に食い込んだそうです。
 僕はよく覚えていません。
 普段着に戻った母は笑いながら僕に「ごめんね。」と言いました。
 僕は、「別に。」と言いました。
 マウンテンバイクの話はそれっきりになりました。
 その後、家族で東京見物的なイベントがありましたが、それを楽しめるはずもなく、心の黒いもやもやは次第に大きくなっていきました。
 そのもやもやは僕にささやきました。

 「迷子になっちゃえよ。迷子になってさ、確信犯的に迷子になってさ、あいつを困らせてやれよ。」

 地下鉄の乗り換えの時、僕は反対方向の電車に飛び乗りました。
 それが僕にできた精一杯の小さな反抗だったんだと思います。
 どこに辿り着いたのかは分かりません。
 ただ、そこには知らない雑踏があり、知らない空気がありました。
 僕は、本格的に迷子になりました。
 結局の所、泣き濡れている僕を駅員さんが見つけ、家で留守番していたおじいちゃんが迎えに来てくれ、僕の4時間戦争は終わりました。

 家に帰るなり、父は僕を殴りました。
 僕はこの日、何度か目の涙を流しました。

 最後に、番組を見た友達の反応を書いておくのが筋というものでしょうが、僕にはそれができません。
 なぜなら、放送日からその後2日余り、僕は学校を休んだからです。
 再び行くようになってからは同級生たちの物問いたげな視線にさらされ続け、時には「泣くほど悔しかったんだ」などと陰口さえ叩かれる毎日でした。
 おかげで僕は誰とでも喋れる大変社交的な人間に育つことが出来ました。
 今一番の友達は、フィギュアです。

 伊集院さん、『100万円クイズハンター・お母さん大奮闘』とサブタイトルを付けられたビデオテープがまだ我が家のライブラリーにありますが、当然見れません。
 いっそのこと、『8時だJ』あたりを上書きしてしまうべきでしょうか。
 教えて下さい。
 そして伊集院さん、マウンテンバイクください。

 (PN:恐怖のミソ汁)
 98.10.12 放送 (第157回)  
 あれは忘れもしない、東北で過ごしていた6年前の中3の時のことでした。
 当時、学校の玄関掃除を担当していた僕のクラスは、雪が積もったということで寒い中除雪をやらされていました。
 生活指導の先生が見張っていたのですが、何やら用事が出来たらしく、「先生が見ていなくてもきちんと除雪をしておけよ」的なことを言い残してどこかに行ってしまいました。
 先生が見えなくなるのを確認してから、サボるのが大好きな僕は、当時仲の良かった友人Rとスコップでチャンバラをする、雪玉を投げ合うなど、雪のある状況を満喫していると、ふいに足下の氷が目に入りました。
 薄いながらもそこそこ丈夫だった氷を手にして僕の脳裏に浮かんだことは、

 落とし穴のフタにしよう。

という奇抜なアイディアでした。
 それをRに話したところ、「うん。」と返ってきたので、早速雪の積もっているところに30センチ四方程度の正方形の穴を掘りました。僕は元々何事にもこだわってしまうという性格だったので、30センチぐらいの深さの時、
 「この程度じゃ落とし穴とは言えないね。落とし穴界の落ちこぼれだ。」
と訳の分からない理由で、結局なんだかんだで1メートル2,30センチぐらいの深さまで掘っていました。
 穴に満足したところで先ほどの氷を穴の上にかぶせ、降ったばかりのサラサラの雪をまぶして落とし穴は完成です。たぶん他の人にはバレバレだったのかもしれませんが、くだらないことながらも一生懸命に作ったせいか、僕とRには国宝姫路城以上の建造物に見えてきました。

 さて、そんな素敵なものを作ってしまったなら、あなたなら次は何をしますか?
 答え。
 落とします、と答えた方が97パーセント、無回答が3パーセント。
 僕はRに話すと、「やあ、それ以外には考えられないね。」と返ってきたと思います。
 そこに、ターゲットにしやすい女子のNが僕の目に入りました。
 「おーい、N、ちょっと。」
と、なんとなくを装ってNを呼ぶ僕とRの前には落とし穴。ちょっとうっかり屋だったNは、吉本新喜劇もビックリなほどに、

 「なに?」 スポッ!!

と落ちたのです。身長の低かったNは、大雪原から顔だけ生えている状態の、完璧なまでの落ちっぷりでした。Rは爆笑、僕はうっとり。Nが泣き出してしまいました。
 Nが泣き出したのと同時ぐらいでしょうか、
 「何やってんだ!!」
との声が。反射的に逃げ出しましたが、いつのまにか2人仲良く捕まっていました。「おまえら何やってんだ、こんなことしていいと思ってんのか」的なことを、まだ顔ってるNをそのままに、雪の上に正座させられ怒られました。
 そしてNを助け出し謝った挙げ句、穴を埋めて、更にずいぶん怒られました。


 と、「そんなこともあったよなあ。」と笑い話のつもりで、つい最近友人に話したところ、友人が言いました。
 「ああ、あん時ね。あれ、学校の中からさ、俺たちも、それから先生も、全部見てたよ。」

 なんですと?

 伊集院さん、おかしいですよね。全部見てたということは、落ちる前に注意すればいいことじゃないですか。
 なんだか、どんどん嫌な気持ちになります。何で先生はみすみす……。
 自ギャグあらため良い想い出、あらため、また自ギャグ。いわゆる自ギャグの逆輸入です。
 僕は、はめられたのでしょうか?教師というのはこんなもんなんでしょうか。ひょっとして先生も楽しんでたんじゃないですか?僕はまた落とし穴を掘ってもいいんでしょうか。

 (PN:全裸マンのチクビーム)

 あれは確か、僕が小学校4年生の頃だったかと思います。
 当時の小学生の間での流行といえば、やはりファミコンなどのゲーム類で、僕も毎日のように学校の友だちや幼稚園児の弟と家でファミコンをしたり、学校の近くの駄菓子屋のゲームコーナーでアーケードゲームをやったりして遊んでいました。

 そんな時、僕の心を大きく動かす出来事がその駄菓子屋のゲームコーナーで起こりました。
 そこのゲームコーナーにはゲーム機が3台あり、学校が終わるとみんなが集まってくる人気のスポットでした。3台の中でも常に群集の支持を集めていたのは、『イーアルカンフー』と『スパルタンX』の2台で、この2台は超ロングランヒットで、いつもゲーム機の前は人だかり。ゲームをやるには常に順番待ち状態。いわゆる駄菓子屋さんのドル箱です。
 ところが、対照的に残りの1台は駄作の連続。固定客がつかず、気がつくとゲームの中身が変わっているという状況でした。

 ある時、僕がその店に寄ると、また例のごとくその台には見た事もない新しいゲームが入っていました。お店のおばあちゃんの話だと今日入ったばかりだというので、僕は暇つぶし程度に考え、一回やってみるかと思い、2枚持っていた50円玉のうち1枚を投入しました。
 ゲームの名前は、『エレベーターアクション』。ワンプレイやり終え、僕は思いました。

 なんだ、このゲームは。……おもしれえ。

 僕はすぐ残りの50円も使いもう一回やりました。今ではなぜだか分かりませんが、僕は、この『エレベーターアクション』に異常なほど興味を引かれていました。
 あぁもっとこの『エレベーターアクション』がやりたい、と思いましたが、持っていた50円玉2枚は今月のおこづかいの最後の百円で、次のおこづかいをもらえる日は一週間後。一週間経つ間にゲームがまた変わらないことを祈りながら待ち続けました。

 そして一週間後。奇跡的に『エレベーターアクション』は生き延びていました。
 しかし、どうしたことでしょう。みんなが『エレベーターアクション』の面白さに気づいてしまったのでしょうか、ゲームコーナーの常連の上級生の人たちが、僕が発見したエレベーターアクションを占拠してるのです。
 その後も『エレベーターアクション』は常に上級生に占拠され、僕はいつも斜め後ろぐらいから背伸びしてゲーム画面を眺めているだけで、プレイさせてもらうことが出来ませんでした。
 そんながっかりの僕に朗報が舞い込んできました。『エレベーターアクション』がファミコンに移植されるというのです。
 僕はそれを聞いてすぐに、エレベーターアクションは、『私の選ぶ・俺の次買うカセットコンテスト、僕の欲しいゲーム部門大賞』に選ばれました。
 それから発売日までの日々は、おばあちゃんとお母さんの財布からお金を毎日気づかれないぐらいちょこっとずつ抜き取るというバイトを一生懸命して、お金を貯めました。

 そしていよいよエレベーターアクションのファミコンの発売日がやってきました。
 その日は学校があったので、学校が終わってから買いに行ったんじゃ絶対売り切れる、と思った僕は、その日幼稚園が休みだった弟に、「おばあちゃんと一緒に朝10時に駅前のおもちゃ屋へ行ってエレベーターアクション買ってこい。」と言い、おばあちゃんにお金を預けました。
 おばあちゃんは、「このお金どうしたの?」と聞いてきたので、この前家に来た親戚のおじさんにもらったと嘘を言い、おばあちゃんを軽く説得しました。
 その後僕は学校に行きましたが、授業中も主人公がロープでスルスルと降りてくるオープニングのシーンが頭の中で駆け巡り、完全に上の空でした。
 そしていよいよ学校も終わり、僕はダッシュで家まで帰りました。家に着きゲームのある部屋に入ろうとすると、聞き慣れないゲーム音が聞こえてきました。
 「弟のやつ、早速やってやがるな。」と思い部屋に入りました。

 おや?

 テレビを見た僕は、どうも様子がおかしいことに気づきました。
 確かエレベーターアクションは縦スクロールのゲームのはずなのに、テレビ画面に流れる映像が横スクロールしています。
 確かエレベーターアクションのフィールドは全てビルの中のはずです。なのに、草原が映っています。
 「はは〜ん、ファミコン版は面が進むと外に出て主人公が草原を跳ねたりするのか」と思いましたが、僕の目がファミコン本体に行った時、異変に気づきました。
 本体には見たこともない赤いカセットが差し込んであります。
 僕は「タイトーのカセットは全部黒のはず。なのに、赤?」と思い、横に目をやると、無造作に放られた空き箱、そして大きく『フォーメーションZ』とタイトルが書かれています。
 何度見ても、フォーメーションZ、と書いてあります。
 僕は何が起こったのか分からず、目の前でゲームをやっている弟に、「おい、おい。なんだよこれ?」後ろから問いかけましたが、弟は無言でフォーメーションZらしきゲームをやり続けています。僕が何回か弟に聞きただしているうちにおばあちゃんが部屋に入ってきました。
 「どうしたんだい?」
 「おばあちゃん、おばあちゃん、何これ?あのさ、僕が頼んだエレベーターアクションは?」
 「Aちゃん(弟)がこっちの方が面白いって言うからこっちにしたのよ。」

 それからどれぐらい間があったのか覚えていませんが、僕は僕でなくなっていました。
 「ふざけてんじゃねーっ!!」
 僕はゲームをやっている弟の頭を後ろから思い切りはたき、ものすごい勢いでファミコン本体へ手を伸ばし、イジェクトレバーを押さずにカセットを引っこ抜きました。
 そしておばあちゃんに「今すぐ店行ってエレベーターアクションと取り替えてこい!」と言って、赤いカセットをおばあちゃんめがけて思い切り投げました。
 当たりました。首から上に。
 ガツッという音がして、その後おばあちゃんはうずくまりました。しばらくして顔を上げると、おばあちゃんの額に赤いものが見えます。
 僕は最初、カセットの塗料が落ちてこびりついたんだと、思い込もう、思い込もうとしましたが、頭血です。
 それからどうなったのかを、本当にきれいに覚えていません。
 が、夜、親にさんざん怒られたのと、泣きながら『フォーメーションZ』をしばらくやっていたのだけは覚えています。

 伊集院さん、僕は今でも毎年誕生日にプレゼントだよと言っておばあちゃんからお金をもらっています。
 いいのかな?そして僕は大丈夫でしょうか。

 (PN:和製キン肉マン)
 98.10.5 放送 (第156回)  
 伊集院さん今晩は。もうずいぶん前のことになりますが、伊集院さんはアメリカに行かれたことをラジオで話していましたね。お寿司屋さんの話やカジノの話、笑わせてもらいました。

 それは、もう10年ぐらい前のことになります。
 僕の街で中学生を対象に数名を海外に派遣していました。まあ、派遣と言っても実際はツアー旅行みたいな感じなのですが、旅費の方は街がまかなってくれるので、これは行くしかないと思い、僕は選考審査の作文を書き、そして合格しました。
 行く先はアメリカ合衆国、アラスカ。
 僕はパスポートを作り、旅行保険に加入。みんなへのお土産の話題はうまくはぐらかし、飛行機に乗りアラスカへ向かいました。アラスカでは、氷河、白夜、グリズリーなどの自然や、現地の人とのふれあい、「掘ったイモいじくるな」で外人に時間を聞けるという呪文などを学び、初めての海外旅行は無事幕を閉じるはずでした。

 その日はベーリング海が見える小さなホテルの泊まりとなりました。
 僕は友人とツインの部屋に入りましたが、まずそこでやりたかったことはトイレでした。アメリカ特有のボリューム、食えるものなら残さず食ってみやがれ攻撃、プラス、給食の時にみっちり仕込まれた「お残しはダメざます」スピリッツで、腹がパンパン。が、旅行の緊張のせいで僕は便秘になっていました。しかしその時、奇跡的に便意が訪れました。僕は昔の友人に久しぶりに会うかのごとく、いそいそとトイレのドアを開けました。
 数分後、否、数十分後、かなり大きくなった友人と再会、そして別れを告げるべくレバーを倒しました。友人は一瞬流されて行ったかのように見えましたが、再び、
「おいおい、そうそうそうそう、せっかく会ったんだからさ。連れないんじゃないの?」
と言わんばかりにひょっこり顔を出しています。
 僕はもう一度レバーを倒しました。
 瞬間、ゴポッ、という断末魔の叫びがしたかと思うと、ウォーターが、こんこんと湧き出る泉のように増えてきました。僕は十秒ほどパニクった後、

「見なかった。俺は見なかった。」

と満場一致で決議を出し、トイレを後にしました。そして何事も無かったかのようにベッドに横になり、内容もろくに分からないのに、当時日本でも流行のきざしが見え始めたミュータントタートルズの英語版を見ていました。というか、なんとなく網膜に映し込んでいました。
 さらに数分後、タートルズも終わり、なんとなく後ろのトイレが気になったので振り返ってみました。カーペットが濡れ始めていました。微動だにしない僕を見て友人も振り返りました。この時僕の頭の中では、どう言い訳をしようか、外国で大変なことをしてしまった、とか、そういえば旅行保険の例にもユニットバスを水浸しにしてしまったことが載っていたな、とか、お父さんやお母さんの顔が浮かび、早く日本に帰りたい、という思いが、グルグルグルグル回っていました。
 冷酷な友人が、
「と、と、とりあえず、マイケルさんに伝えなきゃ。」
と言いました。マイケルさんとは現地のガイドの人のことです。彼は大学生で夏休み中にこのバイトをしていて、彼と僕らはとても仲良くなっていました。その彼にトイレを詰まらせたことを報告しなければならないとは。
 僕らはマイケルさんの部屋のドアをノックしていました。話のあらすじを聞いた彼の顔は見る見る青ざめ、目は宙を泳いでいました。

 3人で部屋に戻るとマイケルさんは開口一番、本場の「Oh,My God…」をつぶやきました。

 マイケルさんは急いでトイレに駆け込みタンクを開け、中のプカプカをいじって水を止めることに成功しました。
 それから、うんこたれぞうとその友人とマイケルさんは、下の人に謝り、そしてフロントに向かいました。フロントの人とマイケルさんのやりとりは理解できませんでしたが、確か、トイレの水の量が少なくしてあったようで、保険は使わないということで落ち着いたとマイケルさんが引きつった笑顔で教えてくれました。その日は床に何枚かバスタオルを敷き、トイレは別の部屋の友人のを使いました。
 この旅行で僕は、トイレの水が止まらなくなったらプカプカを、という教訓の代わりに、マイケルさんとホテルの従業員に、ジャパニーズ=ウンコが固い、というイメージを与えてしまったようです。

 伊集院さん、この事件はあるゲームのエンディングを目の当たりにして思い出したトラウマです。旅の恥は掻き捨てと言いますが、僕は許されるのでしょうか。再び外国のトイレに座れるのでしょうか。

追伸。 家に帰ってから最初にしたこともトイレでした。この時は詰まりませんでした。さすが技術大国ですね。

 (PN:カトちゃんペの達人)

 小学校の頃の僕は工作名人でした。
 しかし実際はそんなにうまく工作を作れるというわけではなく、ただ、周りの人に比べれば幾分かは、という程度のものでした。

 小学生時代は、その世界の狭さと、何でも気軽に自慢が出来る環境のおかげで、誰もが何かのナンバーワンになることの出来る時代です。
 とはいえ、『工作ナンバーワン』という称号は、他の、『雑巾が汚いナンバーワン』や『手をきれいに洗えるナンバーワン』に比べて1ランクも2ランクも上の称号でした。
 その証拠に図工の時間には工作に関することで友達が助けを求めてきたり、僕の作品を女の子が見に来て賞賛してくれたりと、良い事がいっぱいありました。
 これは雑巾が汚いナンバーワンにはまず有り得ないことです。

 そんな鼻高々な小学校生活も最後の年を向かえたある日、僕たちは卒業制作の作品を作ることになりました。
 それは、僕たちがそれぞれ作ったオブジェに目覚し時計の部品を埋め込んで作る『オブジェ時計』なるもので、それは卒業制作であると同時に、卒業の記念品にもなるというものでした。
 僕は命を懸けてこのオブジェ時計の制作にあたりました。週1回の図工の時間だけでは日数が足りないので、家に持ち帰ってこの作品を製作しました。

 そして最後の図工の時間、僕はついにオブジェ時計を完成させました。完成した後まだ時間が余っていたので、僕は自分の作品をわざとみんなに見えるように机の上に置き、少し離れてみんなの賞賛の声があがるのを待っていました。
 その際ふと、当時僕が好きだったHさんの方に目をやると、いつもはいろんな事を難無くこなしてしまうHさんでしたが、この時計には苦戦している模様でした。
 これはチャンスとばかりに、僕は彼女の作品の製作を手伝うことにしました。図工の時間が終了、Hさんのオブジェも何とか完成しました。しかし、肝心の時計の部分は手付かずの状態でした。まだ部品の段階である時計を見て、彼女は悲しげな表情を浮かべていました。
 僕はその表情に心を打たれて、というより、彼女のハートをゲットしたいがために、僕が彼女のオブジェ時計の時計部分を完成させて明日学校に持ってくるよという提案をしました。
 Hさんは、自分の作品を他人にやってもらうなんて、と最初は僕の提案を断ろうとしましたが、やっぱり自分で作るのは無理そうね、お願いするわ、と僕に全てを任せてくれました。

 家に帰ってから、僕は早速Hさんのオブジェ時計の製作を始めました。
 彼女は図工の時間ほとんど時計部分に手をつけていなく、これを普通に作っていたら2、3日はかかりそうでした。それを一晩でやるのだから急がなければなりません。僕はトイレに行く間も惜しんで彼女のオブジェ時計を作りました。
 夜中の3時、僕は最後の部品である秒針をつけて何とかHさんのオブジェ時計を完成させました。
 そして、朝はこのHさんのオブジェ時計の目覚しで起きようと決めてタイマーをセットして寝ました。

 朝。目覚しが鳴りました。僕はいつものように目覚しを止めようと手を伸ばした瞬間、Hさんのオブジェ時計が机の上から床に落ちました。
 そのショックで僕は目が覚めました。そして床の上のオブジェに目を向けました。
 オブジェは無事でした。
 しかし、時計が。時計が壊れていました。長針は折れていました。アラームはブベベ、ブベベ、という変な音を出しています。
 僕はどうしようかと考えました。考えて考えて考え抜いて出たアイデアはひとつ。それは僕のオブジェ時計の心臓部を壊れたHさんのものと取り替えるというものでした。幸い時間はありましたし、僕のオブジェ時計も家にありました。そして何よりそうすればHさんの喜ぶ顔が見れます。
 しかし僕はどうしても自分の時計を彼女のものと交換することに抵抗がありました。なぜなら工作名人が自分の作品を失敗するということは許されないのです。
 しかも当時は、僕は、卒業制作が失敗したら小学校を留年になると思い込んでいたのです。

 正直にHさんに謝ることにしました。しかし次の日の朝、僕は学校の教室で彼女に目を合わすことも出来ず、オブジェ時計改めオブジェも渡す事が出来ませんでした。
 そこで僕はHさんが帰っていないことを確認して、オブジェをこっそりと彼女のロッカーに放り込み、急いで教室を出ました。
 そして、僕が廊下をとぼとぼ歩いていると、放り込んだショックでスイッチが入ったのか、僕たちの教室の方から、ブベベ、ブベベ、ベベベ、ベベベ、というあの音が聞こえてきました。

 それからのことは良く覚えていませんが、卒業式までの一週間、僕はHさんに一言も話しかけられませんでした。
 先生にも言わず、1人でこらえていたHさんの事を考えると、僕はとりあえず走りたくなります。

 伊集院さん。卒業制作が完成しなかったHさんですが、小学校を卒業出来たのでしょうか。

 (PN:ブンブン)
 98.9.28 放送 (第155回)  
 この話は僕が中学校2年の時のことです。
 あれは、忘れもしない夏休み中の8月の15日。僕は隣町で盲腸の手術を受けました。
 「まあ一週間で退院でしょう。」
担任医が言ったので、僕は、
「あぁ良かった。クラスのみんなに盲腸の手術をしたって大々的に報告しないで済んだ。ラッキー。」
と思っていたのですが、退院予定日を迎えても手術したところの熱が下がらず、結局は延期になりました。それで、精密検査をしたところ、手術中にバイ菌が縫い傷に付き、皮膚の中で化膿していることが分かり、ワンモア手術。結局退院したのは3週間後の9月7日でした。
 この入院が僕の自ギャグの歌の始まりでした。

 僕の通っていた中学では、秋季運動会で集団演技を行うのが恒例行事になっていました。このために全校生徒が7月ぐらいから体育の時間に練習させられたり、放課後を使って強制的にやらされる99パーセントの生徒が「めんどくせえ」と思う行事でした。
 それで、僕の中の悪魔がささやきました。

 「こんなクソだるい集団演技なんてやることはない。術後一ヶ月は激しい運動は避けろと言われたのにかこつけて、ずっと見学して左うちわで高みの見物としゃれこもう。」

 それに対し、僕の中のエンジェルが「そんなことしちゃダメ!」と猛反発しましたが、しょせん翼の折れたエンジェル。どのみち勝負は分かっていました。僕の中の悪魔がフォール勝ちをおさめました。
 確かに病院の先生から「ま、一ヶ月ぐらいは安静にしておいたほうがいいかな。」と言われましたが、若いと治りが早いらしく、退院一週間後には全速力で8百メートル走れるぐらい健康になっていました。
 もちろん、大嘘こいて集団演技の練習はずっと見学していました。すると、クラスの友達から、
「いいなあ、見学は。うらやましい。」
こんな羨望のまなざしを集めることも出来ました。

 その年は9月の中旬に運動会がありました。この日の天気は曇りで、お昼頃からバケツをひっくり返したようなどしゃぶりになってしまい、集団演技が一週間後の父兄参観日に延期になり、父兄の皆さんに見てもらうことが決まりました。
 当日、5時間目に父兄参観授業があり、6時間目に集団演技を行いましたが、あいにく天候は小雨がぱらつき、雨雲が垂れ込め、いつ大雨が降ってもいいほどの空模様でした。でも、この日を逃すと今までやってきた練習が水の泡になります。そこで職員会議の結果、強行開催とあいなりました。もちろん僕は父兄の皆さんと校舎のベランダで高みの見物です。すると、演技の途中から先週降った大雨にも勝るとも劣らないほどの豪雨が、集団演技を行っている生徒たちに激しく吹きつけましたが、中断することもなく演技は続き、無事集団演技は終わりました。
 みんなはやんややんやの喝采でした。それに対し僕は、「寒いな…、早く帰ってゼビウスやるぞ」という具合に、全く集団演技のことなんて考える隙間さえありませんでした。
 教室に帰ると、なぜかクラス全員のボルテージが異常に上がっていました。男子も女子も頭から全身びしょぬれで、体育着も泥まみれで、まるで、全ての苦楽をともにした戦友がごとき、みんなはしゃぎ、互いをたたえあっていました。

 するとどうでしょう。ありません。僕の居場所が。

 当たり前です。僕は真っ白な半そでYシャツと、まじめな中学生がはく普通のストレートの黒ズボン姿。みんなの会話に入れるわけはありません。
 別に僕は友達がいないわけじゃない、まあ差し障りのない人でした。でもそのときは自分の席につき、まっすぐ前を見据え、時間がたち、先生が来てホームルームが始まるのを待つことしか出来ませんでした。
 しかし、30分たっても先生は来ません。つらいっス。
 すると、必ずクラスにひとりはいるチャチャを入れるキャラのK君が、僕に言いました。
「いいね、見学は。ラクだな。」
と、ささくれだった僕の神経を麻酔無しで一刀両断でした。
 僕は我慢の限界が来て教室を飛び出し職員室に行き、担任のS先生に、
「お腹がものすごく痛いので早退します。」
と言ってトボトボと家路につきました。
 そのとき思いました。こんなことなら嘘をつかずに出といた方が良かったかな、と、はじめて思いました。

 伊集院さん、僕は大丈夫ですか?

 (PN:女体盛り三太夫)
 98.9.21 放送 (第154回)  
 小学校の頃僕にはあまり友達がいませんでした。
 というのも、あの頃の僕はまじめだけがとりえで、悪ガキ盛りの他の子とは一線を引いていたからです。とにかく僕はまじめでした。人に誘われてピンポンダッシュをやった時なんかは、その罪の重さに耐えきれず、後日自分から申し出て母親と謝りに行ったぐらいです。
 でも、その当時はそんな性格を誇りに思っていました。だから、友達が少ない生活に耐える事が出来たのかもしれません。いつもひとりで遊んでいました。

 あの日も僕は遊ぶ人がいず、ひとりで近所のホームセンターに工具見物に行きました。その日は夏休みで、平日しかも午前中ということもあり、店にはあまり人がいませんでした。
 ボルトやナットをひとしきり眺めた後、気付くと僕は大きな鏡の前にいました。
 そこには大きな鏡だけではなく、中くらいのものや小さい手鏡なんかもありました。要するに僕は鏡のコーナーにいたのです。
 いろいろな僕の顔を見ていると、ふとある手鏡が僕に話しかけてきました。

 「拙者を買うでござる。」

 それは、裏にハットリ君の絵が描かれているものでした。僕はそれを手にとり値札を調べました。5百円。僕の手持ちは百円。それもこの百円は今日のおやつを買うためのものです。残念だけど買えません。僕はハットリ君の鏡をあきらめ、そして、元の棚に戻しました。
 しかし、僕が鏡から手を放した瞬間、それが棚から地面に落ちました。

 ペリキ。

 僕が慌てて拾い上げ鏡を見てみると、鏡の裏のハットリ君が泣いていました。
 僕は、とりあえず、泣いたハットリ君こと割れた鏡を棚に置きました。
 それからまじめな僕は、逃げました。
 家に着きました。
 自分の部屋に入りました。
 押し入れの中に身を隠しました。

 まじめな僕が生まれて始めての犯罪です。でも、何かが、何かが僕の頭に貼りついて離れません。ハットリ君が不思議な忍術で、

 「イタイでござる、助けるでござる、イタイござる」

と僕を責めます。
 人に誘われたピンポンダッシュと違って、こんな重い罪は親にうちあける事が出来ません。昼食のあいだ中、僕は母親に背中を向け彼女の目を見ないようにしていました。そんな僕を変に思ったのか、不意に母親が僕に話し掛けてきました。
「あれ、どうしたの?元気無いね。」
 僕が黙っていると母親は続けて、
「あ。なんか欲しいもんでもあるんでしょ。」
と近寄ってきました。僕はそんな母の陽気さが嫌になって自分の部屋に戻りました。
 部屋で昔の写真を見ていると、母親が部屋に入ってきました。そして、「もう、しょうがないんだから。」と何かを差し出しました。母の手の中にはキラリと光る5百円玉がありました。母親は、僕が何かを欲しがって拗ねてると勘違いしたようです。
 しかし、僕の心の中に一筋の光が差し込みました。
 このお金で割れた鏡を買えば僕は無罪になる。
 僕は無罪に向かって走り出しました。ホームセンターの鏡のコーナーには、まだ僕の割った鏡がありました。僕はそれを拾ってレジに行き、鏡の部分を下向きにして出しました。店員は、鏡が割れていることに気付くことなく、鏡を袋に入れてくれました。そして、すべてがこれでうまく行くはずでした。

 しかし。袋を持って僕に手渡そうとする店員。手を出す僕。ハットリ君の忍術。

 袋が僕の手に渡る前に地面に落ちました。店員は「すみません」と言って慌てて袋を拾い中を確認しました。店員の顔が曇りました。僕は彼女が何故そんな顔をしたのかがすぐに分かりました。しかし彼女がそんな顔をする必要はないのです。鏡は最初から割れていたのです。しかし店員は、「ごめんなさい、鏡割れちゃったんで、替りの持ってくるね。」と新しい鏡を取りに行きました。これで鏡を取り替えてもらったら罪が償えません。それどころか店員の彼女に無実の罪を着せてしまいます。替りの鏡を持ってきた店員に真実を言おうとしました。しかし、声が出ません。足の震えが止まりません。差し出されるがままに袋を受け取った瞬間、僕は頭の中が真っ白になりました。僕は貧血を起こしました。その場にしゃがみこんだ僕を店員は心配してくれましたが、彼女にこれ以上迷惑をかけられません。僕はよろよろと店を出ました。完全に意識を取り戻した時、僕は公園のベンチにいました。僕は袋の中から鏡を取り出しました。

 このままこれを持ち帰ったら僕は罪人だ。

 僕は立ち上がり、鏡を地面に投げつけました。
 ところが鏡は割れません。何度やってもそれは同じでした。
 こんなに丈夫なら何故あの時は割れたのでしょう。

 伊集院さん、割れねぇっス。本当に割れねぇっス、あれを割らないと…。
 僕は大丈夫なんでしょうか。

 (PN:泥まみれ)
 98.9.14 放送 (第153回)  
 あれは小学校の低学年の時でした。

 僕は夏休みの宿題の自由研究に、カブトムシの観察をしようと思いました。
 しかし肝心のカブトムシは飼っていませんでした。親にねだって買ってもらおうと思いましたが、すでに当時の人気ゲーム、ファミスタを買ってもらっていた後だったので、これ以上買ってもらうのは親に悪いと思い、カブトムシはあきらめかけていました。

 そのことを友人のKに言うと、「ファミスタをやらせてくれたら、僕の家にも、カブトもクワガタもいるから見せてあげるよ。」と言いました。
 僕とK君は同じ遊びグループの一員でしたが、2人きりになると話題が無い2人、のような関係でした。行くかどうか迷いましたが、結局行くことにしました。

 買ったばかりのファミスタを持ってK君の家に行くと、カブトもクワガタもいました。僕とK君はカブトとクワガタを見たり、外に出して遊ばせたりしていました。
 一段落して僕たちはテレビゲームをやり始めました。1時間ぐらいして、ゲームに飽きてきた僕はカブトとクワガタを見に行きました。そして、いいことを思いつきました。

 「そうだ、カブトとクワガタを対決させて、どっちが強いのか調べて、それを自由研究にしよう。」

 僕はテレビゲームに熱中しているK君をよそに、対決を始めました。
 僕の予想は、両方とも同じぐらいの大きさだから、5分5分だろうと思っていました。
 1回目はカブトムシがツノを使い、クワガタをひっくり返して勝ちました。その後も、何回やってもカブトムシが勝ちました。10回ぐらいやって、クワガタが唯一負けなかったのは両者リングアウトで引き分け、ぐらいのものです。結果は、カブトムシの9勝0敗1引き分けでした。
 この結果をそのまま書くと、先生から「ちょっと、クワガタが1回も勝たないなんて実験をちゃんとやっていないわね?」というようなことを言われそうで不安だったので、クワガタが勝つまではやろうと思いました。

 しかし、いっこうにクワガタは勝ちません。弱い野球チームが負け続けても応援しているファンの気持ちが少し分かったような気がしました。こうなると、なんとしてもクワガタの1勝が見たくなりました。

 クワガタの勝利が見たい!クワガタの勝利が見たい!見たい!見たい!

 カブトムシにデコピンを食らわせたりして少し弱らせようとしましたが、それでもカブトの連勝は止まりません。

 クワガタの勝ちが見たい!クワガタの勝ちが見たい!

 だんだんデコピンが強くなっていき、突然カブトのツノが折れました。


 強すぎるカブトにすでに憎しみが湧いていたせいもあり、『OK、ハンデ!!』 それぐらいの気持ちだったと思います。


 K君はゲームに熱中しています。
 そこでもう1回対決してみると、クワガタが勝ちました。僕は大喜びでした。
 K君もファミスタに夢中で、まったくあかの他人がひとつの部屋にいる状態でしたが、もともと興味はない同士、何の問題もありません。
 それからクワガタは連勝連勝また連勝。カブトムシとの勝ち星が並びました。

 でも僕は素直に喜べなくなりました。
 クワガタが勝ち続けていくうちに、あれだけ強かったカブトムシが負け続けていくうちに、自分のやったことの重大さに徐々に気づき始めました。
 だんだんカブトムシが弱っていくように見えました。
 ふとK君を見てみると、試合が終わりそうです。僕は突然K君に、

 「なあ、このカブトとクワガタ1日貸してよ。ね? あぁ、じゃ、そのゲーム貸してあげるから。いいだろ!」

と、半分無理矢理ゲームを押し付けて、貸してもらいました。K君は全く気づいていないようでした。
 家にダッシュで帰ると、まず押し入れに2匹を隠しました。そしてその夜、親に必死にねだって、明日買ってもらう約束をしました。
 次の日朝一番に買いに行きました。家に帰ると隠しておいたクワガタを出して、買ってきたカブトとともにK君の家に行き返しました。K君は気づいていませんでした。

 家に帰ると、ツノの折れたカブトムシをどうするか考えました。
 僕は、自然に帰してやることにしました。早速ちょっと遠い草むらに逃がしました。
 カブトムシがいなくなったことを親に怪しまれないため、遊んでいたら突然死んだ、という設定を思い付き、庭に墓を作りました。もちろん墓の中にカブトムシはいません。ニセ墓を作って少しは落ち着きました。カブトムシを逃がしてやって罪がほんの少し、ほんの少しですが、軽くなったような気がしました。後は親にちょっと怒られるだけで全てが丸く収まります。
 ところが母親が、「お墓を作ってあげたので、カブトムシも天国で幸せに暮らしている」というようなことを言いました。
 そこで初めて泣きました。

 伊集院さん、僕は大丈夫でしょうか。

 (PN:三枝リョウこと三枝ドラゴン)

 あれは小5の頃に起こった事件です。しかし、あれを事件だと気づき、自ギャグの谷に蹴落とされたのは、それから2年も経った中1の時のことでした。

 中学に入ると、席が近いこともありY君とすぐに友達になりました。Y君は類まれなるエロ知識の持ち主で、何も知らない純な僕にあらゆるエロを教えてくれました。「子どもは何故生まれるのか」を手始めに、エロ本がよく捨ててある場所、夜、エロ本を自販機で買うコツ等々、盛りだくさんの授業でした。Y君のエロ学入門編は普通の学校の授業より格段に役立つことで、僕の他にもうひとりS君という生徒もいました。
 S君と僕は順調にエロ学を深めていきました。
 しかし突然、僕だけが自ギャグの谷に蹴落とされることになるのです。

 ある日、Y君がコンドームの自販機を発見したとのことで、放課後、見学に行くことになりました。コンドームというものの存在は知っていたのですが、まさか自動販売機があろうとは。興奮していました。現場に着きました。見ました。蹴落とされました。

 2年前にさかのぼります。
 あれは小5の頃の出来事です。母は僕が小4になると、保険の外交員として働くようになり、帰りはいつも夜でした。仕事でいくら疲れていても家事をきちんとこなし、僕に優しい母を見ているとやるせない気持ちになりました。いかに自分の家が貧乏かを競い合う電話のやりとりや、時折見せるため息は、僕の心をねじ曲げていきました。小5の林間学校の集金袋を母に渡す時には、林間学校なんて無ければいいんだと半泣きだったし、今度の誕生日のプレゼントはラーメンバー(当時人気のお菓子)が欲しいと言いました。本当はスケボーが欲しかったのに。ひどく家計が苦しいということもなかったはずですが、その時の僕は母に対していつも申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。

 そんな僕に大イベントの日がやってきました。母の日です。
 僕は母に何をプレゼントしようか悩みました。あんなに迷惑をかけているんだ、お決まりのカーネーションだけでは済まされないぞ、ということで追加のプレゼントを考えました。よく母が、保険の外交の仕事でストッキングを伝線させてため息をついていることを思い出し、ストッキングを買うことに決まりました。よし、あそこの自動販売機で売ってたよな。あそこでゲットしよう、ストッキングを。ストッキングを2箱ゲットし、母の日にカーネーションと一緒にプレゼントしました。


 2年後。

 「これがコンドームの自動販売機だぜ。」
 「何言ってんだよ?これはストッキングの自動販売機じゃないか。」
 「何言ってんだよ、これコンドームの自動販売機だよ。ここに高級スキンって書いてあるだろ。コンドームはスキンともいうのさ。」
 「嘘だよ、何言って、…………さよなら。」

 その後、かなり夜中までサイクリングをし続けました。何故あれをストッキングの自動販売機だと思っていたのか全く分かりません。何故だ? なぜなんだ!?
 カーネーションとコンドーム2箱を満面のスマイルで子どもからプレゼントされた母の気持ちを思うと絶望的な気持ちになります。

 後日学校でS君の「笛舐め」があかるみに出て、S君と仲が良かったことと、エロ学を専攻していたことで、僕とY君もきっと一緒に笛を舐めたであろうということになりました。『笛舐めトリオに気をつけろ』はその年のクラスの流行語大賞に選ばれました。
 家にも学校にも居場所がなかったな。

 伊集院さん、母はカーネーションとコンドーム2箱を、さわやかな笑顔で、これをどのようなメッセージとして疲れた体で受け止めていたのでしょうか?僕の中に、映画『オーメン』のダミアンを見ていたのではないですか?
 水木しげる先生、「笛舐め」は妖怪ですか?鬼太郎だったらどのように戦いますか?教えて下さい。

 (PN:スパイク16文)

 あれは確か小学校1年生の頃だったと思います。
 当時僕は買ってもらったばかりのファミコンでスーパーマリオに熱中していました。しかし、あまりゲームは上手ではなく、まだファミコンに慣れていなかった僕は、1−2のエレベーターみたいのがあるところでいつもいつも落ちて死んでいました。そしてそれを繰り返しているうちに、当時約束だった30分のゲーム時間が終わってしまい、なぜか逆恨み的に「もうそろそろ止めなさい」と言ってくる母親を憎んでいました。

 そんなある日のこと。
 いつものとおりマリオに十数回の投身自殺をさせただけで30分が過ぎ、母親に「もう寝なさ〜い」と言われ、半ばキレ気味に歯を磨きトイレに行くという良い子の日課を済ませた後、2階の部屋に行き、さあ寝るぞと布団に入ろうとした時、下で何か音がします。「なんだろう?」と熊のぬいぐるみを小脇に抱えながら1階に下りてみると、音はテレビのある部屋からしていました。そしてよく聞いてみると、それは聞き慣れたスーパーマリオの地下のBGMでした。
 多分お父さんとお母さんがスーパーマリオをやってるんだ、僕はそう思いました。

 ここで今現在僕が同じ状況に置かれたら、普段はとてもまじめでゲームになど目もくれない両親が自分のゲームを理解してくれようと頑張ってくれていると考えて喜ぶと思うのですが、当時の僕には怒りがフツフツと湧いてきました。

 自分に寝ろと言っておいて、ゲームをしている。大人はずるい。
 そんな両親が許せなかったのと、母親に対する普段の間違った憎しみが爆発した僕は、いきなりドアを開けると、

 「ずる〜〜〜い!!」

と叫びました。
 父と母は驚いた様子でしたが、「なに?どうしたの?」と聞いてきました。僕がふと画面を見ると、マリオがエレベーターを越えて僕の知らない世界を走っていました。しかも、普段ほとんどゲームをやらない父親までもがです。僕はその瞬間、半キレから完キレに。熊を母親に投げつけ、ファミコンを台ごとひっくり返しました。そして大声で泣きました。

 それから、あのことはよく覚えていませんが、それ以来父と母がゲームをしているのは見たことがありません。
 僕が、これならきっと分かるだろうから一緒にやらない?と聞くと、「今忙しいから。」とちょっと淋しそうに言うのみです。その他、スーファミを買ってもサターンを買っても両親は一緒にやりません。

 伊集院さん、母と父をゲーム嫌いにさせてしまった僕は大丈夫なんでしょうか?僕はもう、楽しそうに笑いながらゲームをする父や母を見ることはできないんでしょうか?父と母はもう一度僕とスーパーマリオをやってくれるでしょうか?
 そして、その時僕は、父母と仲良くエレベーターを越えることは出来るんでしょうか?

 (PN:こういち聞いてるか)
 98.9.7 放送 (第152回)  
 「男なら誰でもエッチな事に興味があるものだ。」
 これは僕の通っていた小学校の用務員さんが僕が小学校3年生の時にのたもうた名言です。
 この言葉が僕に大きな大きな勇気と、ちょっとしたトラウマを与えてくれました。

 ありし日に聞いた名言を胸に秘め、スカートめくりや笛なめをエンジョイし、早3年。小学校6年生になったある日の事。
 僕が友達のA君、K君と3人で近くの図書館に宿題をしに行った帰り道、自転車置き場まで行くと僕の自転車のカゴの中に小さな裸の女の人がたくさんいました。
 「妖精かな?」
 違います。ピンクビラでした。
 僕はそれを手に取ると「すげーの見つけたぞ!」ドキドキしながらAとKを呼びました。
 僕の心の高ぶりをそのまま音声に変換したトーンの高さを察知して、2人はダッシュで集合すると、僕の高く掲げた右手に光るお宝を見て歓喜の声を上げました。
 「それどうしたの?エロいじゃん!すっごいエロいじゃーん!」
 「チャリのカゴに入ってましたー!」
 簡単な質疑応答が終わるや否や、僕の家へと向かいました。大人の紙には電話番号が書いてありました。
 当時僕の家は親子電話で、一人っ子の僕の部屋にはその子機がありました。
 さあ、この環境で、小学校6年の僕たちは何をしたのでしょうか?

 電話はすぐに繋がりました。
 めちゃくちゃ早いな、と思ったその時、怪しい音楽と共に聞こえてきたのは、僕ら小学生にはまず聴く事の出来ない大人の女の人の「うっふふーん」ではありませんか。
 僕は何だか頭がしびれたのを憶えています。
 「天国じゃ。」
 それが僕の第一声でした。友人は揃って受話器を奪い合い、しばらく頭をしびれさせた後、2人揃って「エローい!エローい!」とシャウトしていました。
 しばらくして2人はスト2を始めましたが、僕だけいつまでも天国の音を聴いていました。
 すると突然、
 「最後まで聴いてくれてありがとう。そんなあなたに、私の友達のもっとすごいテープを聴かせてあげる。電話番号は…」
 ガキの脳には少々きつい10ケタの数字でしたが、なぜか瞬時に暗記できました。
 そしてスト2をやっている友達を尻目に、ササッとメモり電話を切りました。
 その後は3人でスト2タイムを過ごしました。

 それから2ヶ月の間、2人はスト2、僕はテレフォンという日々が続きました。2人は「よく飽きないなぁ」と言っていましたが、僕は芋づる式にいろんな天国ナンバーを手に入れており、飽きるはずなどありませんでした。
 その中で最も興奮したのが、『京女』という芸者さん風の京都弁のボイスだった事から、一体この小学生は将来どんな人間になるのだろうと考えると不安です。

 そして、『京女』たちとのお別れの日がやって来ます。
 いつものように学校から帰って2階の自分の部屋に行こうとすると、おじいちゃんに呼び止められました。
 「おい、最近電話代がべらぼうに高いんじゃが、お前何か心当たりはないかい?」
 大アリです。
 「べ、べらぼうって?」
 恐る恐る聞き出すと、
 「何でも、電話局に聞いたら、ダイヤルQ2とかいう番号にかけた料金だけでも2万円。」
 2万円。
 2万円という巨額に震えが来たと同時に親が帰ってきました。もちろん、家族全員が勢揃いすると自動的に犯人も割れてしまいました。
 母のエキサイトっぷりは相当なものでしたが、その時父が間に立ってくれて言ってくれたのが、偶然にもあの言葉でした。

 「まあ男の子だったら、どこの家の子だってエッチな事に興味を持つ年頃だしな。」

 父上、そうなのです。全てはその名言のままに。
 そんな気持ちで瞳を潤ませていると、
 「どうせいつもの悪友とつるんでやったんだろう。しょうがねぇな。」
 父は笑顔まで見せてくれるではないですか。もうこうなったら、その方向でまとめるしか母の怒りをやり過ごす方法はありません。
 「そうなのです、父上母上。AとKと3人でつい調子に乗りまして。」
 この言葉を聞いた母が、
 「まあお友達関係に傷はつけたくはないけれども、その子達がもし自分たちのお家でQ2してたら大変だから。」
 と言って出て行きました。
 あれだけ仲の良かった2人と、ろくに口を利かないまま卒業式を迎えました。

 伊集院さん、あれから5、6年経ちました。あの名言は正しかったんでしょうか?
 今では歴史の年号もろくすぽ覚えられない僕ですが、『京女』の番号だけはいつ何時でも即答できます。
 これ、消せますか?

 (PN:子供のつまずき)

 98.8.17 放送 (第149回)  
 今から8年ほど前の中学校1年生の頃、クラスにちょっとした漫画ブームが起きました。
 このブームでこれといって取り柄のなかった僕に初めてスポットライトが当たりました。僕が描いた『スーパー守雄っち』というギャグ漫画がクラスで大人気になったのです。
 その頃、クラスの中で漫画を描いている者は何人かいましたが、鉛筆描き、無地のノートにフリーハンドで描いたコマの線、全てキャラクターが横向きといったような物が堂々と発表されていました。
 一方僕の漫画は当時大学で本格的に漫画を描いていた従兄弟の影響で(多分漫画研究会程度だと思います)、ケント紙に描いてあったり、黒の万年筆で描いてあったりしました(ちゃんとしたペンも使ってみたけど駄目だったので万年筆)。
 漫画の内容以上に評価が高かったと思います。
 何はともあれ僕のまんが道は高速道路で出発しました。クラスで僕の立場はグングン上がりました。
 2ヶ月もすると、クラスの実質的権力を握っている不良っぽい人まで『スーパー守雄っち』の読者になってくれて、消しゴムとか4Bの鉛筆とかを万引きしてきてくれたりと、バックアップしてくれるようになりました。
 それまで僕の事をクラスの中で飼っていたメダカのちょっと下ぐらいのランクに評価していたと思われる女子の一部までが「続きはどうなるの?」「次はどうなるの?」などと声をかけてくれるようになりました。
 ところが高速まんが道を猛スピードで突っ走る僕という自動車は、2つの構造上の欠陥を抱えていました。

 1つは、僕というちっぽけな軽自動車にはそのスピードに耐えられるボディがなかったことです。
 最初のうちは暇を見つけて2週間に3、4ページのペースで描いていた『スーパー守雄っち』は、3日に5ページぐらい描かないと皆が許してくれないようになりました。
 ブレーキを踏むべき個所もありましたが、ブレーキは何者かに取り外されていました。
 というより、クラスの人気者になるなどと思ってもいなかった僕は、皆に注目される快感に酔いしれ、はなからブレーキの使い方など知らなかったのかもしれません。
 家から一歩も出ず、何かに取り憑かれたように描く僕のフレームの軋みは、成績の急降下と母親のヒステリックな説教と言う形で現れていましたが、全てクラスの皆の「お前の漫画面白いよ」「お前は漫画の天才だよ」という物凄い爆音にかき消されていました。

 そしてもう1つはガソリンの問題です。
 『スーパー守雄っち』は元々数学の山際守雄先生をモデルにした漫画でした。山際先生は一言で言えば、生徒に好かれたいが為のギャグが空回りして、逆の効果が出て生徒全員から変人扱いされているタイプの先生でした。
 最初の頃は我ながら良く描けていた山際先生の似顔絵、守雄っちが学校で色んな目に会うという実話を極端にデフォルメした話だったはずの『スーパー守雄』っちでしたが、そうそう本物の山際先生が奇抜な出来事に遭遇するわけはないのです。
 回数を重ねるうちに守雄っちは宇宙に行ったり、プロ野球に入ったり、悪い博士に改造手術を受けたりと一人歩きを始めていました。
 それがまた人気の要素だったのですが、学校のゼロックスでコピーされた『スーパー守雄っち』が配られるなど騒ぎが大きくなるにつれ、「この事が先生の耳に入ったら殺される」という恐怖感を感じ始めていました。
 もちろん本気で殺されるとは思っていませんでしたが、守雄っちに漫画の中でビームライフルを撃たせたりもしていたせいで、怒った先生に近未来兵器で撃たれる夢にうなされたりもしました。

 そんなある日の事、僕は高速まんが道の途中で煙を吹いて止まりました。山際先生に呼び出しを受けたのです。
 事故現場を1コマの絵で描くとするならば、職員室の片隅のつい立で仕切られたスペースに山際先生と僕が向かい合わせに座り、その横で頭をペコペコ下げている母親。
 机の上に50枚ほどのゼロックスと成績表。
 そして吹き出しには「漫画っていうのはね、読む人に明るい夢とか、楽しい気持ちを与える物で…」という感じでした。

 伊集院さん、藤子先生、僕はこの事故の影響もあり2浪中なのですが、大学に入ったら漫研に入ってまたまんが道をドライブしてもいいのでしょうか?

 (PN:メロンパン)


 自分の体験を書くと今も健在の父の事に触れざるを得ない事と、自分は年齢的に伊集院さんと変わらないぐらい年齢が上なのが恥ずかしい事で今まで番組を聴くだけにしていたのですが、藤子不二雄A先生が来ると聞いて思い切って書いてみました。絶対匿名でお願いします。

 僕が小さい時、父が会社に行っている様子がなく、離れにあったプレハブ小屋にこもって何かしているのが仕事なんだということは何となく分かっていましたが、無口な父は教えてくれず、母が冗談交じりに言ったのを真に受けて、僕の中では「地球の平和を守るために何かをしている人」という事になっていました。
 その頃父親は地球の平和を守る仕事の合間を縫ってよく漫画を描いてくれました。
 それはハットリ君と僕が一緒に手裏剣を投げている僕だったり、巨人のユニフォームを着ている僕だったり、よく仲の良い友達に自慢していたものです。
 小学校も3年生になってから父の職業がプロの漫画家である事を知りましたが、父と母からこれは家族の秘密みたいな事を言われていて、友達と父親の職業の話になっても「会社員」と答えていました。
 この頃の幼い僕の推理では「ドラえもんや怪物くんを描いている人が怪しい」と根拠も無く思い込んでいて、後に藤子不二雄先生が2人である事を知ったり、テレビでお顔を拝見した時に下手に自慢しなくて良かったと思ったものです。

 さて、僕の中での父親像は僕の成長と共に変わっていきましたが、小学校高学年ぐらいからは「父はあまり売れていない漫画家なので恥ずかしいから秘密なのだ」というあたりに落ち着いて、それでも漫画はバカになるから買ってはいけないと言う友達の中、漫画に理解のある父が好きな事に変わりはありませんでした。
 中3の夏までは。

 あの日までの僕は家族の秘密も守っていたし、絶対に近づいてはいけないというかつての地球平和維持本部、いわゆる父の仕事場のプレハブに近づく事もしませんでした。
 それがあの日に限って何で禁を破ったのかは全くもって思い出せませんが、僕は父の仕事部屋で初めて父の描いている漫画の生原稿を目の当たりにしました。

 エロ漫画でした。

 しかもその当時両親に隠れて読んでいたエロ本各誌にかなり頻繁に見かける、その道では有名なエロ漫画家でした。
 正直に言います。かなりお気に入りのエロ漫画でした。
 それまでよく父が売れっ子だったらなと思ったものでした。
 そして実際、父は意外な所で売れっ子だったのです。そのおかげで僕はここまで大きくなったのです。
 けれど、中3の僕にその事は上手く理解できませんでした。

 それからというもの、父はさらに無口になり、僕は少しグレました。友達と父親の仕事の話題になった時に、「会社員」と答える習慣は変わりませんでしたが、その意味は大きく変わりました。
 この先を書こうかどうか迷いましたが、高1の時1度父と言い争いになり、「うるさい、エロ漫画家!!」と言ってしまった時の父の顔を思い出すと、今すぐ実家のプレハブに行って土下座したい気持ちになります。

 伊集院さん、もし今、もし今父にお願いしたら、父は僕とドラゴンボールの悟空がかめはめ波を撃ち合っている漫画を描いてくれるでしょうか。

 (PN:カニ食いザルとわたし)


 私の性格はどちらかと言えば内向的です。
 世間では花のOLなどと言われる立場でありながら、花の種類としてはバラでもカーネーションでもなく、刺身の横のワサビが乗っているピンクのプラスチックの花という感じなのですが、中学生の頃の私はいるんだかいないんだか分からない女子でした。
 成績は中くらい、スポーツも中くらい、友達関係も中くらいという誠に地味な私でしたが、あのやる気の無い生き物の代表格のホヤでさえ気まぐれにビュッと海水を吐いたりするもので、私にも趣味はありました。
 それが漫画です。
 私はその頃家に帰ると一生懸命漫画を描いていました。
 内容はいかにもといった感じの学園物の少女漫画でした。
 私なりに良く描けていると感じていたにもかかわらず、私が漫画を描いている事をクラスメートは一人として知りませんでした。
 というより、見せたいのは山々だけど見せる事が出来ない物でした。
 なぜならば、この漫画の登場人物全てがクラスメートをモデルにしていたからです。
 しかも極端なキャラクター設定がなされていて、実際にはちょっと性格がキツいかな?くらいのNさんを物凄く嫌な、罪も無い女子の上履きに画鋲を入れるぐらいの女の子に描いていたし、ちょっと不良ぶった所が無きにしもあらずかな?ぐらいのSさんは少年院から帰ってきた薬物中毒になっていました。
 事もあろうに、私と内向的仲間だった親友のHさんまで趣味は人を呪う事、常時カバンにわら人形という事になっていました。
 そして極めつけは主人公の私が恋多きお年頃のちょっぴりドジな女の子で、全ての吹き出しの語尾にハートマーク。もちろんモテまくり。付き合っている相手はその時好きだった1年上の先輩で、実際には話もろくすっぽした事ないのに、何かと言うとキスに設定されているという、ここまで来れば漫画を通り越して妄想ノートというような危険な物でした。
 しかし、こんな禁断な漫画も全く読者がいなくては描いた甲斐がありません。そんな訳で、私は4歳下の小学生の妹に白羽の矢を立てました。
 それが妹の中で大ヒット。途端に私は天狗っぷりを発揮して、自分のことを妹に「○○先生」と呼ばせたりして(その時付けていたペンネームが好きだった人の名字と自分の名前の間にネコのイラストが描いてあるという物凄いもので、ここには書けません)快調に描き続けました。
 この少女漫画ごっこのおかげで毎日が楽しくなりました。学校で多少嫌な事があっても、これを漫画ではこうしようと思うと何だかウキウキしました。
 今思えばあれが私のストレス解消法だったのでしょう。

 そんなある日の事、私の漫画の読者が1人増えました。
 いや、増えていました。
 いや、知らない間に増えちゃってました。
 家に帰ると、私と妹の部屋から話し声がします。
 ドアを開けると、妹が妹の友達と2人で私の漫画を読んでいます。妹も自慢気だし、お友達も楽しそうです。
 しかし、私は顔面蒼白になりました。
 お友達は私と同じクラスのKさんの妹なのです。
 体格のいいKさんは漫画の中でアフリカから来た転校生になっています。
 「○○先生、お帰りなさーい。」と妹が言うや否や、私はノートを取り上げて妹をひっぱたいていました。
 ワンワン無く2人を無理矢理部屋から押し出すと、部屋の鍵を締めて自分も泣きました。

 軽く登校拒否るほどショックを受けた割には、Kさんの漫画の件は伝わらなかったらしく、平和な学校生活を送りましたが、漫画の方は休刊になった雑誌よろしく二度と再開しませんでした。
 妹ともかなり長い間口を利かなかったと思います。
 後日談ですが、しばらくして卒業文集制作委員会なるものを決めるホームルームの時に突然Kさんが「この子漫画が上手いから」という理由で私を推薦した時にはその場で吐きそうになるぐらいビックリしましたが、ただ妹さんから「漫画が上手いんだよ」という話を聞いた程度で事無きを得ました。
 委員会は辞退しました。

 (絶対匿名)


 この前部屋を掃除していたら、訳の分からない文字がびっしり書かれた紙が本に挟まっているのを見つけました。そして、自ギャグの扉も開きました。
 あれは小2の頃だったと思います。夏休み、北海道のいとこの所に遊びに行きました。
 いとこは僕の持っていなかったファミコンを持っていたので、一緒に人気のドラクエ2をやりました。
 「一緒に」と言っても既にいとこは何時間もやっていたので、途中からいとこのプレーを見るだけでしたが、その時はとても楽しかったと記憶しています。

 夏休みが明けて2学期、友達と夏休みの思い出を話している時、僕はドラクエ2の話をしました。
 すると近くにいた普段僕とあまり会話をしないK君が話し掛けてきました。
 Kは夏休み叔父さんにドラクエ2を買ってもらったばかりらしく、いとこよりも全然進んでいなく、僕の話を食い入るように聞いていましたが、僕が「いとこの家でやったんだけどね。」と言おうとする前に、「あ、今度、復活の呪文持ってきて見せてよ。」と言うではありませんか。
 僕はドラクエ2を持っていません。ファミコンすら持っていません。
 「復活の呪文持ってきてよ」と言われても、持ってこれるわけがありません。
 気が付くと、首を縦に振っていました。
 が、動揺せずに僕は落ち着いていとこに電話をかける事にしました。
 そしていとこに「僕もドラクエ2買ったんだけど、この前一緒に見てた続きからやりたくて、復活の呪文教えて。」と言って復活の呪文をゲットしました。

 次の日、学校に持っていきました。
 そしてKに「これが今僕のやってる所。」と言い、自分には訳の分からない文字の羅列された紙切れを渡しました。
 その翌日、Kは「すごいね。もうレベル24なんだ。」と言い、感心していました。
 それからしばらくKとは楽しく会話が出来ました。いとこがやっていた部分を中心に。
 一週間後、Kが僕に「今どの辺まで進んだの?復活の呪文の新しいの教えて。」と言ってきました。
 嘘を吐き慣れた今の僕ならばKとの会話中微妙に「今ちょっとやってないんだよね、親がうるさくて。」みたいな言葉を入れてごまかせるのでしょうが、そこは小2。
 Kとの会話中、「いやー、K君まだまだだね。」「K君、まだそんなレベルなんだ。」など、さもゲームがエンディングに近づいているような言葉ばかり発言していたので、Kのセリフに対して首を横に振る訳にはいきません。
 仕方なくいとこに復活の呪文を聞きました。そして学校に持っていき、Kに渡しました。
 それから1ヶ月ぐらいでしょうか、僕はいとこに電話してはKに復活の呪文を渡し、Kとの会話で「まだ修行不足だな。」「魔法はね、回復中心に使わなきゃ駄目なんだよ。」みたいな曖昧な事を言う毎日が続きました。

 1ヶ月後、K君は僕のアドバイスもあり、ドラクエ2をクリアしました。
 この結果、僕の周りではいとことKの2人がドラクエ2のエンディングの感激を経験した事になります。
 僕を2人と感激を分かち合いましたが、僕の感激は実体の無い嘘の感激です。
 どうしても僕はその差を埋めたくなり、それからというもの毎日のように親にドラクエ2やファミコンをねだり、テレビゲーム反対派の親もついには折れ、しばらくしてドラクエ2とファミコンをセットで買ってくれました。
 待ちに待ったドラクエ2をスタートさせて思った事が1つあります。
 面白くないのです。なぜなら、楽しいはずの謎解きの答えを全て知っているからです。
 結局ドラクエ2はすぐにやらなくなりました。3、4、5、6はやりました。

 伊集院さん、最近ドラクエの7の情報をよく見かけます。僕にはやる資格があるのでしょうか。それとも、ちゃんと2をやってからの方がいいのでしょうか。

 (PN:宮尾すすむと日本の社員)


 あれは小学校4年生の時です。
 うちのクラスではプロ野球チップスのカードを集める事が大流行していましたが、僕はそのブームに乗るのをグッとこらえて、月500円の小遣いをコツコツコツコツ貯めていました。なぜなら、ファミスタを買うためです。
 この頃、ファミコンのソフトといえば高級品の代名詞で、誕生日とクリスマス、そしてお年玉をもらった時の年3本しか買えないのが常識でした。
 だから、クラスでゲームのブームが来るのはそのゲームの発売日ではなく、クリスマスとお年玉の後の3学期と決まっていました。
 そんな常識がまかり通る中、僕はコツコツと小遣いを貯め、夏休み前に発売したばかりの最新のソフトを買って人気者になるプロジェクトを進行させていました。
 運動も勉強も中の下で、活発なタイプでもなく、クラスであまり目立たなかった存在だった僕にとって、ましてプロ野球カードの話題にも参加できなかった僕にとって、このファミスタ人気者計画は人生最大のプロジェクトでした。
 お年玉の余りの2500円と月の小遣い500円のうち400円を貯金箱に入れる事半年以上。貯金箱の中には4500円のお金が貯まりました。
 後は7月1日に新しいお小遣い500円をもらえば、念願のファミスタが手に入ります。
 後は当日売り切れだと困るので、6月の終わりごろから近所のおもちゃ屋さんにファミスタを予約しに行きました。
 そしてプロ野球チップスブームの冷めやらぬクラスで「オレ、ファミスタ、買うよ。」と言いふらし、一躍クラスの人気者になりました。
 発売日にクラスの男子10人と僕の家でファミスタをやろうと約束もしました。
 プロジェクトは大成功です。これで残り3年の小学生ライフは人気者街道をばく進できます。

 いよいよ僕が人気者街道の新人レーサーとしてデビューする日が来ました。
 7月1日、僕は学校から帰ると母から7月分のお小遣いをもらい、「今日、友達たくさん来るから、たくさん来るから。」と言っておもちゃ屋さんにダッシュしました。おもちゃ屋さんに着きました。おばあちゃんに言いました。
 「ハッハッ、この前予約した、ファミスタください。」って言いました。
 おばあちゃんは言いました。

 「あれっ、ほんとに買いに来たの?」

 おばあちゃんの方にも、誕生日とクリスマス、そしてお年玉をもらった時の年3本しかゲームは買えない(逆に言えばおばあちゃんの方にしてみればその頃しかゲームは売れない)という常識があったらしく、誕生日でもなさそう、まして一緒に親が来なかった僕の予約は、完全にウソとみなされていたようです。
 「ねっ、ほんとにないの?ほら、お金持ってきたんだよ。」
 僕はおばあちゃんに千円札2枚と百円玉30枚を見せました。
 「ウソでしょ?予約したじゃない、僕。予約に来たよね?」
 何度も言いましたが、おばあちゃんからは「ごめんね。ほんとに来ると思ってないから。」としか返ってきませんでした。
 僕はとぼとぼ家に帰りました。家には10人のファミスタで築かれた友達が待っています。友達に帰って事情を説明しました。
 しかし皆からの反応は、
 「あのさ、ほんとにファミスタ買うつもりだったの?」
 「ウソなんじゃないの?」
 「プロ野球チップスも買えない奴がファミスタ買えるわけないじゃん!」
 等々の罵声でした。
 反論に疲れた僕は皆さんにお引き取り頂き、母が用意してくれた山ほどのおやつを1人で食べました。

 その一件で一緒にゲームをする相手もいなくなった夏休みも半ば過ぎ、ファミスタは手に入りました。何の目的も無くファミスタをやりました。
 夏休みが明けて2学期になると、クラスは再びプロ野球チップスの話で盛り上がっていました。
 クラスにファミスタブームが来たのは3学期に入ってからでした。その時点で僕は周りよりも遥かに上手くなっていたので、逆に誰も相手にしてくれませんでした。

 伊集院さん、最近の野球ゲームは大変面白いと聞きます。いつか僕と対戦して下さい。
 その時には、僕にレールウェイズを取らせて下さい。

 (PN:にしむり)


 夏休みの宿題と言えば観察日記。この観察日記で痛い思い出があります。
 15年前、小学校3年生の時、夏休み前の理科の時間、こんな夏休みの宿題が出ました。
 「家にある大豆でもやしを作ってみましょう。」
 もやしを作るなんて、子供の私たちにそんな大それた事が。という反応がクラスの大半を占めていましたが、僕はいたって冷静でした。
 なぜなら当時僕は自他共に認める天才ちゃんで、皆と一緒の授業がかったるく、特に得意だった理科に関してはかなり先の方まで勝手に教科書を読み尽くして理解していたので、3学期の初めは植物の発芽、大豆の観察を勉強する事などお見通しだったからです。

 「水を含ませた脱脂綿の上に大豆を置いて育てるようにね。それから、日の当たる所でやったらダメなのよ。」
 などの注意を先生が黒板に書いていますが、そんなこたぁ理科の教科書の先を読めばご丁寧に写真入で克明に書いてあるので、「2学期の始業式の日に、観察日記を提出して下さい。」という注意だけを聞いて後は「もやしが大豆から出来るとは、驚きだよ。」などとどよめく愚か者たちを見下していました。

 夏休み、天才君の僕は愚か者レベルの宿題を7月中に全部終わらせる計画を立て、予定通り3日で夏休みのドリルを終わらせ、余裕を持って理科の宿題に取り掛かりました。
 「えー、3日ぐらいで芽が出るから、んー、27日に終わるな。」なーんて余裕をかましながら、水を含んだ脱脂綿の上に大豆を3粒乗せました。
 後は教科書に「3日ぐらいで芽が出る」と書いてあるので、即座に「今日も芽が出ない」と2日分の日記を書き、大豆をほったらかしにしました。

 3日後、芽が出ません。
 仕方が無いので「芽が出ません」と日記に書きました。まぁこれぐらいの誤差があってこその植物観察だな、とも思いました。
 4日後、芽は出ません。8月に入った5日後も6日後も。
 8日ぐらいすると大豆の周りにカビが生え、大豆は異臭を放っていました。
 仕方が無いので、もう一度やり直す事にしました。今度は3日間ほったらかしにしないで、きちんと観察しました。

 3日後、出ません。
 4日後、5日後、そして8日後、またもや大豆の周りにカビが生えました。
 「また失敗だよ。」
 そう思った私はもう1度水を含んだ脱脂綿に大豆を今度は10粒いっぺんに置いて観察しました。
 10粒置きゃどれか芽は出るだろう。そう思いながら観察を続けました。

 3日後、芽は出ません。もちろん、8日後カビが生えました。
 この時になって初めて私は分かりました。
 「どうしよ、あと夏休みは一週間しかない。こうなったら教科書にある写真を手本にウソの観察日記を書こう。」と思った時、こんな考えが頭をよぎりました。

 「これは引っかけ問題だ。」

 算数ならまだしも、理科の植物観察に引っかけ問題なんてあるわけがないのですが、焦っていた私はそう思い込んでしまったのです。
 「先生め、オレを試そうとするとは。」
 私の考えはこうでした。

 確かに教科書には3日で大豆は発芽してもやしになると書いてあるが、あくまでそれは東京での事。ここ九州では10日で100%カビが生える。それを知らずに教科書を丸写しにしてきた者が罰を受ける。

 油断もスキもあったものじゃありません。
 私はカビが生える様子を克明に書いた日記を完成させました。

 2学期、自信を持って宿題を提出しました。
 そして最初の理科の時間、もやしの観察日記の発表会の時間、周りを見ると、
 「1日目 変化なし」「2日目 変化なし」「3日目 もやし」。
 愚か者どもは揃って引っかかっています。
 さあ先生、愚か者どもに裁きを!

 先生の裁きは僕に下りました。
 「S君は育て方に失敗したみたいね。」

 天才ちゃんの僕が失敗?皆が出来るもやしの観察なのに?僕だけ?失敗?

 愕然とする僕の周りに罵声が飛びます。
 「おい、S。なんだそりゃ?」
 「失敗?カビ観察してどうすんだよ。」
 「お前の大豆おかしいんじゃねーの?」
 正論です。青ざめる僕を見て先生がフォローを入れて下さいました。
 「皆静かに!失敗はS君の責任ではありません。大豆は、不潔な環境ではカビが生えてしまう事も…」
 先生が自分ですごい事を言っている事に気付いた時に、時既に遅しでした。

 「Sんちが不潔なんだよ!」

 あの日から私はネガティブという言葉がよく似合う人間になりました。
 小学校時代はクラスで1番勉強が出来たのに、学歴は高卒です。
 毎年夏になると大豆のカビた臭いを思い出します。
 伊集院さん、僕が大丈夫?
 それからもう1つ。僕の家で牛乳を観察したら、チーズ出来る?

 (PN:こだま号)


 あれは僕が小学校2年生の頃、当時家の隣に住んでいたおじいちゃんが僕に対してとても優しかった頃の話です。
 母のお使いでよくおじいちゃんの家に行かされました。僕が行く度におじいちゃんは「お利口だねぇ。」と言ってお菓子やお小遣いをくれました。
 僕はそんな事があって特におじいちゃんが好きでした。
 ある日、いつものように母のお使いでおじいちゃんの家に行く事になり、友人のK君も一緒に行く事になりました。
 僕は前からおじいちゃんの事をK君に話していたのでK君は「お菓子さ、とんがりコーンだといいね。」とか、帰りにいくらもらえるのかななどと僕に話し掛けながら心をときめかせているようでした。
 しかし、その日に限っておじいちゃんは何もくれず、僕はK君に軽い嘘つき呼ばわりをされました。

 次の日、学校でも僕の事を「嘘つき」と言ってきたので僕はキレてしまい、K君と学校で大喧嘩をしてしまいました。
 その夜、僕が先にK君に殴り掛かったという事で、僕がK君の家に謝りに行く事になりました。
 K君の部屋に入って謝ろうとした時、K君は僕に「だけど、全部おじいちゃんが悪いんだな。」と同意を求めてきました。
 僕はあんなにいいおじいちゃんが悪い訳はないと思いましたが、K君のポケットから当時僕らの間でプレミア中のプレミアだったガンダムのキラカードが見えた時、「んー、おじいちゃんにも悪い所はあったんじゃないかな」と思えてきました。
 そしてK君の家から帰る頃にはおじいちゃんはすっかり悪者になっており、二人で「おじいちゃんを懲らしめなければいけないな」という事になっていました。
 まず、僕とK君はおじいちゃんの家のポストに土を詰める事にしました。最初は土だんごを投げようと思ったのですが、すぐに見つかりそうだったのでこの作戦に変更しました。
 作戦は大成功。この悪さはすぐに近所の親たちに広まり、家の親も「お前はそんな子になるんじゃないよ」などと注意してきました。
 もちろん僕は「そんな事をする奴は僕が捕まえる」と言っていました。

 しばらくして、これでおじいちゃんも反省した頃だろうと思い、僕は母からおじいちゃんの家に行く用事をもらって行ってみると、おじいちゃんは「いつもありがとうねぇ。お利口だねぇ。」と言って、「これをお母さんに。」と干ししいたけだけをくれました。
 僕は「ありがとう」と言って家に帰ったのですが、心の中では、
 「オレが欲しいのはさ、おやつなんだよね。干ししいたけじゃないんだよねぇ。それぐらい気付かないようじゃ、ダメだな。」
 怒りが込み上げてきました。
 そしてその怒りをK君に話すとK君は分かってくれ、第二の懲らしめ作戦を実行する事になりました。
 その作戦は、『おじいちゃん自転車ぶつけ作戦』。
 名前の通り、道行くおじいちゃんがK君のこぐ自転車にぶつかるという作戦です。

 作戦実行日、僕はおじいちゃんを外に誘い出すためにおじいちゃんの家に行きました。それから一緒に散歩しようと言い、近所の公園に行きました。
 おじいちゃんは公園でクッキーを突然くれました。いつもならせんべいなのにクッキーです。子供にとって年寄りスナックのせんべいよりクッキーの方が魅力的です。
 僕はK君に大至急計画を中止するように告げようと思いました。が、連絡手段がありません。
 僕は帰り道、ヒットマンに狙われるおじいちゃんをガードするかのように辺りをキョロキョロしながら歩いていました。
 おじいちゃんの家まで後2分といった所で、ヒットマンことK君の自転車がおじいちゃんめがけて突進してきました。

 「あぶなーい!」

 僕はそう叫ぶとおじいちゃんの代わりにK君のこぐ自転車にぶつかっていました。

 骨、折れてました。
 K君、頭血出してました。

 翌日おじいちゃんが僕の家にクッキーを持って謝りに来ました。
 僕はおじいちゃんと顔を合わせる事が出来ませんでした。
 伊集院さん、小2でございます。
 若気の至りでございますが、罪も無いおじいちゃんに嫌がらせをしたり謝らせたりする僕はダメなんですよね?ダメですね。

 (PN:しょうわぎんざ)

 98.8.10 放送 (第148回)  
 あれは、僕が小学校6年生の頃だったと思います。
 その頃の僕は男子として男の強さへの憧れと、実際の子供としての弱さのバランスに揺れていた時期だったと思います。
 例えば、夜中にトイレに行くのが何となく怖くもあり、面倒臭くもありという少年でした。
 僕の家は3階建てで、1階におばあちゃんの部屋があり、2階にはお父さんお母さん、まだ小さかった弟も寝ていました。結構広い家の中で3階には僕1人だけの部屋がありました。
 その頃、ジャッキー・チェンの映画を頻繁にテレビでやっていた事もあり、僕は自分の部屋で体を鍛えるのが趣味でした。
 買ってもらった鉄アレイやサンドバックなどもあり、腕立て伏せや腹筋などをやっていたのですが、たまたま近所の散髪屋で読んだ『空手バカ一代』という漫画を読み、気分はすっかり武道家で、その真夏の8月に部屋を閉め切って電気ストーブをわざわざつけて合羽を着て汗だくで修行もどきをしていたりしたのです。
 しかし、夜はその部屋に布団を敷いて寝る訳ですが、僕の部屋からトイレまでが離れていたのと、トイレに行く途中にインテリア風の大きな鏡があり、夜にその鏡の前を通るのがなぜか怖かったので、トイレに行くのは不可能でした。
 そんな訳で、トイレの代わりにどこで膀胱一杯に溜まったおしっこをしていたかというと、修行の際に使っている電気ストーブの横の方に水を入れるコップがあり、水の代わりに毎晩おしっこを入れていました。
 今考えると、電気ストーブは毎日のように精神鍛練の名のもとにガンガンにかけていたので、部屋の中はアンモニア臭が立ち込めていたのですが、僕はその臭いに慣れていたのと好きだったのとで別に気になりませんでした。

 そんなある夏休み中、学校の登校日があったのですが、僕はたまたま熱を出していたので行けずに家で寝ていました。
 すると2階からお母さんの呼ぶ声が聞こえ、3階に数人が上がってくる足音が聞こえました。
 僕はなんだろう、誰だろうと考えていると、ドアをノックしてパカッとドアが開きました。
 ドアの向こうには同じ班の男子女子がいました。女の子3人の中には僕が好きだったHさんとクラスでも可愛いと人気があるIさんもいます。
 みんな、「大丈夫?」と優しい声をかけて部屋の中に入り、まだ横になっていた囲むように座りました。どうやら先生に言われてお見舞いに来てくれたようです。
 横になったまま男子と話していると、ふとHさんとIさんが顔を歪めて黙っています。
 「どうしたんだろう?」と思っていると、男子の一人がストレートに「この部屋しょんべん臭くねぇ?」と言い、僕はハッと気が付きました。
 僕は慣れているので気付きませんでしたが、部屋の中はボロい公園の汚いトイレの臭いがしていたのでしょう、みんな黙り込んで冷たい時間が流れていきました。
 僕は言い訳を必死に考えていましたが、焦れば焦るほど言葉が出てきません。
 男子はともかく、HさんとIさんは僕の事をどう思っているのだろうと想像しただけで死にたくなりました。

 僕はもう学校には行けない。行ったらあだ名は小便小僧に決まる。

 言葉には出来ない絶望感で固まっていました。

 どれぐらい時間が経ったでしょうか、しばらくしてお母さんがお盆にスイカを乗せて部屋の中に入ってきました。
 普段から「オレの部屋は神聖な道場だから決して入るな」ときつく言っていたので、この時初めて母さんもこの異様な臭いに気が付いたようで、「あんた何なのこの臭いは!?」と大声で言いました。
 みんな、ただただ黙って座っています。
 ここで僕がどうしたか。どういう行動に出たか。皆さん、お察し頂けますでしょうか。

 そうです。答えは逆ギレでした。

 僕は今まで横になった布団から脱兎のごとく飛び起き、みんなの腕を強引に掴んで無理矢理立たせ、背中を押してドアの外に押し出しました。
 もちろん今まで手も握った事の無いHさんとIさんも逆ギレ状態の僕は乱暴に体を押して外に追いやりました。
 その間、「もういいよ!出て行けよ!帰れよ、もう!どうでもいいだろ!勝手に来んな出て行けよー!」などと叫んでいました。
 部屋の中で一人立ち尽くしました。
 ドアの外では小さな声で母さんが「すいませんね、せっかくお見舞いに来て下さったのに、バカな息子ですいません。」とみんなに謝っています。
 その後、来た時の半分ぐらいの足音がして、みんなが帰っていきました。
 僕は一人で立ったままだったと思いますが、その後自分が何を考えどうしていたのかよく憶えていません。

 それから学校で友達と仲良くした記憶もありません。それまではKさんやIさんとも楽しく話をしていましたが、その後は会話をしたのかどうかすらも分かりません。
 夏にスポーツをやる事はなぜか無くなりました。
 今、僕は昔を思い出そうとするとなぜか伏せ目がちになっています。

 伊集院さん、伊集院さん。僕は大丈夫でしょうか。
 今、今ね、僕の部屋に友達を入れても、変な臭いはしないんでしょうか。
 かなりの無臭コロンを置いている現在でも心配です。

 (ラジオネーム:上腕二頭筋)


 夏といえば、思い出す事があります。
 伊集院さん、お誕生会というのは、小学生にとってかなりビッグなイベントですよね。
 しかし、そのイベントの大きさがビッグならビッグなだけ、そこでのダメージは大きくなりますよね。

 あれは、小学校2、3年あたりだったと思います。僕のクラスには僕と全く誕生日が同じHさんという女の子がいました。
 事の始まりはHさんがくれた1枚のカードでした。
 カードには「お誕生会をやります。みなさん、必ず来て下さい。」的な事と、場所(Hさんの家)と日時が書いてありました。
 僕の誕生日は8月10日で夏休み中なので、「皆を招きにくいのでお誕生会禁止」という自分で作った自分法に従い、納得していました。
 しかもうちが特に生活に困っているわけでもなく、8月10日にちゃんと家族で祝ってくれる事と、ちゃんとした注文通りのプレゼントを用意してくれる事から、僕はそれで十二分に満足していました。いや、満足しなければいけない法律なんです。
 大人子供の僕はそう考えていました。
 しかし、Hさんのカードの日時の所には8月10日ではなく、「8月10日は夏休み中なので1学期の終業式の日にやります。」と書かれてありました。
 これには僕も驚きました。こんな法の盲点があったとは。僕の中の、僕が作った風雲たけし城が白い服を着た濃いおっさん一人にぶち壊された気分でした。
 しかし当時の僕は大人子供だったので、表面上は平然としていました。
 クラスの全員が僕とHさんの誕生日が同じ事を知っていたので、クラスの、特に男子は「お前の家じゃお誕生会やんないのかよー?」とか「お前の家でお誕生会やんなら、オレそっち行くぜ。」とかありがた迷惑な事を言っていましたが、ここで普通の自ギャグなら「ぼ、ぼ、僕の家でもあるよ。」とか言ってしまうのでしょうが、僕は当時から後先をきちんと考えて行動する嫌な大人子供だったので、「うちは、家族だけでやるからいいんだ。」と言ってごまかしました。
 正直に言います。僕は本当に悔しくはありませんでした。
 しかし、もしHさんの会に出て、その会場で人から「お前、おんなじ誕生日なのにお前は誕生会やらなくて可哀相だな。」という目で見られたら嫌だなぁ。
 こう思うと、僕の大人ダムが人前で崩壊してしまうと考え、僕はHさんには何も言わず、お誕生会には行かない事に決めました。
 悔しい訳ではなく、クラスメートの可哀相EYESが嫌だったからです。

 当日、僕はHさんのお誕生会にクラスで唯一と言っていいぐらい呼ばれなかったM君と一緒に遊びました。
 M君はおとなしいタイプだったので小学生の中では浮いている存在でしたが、僕は割と気の許せる友人でした。
 M君と遊んでいるうちに、Hさんのお誕生会が始まる時間になりました。遊んでいる最中、僕は周りの人たちから「僕とM君はお誕生会に呼ばれなかった可哀相な人たち」という目で見られているのではないかと考えてしまいました。
 僕はほんの少しだけHさんのお誕生会に行ってやってもいいかなという気にもなりましたが、僕だけが呼ばれているので、M君を置いていく訳にもいきません。
 考えた結果、僕はM君に、
 「やっぱりさ、Hさんのお誕生会行ってみない?M君はさ、多分、Hさんが呼び忘れただけだって。僕がちゃんと交渉するから、な、な。行こうよ。行こう。Hさんのお誕生会。」
 こう言ってあんまり気の乗らないM君を強引に連れて、Hさんの家に30分位遅れて行きました。そこには皆集まっていましたが、まだ会は始まっていないようでした。
 僕はM君の事をHさんにきちんと説明しようとしたその時、クラスの悪ガキNo.1のYが、
 「おい、M、お前は呼ばれてないだろ?だったら帰れよ。」
 この後は周りの男子とカエレコール。
 M君は僕とお金を出し合って買った練り消し300円分とドラクエの文房具という、それさえ持っていれば学校での人気者間違い無しというプレゼントをその場で男子に投げつけたとしても許されるぐらいの屈辱を受けていました。
 しかし、僕よりさらに大人に近い子供だったM君は、共同プレゼントを僕に小さな声で「はい。」と言って手渡してきました。
 泣いてはいませんでしたが、かなり悲しそうな顔に感じました。M君は走って帰ってしまいました。
 僕のせいでM君を悲しそうな目にあわせてしまったと思い、こんなYのような奴のいるお誕生会にはいられないと思い、僕も帰ろうと思いました。そしてこのプレゼントはM君と分けようと思いました。
 そしていざ帰ろうとしたその時、Hさんのお母さんが台所から出てきて僕を止めましたが、ここで思いも寄らぬHさんのお母さんの発言が僕を狂わせ始めました。

 「ケーキまで用意したんだから、帰るんならケーキ食べていきなさい。」と言いました。
 ケーキにちょっと心は揺らぎましたが、「ケーキはいつでも食べられる。それよりM君の方が大事だ。」と思ったその時、ふとテーブルの上を見るとそこにはケーキが2つあり、1つにはHさんの、そしてもう1つには僕の名前が書いてありました。
 Hさんとお母さんは誕生日が同じ僕の誕生会を兼ねて計画してくれていたのです。
 僕は悩みました。
 嫌な奴No.1のYがいる事の嫌さ、みんなの前でろうそくを消したいという気持ち、M君が気になる事などが僕を悩まし、みんなが歌ってくれる歌の中で僕はろうそくを消しました。
 その後みんなは僕とHさんの2人分のプレゼントを用意してくれていました。
 恥ずかしながらこの時点でM君の事は微塵も僕の心に残っていなかったと思います。
 その後ご馳走を食べたり、マットでやるファミコンなどをして遊んだ記憶があります。
 後でHさんにM君の事を聞いたら、「呼んでも良かったけど、呼びにくかった。」との事でした。

 夏休みが明けて初めてM君に会った時、意外にも普通にM君が喋ってくれました。彼は多分、僕の考える小学生の領域を完全に超えた大人ではなかったのかと今でも思います。

 伊集院さん、僕は文章が下手で、あまり上手く書けなくて、まだまだ書きたい事はたくさんあります。
 M君の心の中とか、M君の気持ちとか、夏休み明けのM君の心の中とか、上手く書き切る事は出来ません。
 僕は今年の19歳の誕生日にはHさんと共催という形でまたお誕生日会を開く事はできますか?
 そしたらM君は来てくれますか?
 マットのファミコンできますか?
 ガキ大将のYは立派な大人になりましたか?
 教えて下さい。

 (PN:蓮芳さんに追いかけられる夢を見ました)

 98.8.3 放送 (第147回)  
 同封いたしましたのは、あの出来事を一番物語っている物なのです。
 (一枚のプロ野球チップスカード、当時のロッテオリオンズ29番村田兆治)

 あれは小学生の頃でした。当時僕は野球チップスを鬼のように買っていました。
 その頃の僕のお小遣いは1週間100円で、習い事のスイミングスクールに行かないとお小遣いは無しという厳しいものでした。
 もちろん、その100円は1個30円の野球チップスを3つ買って、はいおしまい、というような感じでした。
 しかし、毎週毎週3つ買っても出てくるカードは大体同じ物でした。いの一番にロッテの村田兆治。二番目が中日の立浪和義のポーズ違い。全く同じカードばかりでした。
 段々苛立ちが募り、どうすればいいか自分なりに考えました。100円というお小遣いに不満がなかった訳ではありません。
 そこで考えた結果、月の初めにまとめてお小遣いをもらうという結論に達し、母親に交渉すると、あっさりOKが出ました。

 そして翌月、400円を握り締め、野球チップス13個(買えるだけだったと記憶しているので、多分13個)をカゴに入れ、さっそうとレジへ。
 そこに同じクラスのYがいました。
 Yは「オレ、昨日、誰々のカード手に入れたぜ。」
 誰のカードだったかは忘れました。多分すごい人だったのでしょうが、13袋も持っているのだから、そんなカードはうらやましくも何ともありません。
 僕は「ふーん、すごいね。」ぐらいの事を言って、すぐにYと別れました。
 家に帰って13個の野球チップスのカードだけをむしり取り、片っ端から開けました。
 「またこいつか!」と、「またこいつか!」と。
 また自分の持っているのが2、3枚続いたその時、
 「やったー!」
 ついに自分の持っていない、しかも金で周りが縁取られた、中日ドラゴンズの鈴木孝政が出てきました(確か)。
 さらにカードの入っていた袋に「あたり」の文字が。その頃は、当たりが出るとカードケースだかアルバムだかがもらえるので、僕はとても喜んだ記憶があります。
 しばらく毎日のおやつがコンソメ味のポテトチップスになりましたが、そんな事よりも当たりが出た事の方が嬉しくてすっかり舞い上がっていました。

 当たりやものすごいカードを手に入れ、ここでカード収集は一区切りだと思うかもしれません。
 しかし、この事がさらに僕の収集欲に火を付けてしまったのです。
 月の初めに小遣いをもらっては野球チップスにつぎ込み、同じカードは友人と取り替えたり、あまりにダブって価値が無くなったカードは面倒なので友人にあげたりしていました。
 しかし、
 「もっと買いたい。もっと買いたい。もっと買いたい。もっと買いたい。もっと買いたい。」
 欲求は募りに募り、僕は禁じ手を使う事にしました。

 「親の財布から取っちゃおう。」

 さて、いつ取ろう。母親は当時まだ働いていなかったので一日中家におりました。
 「母さん家にいるしなぁ。どうしようかな。そうか、お母さんより早く起きればいいのか。でもまてよ、朝ご飯作るのに一番早く起きるのがお母さんだし。」
 そして考えに考え、

 「そうだ、僕がご飯を作ればいいんだ。」

 訳の分からない結論に達し、母親に即、「明日、僕が朝ご飯作るよ。」と言いました。
 母親は少し驚いていましたが、「楽しみにしてるわ。」のような事をいいました。
 そして僕は「出来るまで絶対下りてきちゃダメだよ。僕が朝ご飯を作るんだから、出来るまで絶対にね。絶対に、下りてきちゃダメなんだよ。」と釘を刺しました。
 今思えば、この言葉が母親をかえって怪しませたのかもしれません。
 そして朝早起きをし、目玉焼きを作ろうとしました。
 そして卵を焼いている間に冷蔵庫の上に置きっぱなしの財布に手を伸ばし、無造作に小銭を2、3枚掴むと財布を元に戻し、何事も無かったように目玉焼きを作りました。

 その日は春休みか夏休みか忘れましたが、学校がなかったので開店直後のスーパーへ行きました。
 取った小銭は101円。どうやら運悪く2枚のうち1枚は1円玉でした。
 野球チップスの袋を掴み、レジへ。
 その頃チップスはもう食べたくない、味に飽きた、どっちの理由か忘れましたがチップスは捨てていました。
 3枚のカードの袋を開けると、またあの独特の投球フォームの村田兆治が。残りの2枚も持っていたやつだったと憶えています。
 僕はとうとうキレてしまい、店に戻りました。
 そして最後の手段に出ました。

 「カードだけ、取っちゃおう。」

 そして気が付くと、チップス売り場の前に立っていました。幸い周りには人はいませんでした。
 僕はチップスを選んでいるふりをして少しずつチップスからカードの袋を引き離し、置いてはそこらへんをうろうろし、少しずつ破ってはうろうろ。
 今思えばそんなの明らかに挙動不審に見えますよね。とうとう店員が近づいてきました。
 それに気付いて僕は気が動転してしまいパニックになり、いきなりポケットから野球カードを出し(盗まれないように外に出る時は必ず全カードを持ち歩いていました。それは特に大事にしているカードが主でした。その頃友人のMがビックリマンシールや色んな物を友達から盗んでいるという噂が流れていたのでこうしていたのだと思います)、
 「あの、あの、このカード落ちてたんですけど。」
 よりによってこの前当たった金の縁取りのあのカードも含めて店員に出してしまいました。自分では何と自分はバカな男だと思いました。
 店員は少し黙ってからカードを受け取り、どっかに行ってしまいました。
 僕の大事なカードをよりによって自分のせいで失う事になり、僕は完全にキレてしまい、破れかかったカードの袋をむしり取ると家にダッシュで帰りました。

 袋を破りカードを取り出すと、既に2、3枚持っていた立浪のカードが出てきました。
 僕はそのカードをグシャグシャにして投げ捨てました。そしてすこし泣いていました。
 さらにそこに顔を真っ赤にした母親が入ってきて、いきなり僕を引っ叩きました。
 僕は飛びました。
 母親、
 「あんた、財布からお金取ったでしょ?」
 バレていました。
 その財布には小銭が4、5枚しか入っていなかったのでした。母に叩かれ、僕は全てを吐きました。
 そして罰としてお小遣いはしばらく無し&カード全部没収という厳しい罰を受けました。
 それから野球チップスには見向きもしなくなりました。そしてコンソメ味の食べ物は大嫌いになりました。

 この自ギャグはこの前自分の部屋を掃除していた時にカードが1枚だけ入ったアルバムを見つけて甦ってきたものです。
 そのカードはその村田でした。今さら持っていたくはありません。
 伊集院さんも当然いらないと思いますので、好きにして下さい。
 さらにあの時親に泣きながら「もう二度と悪い事はしません」と誓わされたにもかかわらず、その2、3年ぐらい後に1000円を盗み、近所の駄菓子屋の前でジャンケンポンゲームを一生懸命やっている所を両親に現行犯逮捕されたため、家を一時追い出されました。
 さすがに僕も凝りました。あれ以来、万引きもお金を盗む等の事もしていません。

 伊集院さん、僕は大丈夫なのですか?(僕の野球カードは多分捨てられた)

 (ラジオネーム:ユースケサンタマルタコーヒーは豆科と存じます 17歳)


 小学校3年ぐらいの頃の話でしょうか、私の使う通学路には駄菓子屋さんがあり、そこで買い食いをして帰宅するのが習慣でした。
 買い食いと言っても100円に満たない買い物なのですが、当時の私には大きな楽しみでした。

 ある日、私とSはいつものように『うまい棒』を買いながら食べて歩いていました。
 その日、持ち合わせがなかったせいでS君におごってもらっていました。当時ちょくちょくS君には物をおごってもらっていました。
 小学生低学年の私にとって、『うまい棒』なぞおごってもらう事はとても大きな買い物をしてもらったような出来事で、何となく兄と弟のような上下関係が出来上がっていました。
 いつも曲がるT字路にはシロウという犬がいて、私たちはいつもその犬と遊んで帰るのが習慣になっていて、その日もお手、チンチンという頭のいいシロウの一連の技を見せてもらい、さあ帰ろうと立ち上がりました。
 その時、Sが自分だけ一本多く購入していた『うまい棒』を取り出し、シロウに食べさせました。
 もったいないな、という気もしましたが、おいしそうに食べるシロウを見てとても心が和む思いもしました。

 と、ここまでは犬と少年の和やかなお話ですが、少年たちは和やかな顔だけではありません。平気でトンボの羽根をむしったり、カマキリの顔を面白半分に360度回転させてしまう危険な年頃です。
 Sはいつのまにか購入していたかんしゃく玉を取り出し、
 「これ、食うかな?」
 僕、
 「んー、犬には食べ物に見えるんじゃないかな。」

 Sは犬の口に持っていきました。私は自分の家の犬にプラスチックのにんじんを食べさせようとして失敗した経験があったので、心の中で食べる訳ないと思っていました。
 確かに鼻の鋭い犬が口にするはずもなく、匂いを嗅いだだけで不思議そうにこちらを見ているだけです。
 そしてその顔は、「いや、そんなんじゃなくて、もっと『うまい棒』を下さいませんか?」と言っているように見えました。
 その時、Sは僕の残り一口ぐらいのソース味の『うまい棒』を指差し、
 「その穴にさ、かんしゃく玉詰めて食べさせてみよう。」という画期的ではあるけれど、それが故に確実にデンジャラスな考えを私に言いました。
 買ってもらった立場の私に答えられるはずはありません。
 確かに犬も大きく尾を振り、「早く、その『うまい棒』頂けませんか。」という顔をしています。繋がれているチェーンの張り具合からもそれをうかがわせます。
 Sにおごってもらった事もあり、Sの司令に一時的に弱い立場にいる私は一口サイズの『うまい棒』に青くてちょっとキラキラしてるかんしゃく玉を入れました。
 『うまい棒』にはちょうどいい大きさの穴が上から下まで空いています。想像通り収まり完璧でした。
 この時自分の『うまい棒』にも関わらず、既にもったいないという気持ちが湧いていなかったのは、私のデビル面が出ていたからでしょう。
 そして恐る恐る犬の足元に投げつけました。
 自然に足が2、3歩下がった私は、Sとドキドキしながら様子をうかがいました。
 先ほどのシロウの態度からして瞬時に口にすると予想していたのですが、鼻を使いいぶかしげに私たちを見ながら考えている様子でした。
 結局シロウは口にはしませんでした。少し残念な気持ちとホッとしたような複雑な気持ちでしばらく見ていましたが、私とSは帰る事にしました。

 しばらく歩き、シロウから50m以上離れた、いつも左に曲がる角を曲がった時でした。
 銃声です。
 しかもそれと同時に悲鳴です。
 といっても人間の悲鳴ではありません。
 というよりも銃声でもありません。
 いつもの塀にぶつけて鳴らしたような乾いた音でもありません。
 重く湿った音でした。
 Sと私はそのまま後ろを振り向かず自宅に向かいました。心なしか早歩きになり会話は少なく、何にも触れずに歩きました。

 翌日からシロウは私とSを見ると目を三角にして吠えるようになりました。
 その後しばらくして散歩中のシロウにも会いましたが、相変わらず吠えるので飼い主のおばさんが「あらあらいつも仲良しなのに、今日は変ね。」と言いました。
 私はその仲良しという言葉を聞いて大事な友人を失ったのだな、という気持ちになりました。
 そして小学校卒業まで私は通学路を変更しました。
 10年以上経った今でも、レンタルビデオ店で南極物語のパッケージを見かける度にパッケージの健さんに「お前らに見る資格はない」と怒鳴られているような気がして借りる事は出来ません。

 伊集院さん、大丈夫なんでしょうか。

 (PN:カドタッチ)

 98.7.27 放送 (第146回)  
 幼稚園の頃の僕は、自分でも恥ずかしくなるぐらいバカでした。
 大抵の幼稚園児なんてやつはそれほど利口ではないものだから大丈夫だよ、とお思いでしょうが、僕が幼稚園時代の僕を許せないのは、周りの大人の子供扱いに対して妙に反抗的に大人ぶった態度を取り、困らせた挙げ句最終的にはどうしょうもなくなって泣きわめき、結局「僕はまだ子供なんだからしょうがないじゃないか、びえーん」な所なのです。
 その代表的な思い出が、僕の頭の中にこびり付いている『夏休みウルトラ兄弟勢揃い事件』なのです。

 僕が幼稚園の年長組だった夏、今思えば僕の住んでいた町だけで有名だったKストアの屋上に、ウルトラ兄弟が来日しました。
 何週間も前からポスターなどで告知されているのを見て、同じ幼稚園の子供たちは子供らしくワクワクしていましたが、僕はそんな連中と同じに見られるのが嫌で、「ま、皆が行くって言うんならば僕も行ってもいいかな?」という態度を取っていましたが、子供部屋で一人家族に隠れて自分の考えた怪獣と戦うウルトラマンタロウの絵を描きながら奇声を上げるぐらい楽しみにしていました。

 当日、買い物に行く母親に同行した僕は、文房具売場に鉛筆を買いに行くついでに屋上に寄ってみようかな、というような意味の事を母親になんべんもなんべんもしつこいぐらいに強調してから母親と別れて屋上に向かいました。
 母親が見えなくなってからは走りました。確か、タロウの歌を歌いながら走っていたと思います。
 屋上に着くと、かなりの子供が親と一緒にステージを待っていました。近所の知っている子供もたくさんいました。割と前の方の列に幼稚園で同じ組のM君が見えました。
 『ザ・幼稚園』という顔つきでステージに注目するMを見て、僕は再び冷静になりました。
 「Mよ、君はなんて幼稚な幼稚園児なんだ。ぼかぁ大人だから君みたいな態度はとても取れない。」
 僕は後ろから押された振りしながらM君のいる方へと進みました。
 子供としては正しいスタンスのM君は僕の姿にすぐ気づきましたが、僕のアダルトな隠された一面に気付くわけもなく、
 「あーっ、K君。こっち、こっち。K君、こっち。」
 と大声で僕を呼びました。
 「嬉しい、嬉しい。いい席で見れるよ、後から来たのに。」と、
 「みっともないだろう。君がそんな呼び方をしたら、まるで僕がウルトラマンタロウに会いたくてしょうがないみたいじゃないか。」
 という気持ちが半分半分ぐらいでした。
 ヘラヘラと笑うM君の隣の席に辿り着いたとほぼ同時くらいにショーは始まりました。

 まず最初に司会のお姉さんが出てきて「皆でウルトラ兄弟を呼ぼう」と言いましたが、僕は大人なので全員は呼ばずにひいきのタロウだけを大きな声で呼びました。
 タロウを連呼しているうちにうかつにも楽しくなりかけましたが、出てきたウルトラ兄弟がエースとタロウの2人ぼっちというハズレっぷりにどうにか大人をキープしていました。
 もちろんM君は嬉しゲロを吐かんばかりに喜んでいましたが、しかし5歳児の限界はすぐに来ました。
 突然雷の音が鳴ったと思ったら、エレキングとバルタン星人が乱入してきたのです。2体とも僕のお気に入りの怪獣です。
 2大怪獣は会場の子供たちを狙っています。
 僕の頭の中はウルトラマン大好きチビッ子の夢で一杯になっていました。

 「ああっ、バルタンにさらわれたい。そしてタロウに助けられたい。」

 そう思った子供は止まりませんでした。
 もう既にバルタンは最前列の見知らぬチビッ子の中にさらうターゲットを決めていたようでしたが、その子が泣いているのをいい事にM君を含め何人かの子供を乗り越え、僕はバルタンの胸に飛び込みました。
 バルタンは仕方ないといった形で僕を抱えて見栄を切ると、舞台の横にある非常階段を上がり始めました。
 さすがに大人を気取る幼児だけあって、今で言う「お約束」みたいな事はおぼろげにでも理解しているつもりでした。
 この後タロウとエースが僕を助けてくれてショーはおしまい。
 しかし、会場の異常なまでの興奮とお姉ちゃんの「大変ー!大変ー!」という絶叫と、どんどん階段を上るバルタンから伝わる息遣いと、ふと見えたギャーギャー泣いているM君の顔を見ていたら、なんだか本当に怖くなってきてしまったのです。
 すっかりパニックになった僕は、バルタンの腕の中で大暴れを始めてしまいました。
 力一杯もがきました。
 バルタンが立ち止まり僕を押さえつけようとすればするほど怖くなって暴れました。
 その結果、十段ぐらいの高さから、バルタンもろとも僕は落ちてしまいました。

 バルタンが僕をかばってくれたために僕は無傷でしたが、バルタンは階段の下の地面に頭から思い切り落ちました。
 落ちた瞬間、バルタンの中から「ギュウ。」というような人間の声がしました。
 大人がたくさん走ってきて、ショーが終わってしまいました。
 僕はバルタンだった人と一緒に近くの病院に連れて行かれました。お母さんが泣きながらショーの人たちを怒鳴っていました。
 僕の隣の小さなベッドみたいなのの上で、頭だけ人間のバルタンが包帯を巻かれて眠っているのを見て、すごく泣いてしまいました。
 僕が泣く度にお母さんが怒鳴る声が大きくなりましたが、僕はいつまで経っても泣き止みませんでした。

 夏休みが明けて幼稚園に行ったら、僕がバルタン星人を一人で倒した事になっていました。
 M君とその時ショーを見に来ていた何人かが「すごかったんだぜー。」と盛り上がっている所に行って、
 「あの中には人が入ってるんだよ。本物のわけはないでしょ?」
 と吐き捨てました。

 あれから何度夏が来たのでしょうか。
 ティガやダイナを見る気にはなりません。
 伊集院さん、僕は大丈夫なんでしょうか?

 (匿名匿住所)


 小学校5年の時の事です。僕の通っていた小学校で、学習発表会というのがありました。
 これは5、6人のグループで調べ物をして、分かった事を壁新聞の形式で貼り出し、皆の前で説明をするというものでした。
 他の班は市役所の話を聞きに行ったり、家族からポラロイドカメラを借りて昆虫の写真をたくさん撮ったりしていましたが、僕たちの班は先生が題材は何でもいいと言ったのをいい事に、ドラえもんのひみつ道具一覧表みたいのを作ろうということになりました。
 最初は面白半分に僕が言い出したのですが、先生もそれでいいと言い、本格的な資料集めが始まり、日が経つうちに周りの班からも注目を集め始め、皆も私財をなげうってドラえもんの単行本を買ったり、コロコロコミックを買ったりと大変な盛り上がりになってきました。

 10日ぐらい後の事、発表会まであと1週間という段になって、紙面の70%が完成しつつあった僕らの班を、クラスの『ドラえもん博士』と呼ばれるH君が覗きに来ました。
 H君は『ぼくらのドラえもん ひみつ道具のひみつ』と名づけられた壁新聞を見るなり、
 「そのタイトルはコロコロコミックにあったね。」
 などとケチをつけてきました。
 そんなH君の事を最初は無視していたのですが、H君が次から次へと、
 「これはドラえもんオール百科から丸写しだね。」だの、
 「このウソ800(はっぴゃく)っていうのは、ウソ800(エイトオーオー)の間違いだね。」などの難癖をつけてくるうちに、一生懸命ひみつ道具のイラストを描いていたBさんが泣き出してしまいました。
 僕はBさんの事が好きでした。
 この段階でかなり嫌な気持ちになっていたのに、仲間のY君が「いくら俺たちが頑張っても、Hにはかなわないもんな。」みたいな言い方をして、H君をいい気持ちにさせる形になってしまった時、僕はとんでもない事を言ってしまったのです。

 「Hが知らない、ドラえもんのひみつを俺知ってるから、発表会の日になって驚くなよ。」

 全ては、この言葉が始まりでした。
 その当時の僕はテレビのドラえもんこそ欠かさず見ていましたが、単行本はお小遣いと『北斗の拳』の都合上、一冊も持っていませんでした。
 そんな僕がドラえもん博士の知らないドラえもん豆知識なんて知っているはずはありません。言った途端「しまった」と思いました。
 今なら言葉の最後に「うっそぷり〜けつぷり〜」(当時僕たちのクラスの流行語)を付ければ取り消せると思ったその時、
 「うそぷりけつぷりじゃすまないからな。」
 とH君が言いました。
 売り言葉に買い言葉。さらに値段を吊り上げての売り言葉を、僕は高値で買ってしまいました。
 「親戚のおじさんが、小学館に勤めてんだよ。」
 こうなったらハンマープライスです。
 相手がさらに吊り上げてきたらあっさり降りよう。「うそぷり」の「う」の口の形をしてH君の反撃を待っていると、H君が言いました。

 「ほんとに…!?」

 楽しみにしているからと言い残し、H君は行ってしまいました。
 さっきまで不協和音が漂っていたのがウソのように班の中の空気は明るくなりました。
 僕の中の空気だけ、ドス曇りになりました。
 その後も止まらなくなった僕のウソ特急は何駅か突っ走り、下校時には「それじゃ、明日までにおじさんに聞いてくるから。」と言い残し、家に帰りました。

 家に着いてすぐ、母親に「あのさ、お母さん。親戚にさ、小学館に勤めている人いないかな?」などと天文学的な確率の質問をしてみましたが、当然いません。
 本屋さんに出かけてみましたが、どれもこれもH君の持ってそうな本ばかりです。
 「それこそウソ800があればな。」などと考えながら自分の部屋で絶望しているうちに一晩明けてしまいました。

 翌朝、学校に行くと当然皆は駆け寄ってきました。
 口々に「ひみつは?ひみつは?」を繰り返す班の仲間に謝る勇気が出ず、しどろもどろになっていると、Bさんが助けてくれました。

 「ちょっとみんな、こんな所で極秘情報を喋れるわけないでしょ?」

 皆は『極秘』という響きにうっとりとしていました。
 「と、と、とにかく、放課後な。ご、ご、極秘だから。ね。」
 もはや絶望的な時間伸ばしをしてしまった僕に、Bさんが優しさ余って追い討ちをかけました。
 「ねぇねぇ、これ見て。」
 壁新聞のまだ何にも書いていなかったはずのスペースが奇麗に「(秘)(秘)(秘)(秘)」という記号で囲まれて、後はおじさんからの情報を待つばかりになっていたのです。
 3時間目の途中で早退きしました。
 本当にお腹が痛かったのかどうかは、よく憶えていません。
 帰り道、今、僕がしなければならない事は何だ、こればかりを考えていました。
 家に帰ってただ一言母親に、「部屋で寝てる。」
 そう言い残し僕は頑張りました。

 翌日の放課後、僕は班の皆の前に「(秘)」と書かれた封筒を差し出しました。
 中には僕の汚い字で、「来月号に出る道具 ワープハット」と書かれた紙が入っていました。皆はとても喜びました。
 誰かが「どんな形をしているのか、絵が欲しい。」と言いましたが、Bさんが「それは無理でしょ。」と言ってくれました。
 その時、家の机の上にはワープハットのイラストもありましたが、持ってこないで良かったと思いました。
 かくして、壁新聞『ドラえもん ひみつ道具のひみつ』は完成し、学習発表会も苦笑いで教室の前に立っている僕を尻目にY君が「なお、このワープハットについては、来月号のコロコロコミックで、全てが明らかになります。」と締めくくり、大好評でした。
 この翌月、あわよくば、偶然、偶然ワープハットなる物がコロコロに載ってくれたら、全て丸く収まるという僕の常識はずれな願いは、当然却下されました。

 そして僕の立場がどうなったのかについて。
 実際の所、僕にもよくわかりません。
 なぜならば、僕はずっとウソ特急に乗り続けたからです。
 確か停まった駅は「掲載が延期になった」「おじさんと連絡が取れない」「あれは結局載らない事になったが近いうちにワープブレスレットというのが載る」などがあったと憶えています。
 約2年弱。
 中学校に行くまでの電車の旅の途中、H君をはじめ僕を直接「ウソつき野郎」と罵ってくる人はいませんでしたが、あまりクラスメートと言葉を交わした記憶もありません。
 今ならば。今ならば、あの話をどれぐらい信じてくれていたのか聞けそうな気もするのですが、もし、万が一、来月号のコロコロにワープハットが偶然載ったら、白状損になるので聞けません。

 伊集院さん、『ワープハットで行ったり来たりの巻』は何月号に載るんですか?

 (匿住所・PN:学校)

 98.7.20 放送 (第145回)  
 僕が小学校4年生の時、一番の仲良しだったT君の事を少し書きたいと思います。
 僕の家とT君の家はすぐ近くで、学校が退けるとよくファミスタをやって遊びました。
 お互いそれぞれファミコンもファミスタも持っていたのですが、大抵の場合球場は僕の家で、ごく希にT君からのお誘いがあるとT君の家でゲームをしました。
 僕らはお互いの家を『T君球場』『S君球場』と呼び合っていました。

 ある日の事、久しぶりにT君球場への誘いがありました。
 「明後日、僕の家でファミコンしよう。」
 もちろんOKの返事をすると、僕は明後日が楽しみでなりません。決戦の日に備えてコンピューター相手にファミスタの練習に明け暮れました。
 ところが、試合当日学校に行くと、この後に及んでT君が「やっぱり、今日の試合は中止。」と言うのです。
 納得いかない僕が食い下がると、「昨日の夜、ファミコンが壊れちゃった。」と言うのです。
 そんな事情があったのか。
 今考えれば、全く同じゲームなのだから僕の家ですれば良かったんです。
 なのにあの時の僕は、こんな提案をしてしまいました。
 「それじゃさ、僕のファミコンを持っていくから、T君球場で予定通り試合をしようよ。」
 となれば、T君に断る理由はありません。
 僕は家に帰るとカバンを投げ捨て、ファミコンを抱えるとお母さんにまで「T君球場に行ってくるぜ。」と言い残し、T君の家まで走っていきました。

 T君の部屋に上がりこみ、いよいよ試合開始です。
 待ちに待った試合に興奮して大声を上げていると、T君のお母さんが紅茶を持って上がってきました。
 そしてすごく優しい声で、
 「2人とも、あんまり大きな声を出したらダメよ。」
 と言って下りていきました。

 『いけね、舌をペロ』ぐらいの反省をしたものの、しばらくして僕が特大のホームランを打った時にまた「うぉー!!」と声を上げてしまいました。
 お母さんが上がってきました。
 さすがにちょっと気まずい雰囲気でしたが、お母さんは何も言わず優しく微笑んで、マドレーヌをくれました。
 笑顔のまま口に一本指を当て、「しーっ。」のジェスチャーをして、笑顔のまま下りていきました。

 まずい雰囲気は去り試合は再開。
 そして白熱した接戦はついに9回の裏を迎えました。
 確か僕がこの回を抑えれば逃げ切りという場面で、食い下がるT君の攻撃が2アウト満塁だったと思います。今まで割と静かにしていたT君が突然、「かっとばせー、ばあす!」と叫び始めたのです。
 僕も負けてはいられません。
 「頑張れ頑張れかとり!」
 応戦しました。

 T君球場が興奮に包まれたその時です。
 T君のお母さんが静かにドアを開けました。
 優しく微笑んでいました。
 ホッとしました。肉まんを2つお皿に乗せて持ってきてくれていました。
 僕が「あ、すいません。」と言おうとしたその瞬間、お母さんを押しのけてものすごい形相のT君のお父さんが飛び込んできました。
 お父さんはこんな意味合いの事を怒鳴り散らしていました。

 「この野郎!俺は朝から市場で働いて疲れてるってのに、眠れりゃしねぇだろ!」

 そして、僕らの陰になっていたファミコンを見つけると、さらに5倍ほど怒った顔になり、怒鳴り続けました。

 「なんだこれはー!!昨日ぶっ壊したのに、お前が買い与えたのかー!!」

 お父さんは震える僕たちを尻目に、振り向きざまにT君のお母さんをぶん殴りました。
 お母さんは飛びました。
 肉まんも飛びました。
 お母さんが声を上げて泣きました。
 比較的温厚な家庭に育った僕は、大人がお葬式以外で泣くのを初めて見ました。
 このあたりのシーンは今でも克明に思い出します。

 それでも収まらないお父さんは、僕のファミコンを掴むと床に叩き付けました。
 何か、取れちゃいけなそうな部品が四方に飛びました。
 そのいくつかが、もはや固まってしまった僕の前に転がりました。
 あまりの出来事が、僕の頭の許容量を超えてしまったのか、

 「こんな部品が入ってるんだ、ファミコンには。」

 みたいなことを考えていました。
 なんだか、とてもとても静かな広ーい広ーい部屋の片隅に僕がいて、映画か何かを観ているような気分になっていました。
 そして次の瞬間、T君が立ち上がりました。

 「もうたくさんだよぉー!!」

 号泣、絶叫でお父さんにタックルをかましました。
 僕はT君球場改め映画館から飛び出していました。

 数日後、家でボーッとしていると、母が呼ぶ声がしたので玄関に出てみると、T君のお母さんが新品のファミコンを手に母に頭を下げていました。
 「うちの子もしつけがなっていないから。」
 「いえいえ、とんでもございません。」
 T君のお母さんは僕を見つけると、
 「この間は本当にごめんなさいね。これからもうちの子と仲良くして下さいね。」と言い、缶入りクッキーを差し出しました。
 僕はそのお菓子を「中古だったファミコンが新品になったことで僕だけ既に得をしている訳だし、もらう訳にはいきません」という訳の分からない理由を述べて拒否しました。
 T君のお母さんはとても悲しそうな顔をしましたが、僕は部屋に入ってしまいました。
 母はクッキーを受け取りましたが僕は断固として食べませんでした。
 そしてT君とは気まずいままクラス替えで別々のクラスになってしまい、それっきりでした。

 伊集院さん、僕は大丈夫でしょうか。

 (匿名匿住所)

 98.7.13 放送 (第144回)  
 伊集院さん、最初に同意を求めておきますが、自分の好きな娘が「アントニオ猪木の真似が上手な男の子が好き。」なーんて言えば、何度でも「ンだコノヤロー。」って言いますよね?
 例えば自分の好きな娘が「2分でカツ丼作れる人が好き。」って言えば、作りますよね?
 そりゃあたとえ自分がぶさいくでも、やっちゃうんですよねぇ。
 あれは、高1の調理実習でビーフシチューを作った日の事です。僕は朝から家庭科の時間が楽しみでした。理由は、憧れのYさんが料理が上手な人がタイプだという噂を聞いたからです。僕の脳裏には先週僕が調理実習で作ったキャベツの浅漬け(浅漬けの素でもんだだけの物)をうまいうまいと彼女が食べていたので、きっと彼女僕が好きなんだろう。こんな思い込みがありました。そして今日作るビーフシチューを食べさせる事で、Yさんに王手をかけよう。そんな事を思っていました。ちなみにこの日の調理実習を詳しく説明すると、男子と女子合わせて5人が一組となり、ライスとサラダ、ビーフシチューを作るという課題で、僕はビーフシチュー係に任命されていました。僕は料理といえば浅漬けを揉む以外にはした事がなかったので、他の4人にこの係を代わってもらおうと思っていたのですが、一緒に作るパートナーがYさんだったので、喜んで引き受けました。

 そして待ちに待った家庭科の授業が始まりました。そう、それはまさに至福の瞬間でした。
 エプロン姿のYさん。そしてその横には僕。
 こんな幸せがこの世にあっていいのだろうか。
 僕はこの幸せを、最高でこの後4、50年手に入れ続けるためにも、なんとしてでも最高のビーフシチューを作らなければならないと思いました。
 ふと、出来上がり直前のビーフシチューを食べてみると、
 「はっ、何か味が足んないな。」
 こう思いました。
 もちろん、いつも美味いまずい関係無しに何でも食べるデブちんの僕に豆腐を一口食べただけでどこ産の豆腐か分かる山岡士郎(『美味しんぼ』1巻より)のような肥えた舌はありません。
 ただ、3日前から練習とばかりにビーフシチューを日に3回作って食べていたため、それまで作った物と比べて今日作った物はいまいちに感じました。
 「一味足んないんだ。何か一味。」と思っていると、どこからともなく人の声が聞こえてきました。

 「先週の『クレヨンしんちゃん』見た?先週の『クレヨンしんちゃん』でしんのすけがビーフシチューにオレンジジュースを入れたら、すんごい美味しくなってみんなに褒められていたシーンを見たかーい?」

 ふと見ると、机の上にオレンジジュースが。ハッとしました。

 「そういえばオレ見たな。ほんとかな。オレンジジュース入れると、ビーフシチューうま…まさか。まさか、だってあれはマンガだから。」

 気が付くと入れてました。
 ビーフシチューにオレンジジュースを入れてました。

 そして試食の時間、初めに勢いよくシチューを食べ始めたのは僕の大嫌いなO。Oはシチューを口に入れた瞬間、志村けんよろしくシチューを口から出して「うぇー、まずい。」続いて、「おい、Y。お前料理めちゃくちゃ下手だな。」やはりマンガのようには上手くいきませんでした。そして僕の横には目にいっぱい涙を溜めたYさんの姿が。これだけでも追いつめられた僕に、もう一つ不幸が起こりました。それはそのOが「あれ、オレの『きりり』がない。誰だよ、オレの『きりり』飲んだ奴!オレの『きりり』!」そして追い討ちをかけるようにクラスで一番嫌なKが「オレ見た。こいつがシチューに『きりり』入れてる所。」オレを指差すではありませんか。僕は何も答えませんでしたが、クラスのみんなは暗黙の了解でこの事件の犯人を特定したらしく、みんなの視線が痛いほど僕に向けられていました。もちろんYさんの視線も。
 それから僕はYさんと口を利く事も無く進級していきました。
 後で聞いて分かったのですが、Aさんが好きなのはスポーツも出来てカッコよくて、ついでに料理も上手いA君でした。今冷静に考えれば、僕なわきゃないですよね。

 伊集院さん、シチューに『きりり』を入れたのは、本当に僕だったんですかねぇ?
 それとも、僕の中にいる妖精『モテ人』の仕業だったのですかねぇ?

 (ラジオネーム:鉄人森田号)


 今、今というより、ここ何年かの傾向でしょうか、ドラマで二重人格を題材にした多くなってますよね。
 そういうドラマの二重人格って、大体普通の自分と自分の知らない性格が180度違う自分の2つが登場するじゃないですか。
 でも、ほんとは、そんなんじゃないですよね。あんな分かりやすいのはドラマだけの話で、こういう事って誰でもある事ですよね。

 小学校5年の時の話です。当時僕は中学受験のための塾に通っていて、学校のクラスでは頭のいい天才君キャラ、よくみんなから算数の問題では分からない所を教えてくれと頼まれるような人間でした。
 一方塾ではというと、周りのみんながそれぞれの学校で天才君だった事と、塾での成績は中の下ぐらいだった事、そして同じ学校の人間が誰もいない事などの条件が重なったため、明るくエロ話もできる、男子には人気のキャラクターを演じ分ける事にしていました。

 その年の夏休み、塾の合宿に行った時、事件は起こりました。
 塾の合宿という事で、エロ少年キャラを演じていた僕は、それはそれはエロBOYでした。エロりBOYでした。行きのバスの車内から塾で同じクラスの女子にそれとなくちん毛の話題を切り出すなど、小5ではいっぱいいっぱいのエロエンジンを全開させていました。合宿場所のホテルでも、昼間の授業は遅れない程度に聞いて、夜になると男同士で毎晩『11PM』を見てはまだ毛も生えかかりのおティティーヌをカティらしていました。

 そんなこんなで合宿最終日、いつものように6時に起きて全員で広場にラジオ体操に行きました。もちろん男同士で昨夜の『11PM』の話をしていました。
 すると後ろから誰かに肩を叩かれました。
 「先生に怒られるのかな?」と思いながら振り向くと、何とそこには学校で同じクラスのKさんがいました。
 焦りました。

 「うちの学校では僕しかいないこの塾の合宿になぜ、なぜお前が!?こんな田舎の温泉地にお前が!?なぜ、なぜ!?」

 こんな事が頭の中をグルグル回りながらも、何とか言い訳をしようと思ったのですが、上手い言い訳が見つかる訳もありません。とりあえずこの場をしのごうと「どうしてここにいるの?」とたわいも無い質問をすると、
 「家族旅行。」と一言。ここから上手く話を広げて話題を逸らせば何とかなると思い、話を広げようとした刹那、K君からの決定打、

 「S君て、頭の中じゃいつもそんな事考えてるんだ。」

 二学期から僕のあだ名は変わっていました。
 もちろん女子が算数の分からない問題を聞きに来るという事も無くなりました。

 伊集院さん、僕は大丈夫なんでしょうか?
 そして僕はどっちなんでしょうか?

 (PN:ブラックアスパラ)

 98.7.6 放送 (第143回)  
 あれは、高校2年の時でした。
 2月14日。
 私には何事もなく過ぎてしまうのが恒例になっている日です。
 しかし、私はチョコレートを貰えない事に対して落ち込んだりするのではなく、「俺の良さは女には分からないさ」と逆に優越感に浸り、これも口に出すと負け惜しみに聞こえるので暗にこんなイベントとは無関係な自分を誇示するような態度を取るという、かなり屈折した過ごし方をしていました。それが僕なりのプライドの保ち方でした。
 その年も何事もなく帰りのホームルームの時間になっていました。
 正直に言いましょう。
 この時点で「義理チョコはプライドが許さないまでも、ま、本命をもらう分には俺のプライド的にも大丈夫かな。」と思ったりもしましたが、私に限ってそんな事がある訳も無く、逆に「うん、そうだ。この状況がやっぱり自分に合ってるな。」と妙な居心地の良さを感じていたと思います。

 ホームルームも終了。となれば、この日の行事に無関係である事を誇示するためにも、誰よりも早く帰ろう。
 教室のドアを開けようとしたその時に事件は起こりました。
 数人の女子が私の前に立ちはだかり、私が帰ろうとするその行く手を阻むのです。
 といっても、もちろんその後告白されたという話ではありません。友達にチョコレートを渡してくれと頼まれたという、ありがちの話でもありません。
 クラスの女子から、男子全員にチョコレートを配るから待ってくれ、とのことだったのです。
 しかもただ配るのでは面白くないから、男子女子それぞれくじを引いてくじが一致した相手同士でチョコレートの受け渡しをするという段取りまでが既に決められていました。
 ご丁寧に女子の手作りのくじに書いてあったのは、1とか2の数字の代わりに、『君の瞳をタイホする!』などの当時のドラマのタイトルという、こちらとしてはご勘弁頂きたい物で、私は帰ろうかなとも思いましたが、元々クラスの中での評判が良くない、ま、正確に言えば間違いなくワースト1の私が、またそんな嫌われるような事をしたらクラスでの居場所が無くなると思いました。
 元来私はクラスの中では孤立はしていても人に危害は加えない、いわば一匹羊のつもりでしたので、そんな和を乱すような事は出来ず、仕方なく教室に残り、くじで合った女の子からチョコレートをもらい、後は全ての抽選が終わるのを待っていました。

 その時です。
 クラス中を見渡して、ある事に気づいたのです。
 私を除くクラスのほとんどの人間が楽しそうにしているのですが、その笑顔にはどうも2種類あるように思えたのです。
 いや、間違いなく、2種類あると確信したのです。
 男子の笑顔はまるで小学生のように無邪気なものでしたが、女子のそれは私たち男をまるで数段上の位置から見下しているかのようなものに感じられたのです。
 女子の笑顔が「モテないあなた方にチョコレートをお情けでくれてやるわ。」と言っているように思えてきてならないのです。
 その時、気づいたのです。私の小さなプライドに対する、このチョコレートの持つ意味を。
 それは考え過ぎだったのかもしれません。
 しかし、このチョコレートを受け取ってしまえば正真正銘、疑いようも無い、義理チョコをもらって喜ぶという、気は良いのかもしれないがプライドはないその他大勢のブサイクと同じだと思われても仕方無くなります。
 つまり、女子の行為が私にとって暴力に等しい物に思えました。
 恐らく、女子の中でもほんの一握りの人間が言い出し、その他の大多数の女子はそれに付き合っていただけでしょう。
 しかしその時の私は、チョコレートももらえない男子を気遣っているつもりになっている一部の女子の自己満足と、クラスでの居場所を確保するために最後の小さなプライドを忘れてしまった自分が許せなくなっていました。
 家に持って帰ったら一生悔いが残るし、一部の女子の偽善行為を認めてしまう事になるとも思いましたが、やはり今さら女子に突き返したり、教室に置いて帰ったりする事は出来ませんでした。
 なにせ一匹羊ですから。
 そしてそんな私に追い討ちをかけるかのように、担任の教師が締めの一言。
 「これで男子は全員、少なくとも1個はチョコレートを家に持って帰る事ができますね。」

 その後、どのようにして教室を出て廊下を歩いていったかは憶えていません。
 気が付いてみれば、一階の売店の所まで来ていました。売店には燃えるゴミ用のゴミ箱が置いてあります。
 私がどうしたかについては、ご想像にお任せします。

 伊集院さん、私は大丈夫だったんでしょうか。

 (PN:巨人中日戦の勝利打点は審判でリーグトップ)
 98.6.22 放送 (第141回)  
 人間誰でも、親と一緒に歩いたりするのがとっても嫌な時期があると思います。
 普通なら中学生や高校生といった異性を意識する時期に起こるのでしょうが、僕はその時期が小学校4年生の時にやってきました。
 小4の運動会の前日、周りの友達やクラスメートは「明日80m走で絶対一番になってやる。」だの「騎馬戦は3組の木村の馬を最初に潰そうぜ。」だの「明日のお弁当さ、とんかつなんだ。」だのと、運動会の話題で盛り上がっていました。
 そんな周りの明るいムードとは対照的に、僕はとてもブルーでした。なぜなら、お母さんが運動会を見に来るからです。
 今考えてみれば、洋服もお母さんがイトーヨーカドーで買ってきた物を何の抵抗も無く着ている子だったし、家でもお母さんに反抗する事も特に無く、何らお母さんを嫌う理由は見当たらないのですが、なぜか友達にお母さんと僕のツーショットを見られるのが嫌で、普段友達と遊ぶ時も自分の家で遊ぶ事は決してありませんでした。
 そんな理由もなくお母さんを人前に出すのが恥ずかしい気持ちのため、当然運動会のお知らせを見せていなかったのですが、それは近所付き合いのあるお母さん、お知らせなんか渡さなくてもお母さんネットで運動会の情報は入手しており、「来週運動会よね?たかちゃん。お弁当はたかちゃんの大好きなハンバーグよ。」とかなり前から張り切っています。
 前の夜、「お母さん明日倒れないかな。」と祈るようにして眠ったのを今でもはっきりと憶えています。

 運動会当日、うちのお母さんは当時流行り始めた8mmビデオを回すなんて事もなく、ごく普通に僕の様子を見ていたのですが、僕は恥ずかしくて恥ずかしくてたまりませんでした。
 お弁当の時間も、お母さんとなるべく視線を合わせないようにして、ハンバーグなど僕の大好きなおかずがたくさん入ったお弁当を口の中に捨てるように食べました。
 そして午後、借り物競走の時間、第3レーンの僕はスタートの号砲と共に一目散に封筒のある場所へと向かいました。そして誰よりも早く封筒を開けました。
 その封筒にはこう書いてありました。

 『お母さん』

 今考えれば、素直にお母さんを連れてゴールすれば良かったんです。でも、お母さん。

 「お母さんと一緒に学校中の人が見てる前で走らなければならないのかオレは!お母さんと僕のツーショットを見られたら、もうこの学校にはいられない!」

 そう思った僕は、とっさに客席に向かい、Y君のお母さんを連れてゴールしてしまいました。
 ゴールした後先生から、「どうしてあなたのお母さんを連れてこなかったの?」と聞かれましたが、「あー、お弁当の時と違う場所に移ったみたいで、いるとこが分かんなくなったんで、咄嗟に。」と言い訳をしてその場をしのぎました。
 そして、僕にとって試練だった運動会を乗り越える事ができました。

 翌日、学校から帰るとお母さんは買い物に行っているご様子で、家には誰もいませんでした。
 「テレビも空いている事だしファミコンでもやろう」と手を洗ってからテレビのある部屋に行くと、テーブルに『お母さん』と書いた紙切れが。
 ハッとしました。
 借り物競走が終わった後、体育着のポケットに丸めて突っ込んだのをすっかり忘れていました。
 恐らく体育着を洗濯する前にお母さんが見つけたんでしょう。くしゃくしゃに丸められたはずの紙切れは、しっかりと伸ばされてそこにありました。

 以来、お母さんとの会話は極端に少なくなりました。
 お母さんが僕の部屋に入る時、ノックをするようになりました。
 「たかちゃん」と言っていたのが、「たかし」と言うようになりました。

 僕は、大丈夫なんですか?
 来年の母の日こそ、カーネーションを渡していいのですか?

 (PN:マスオさん)


 あれは確か、小学校2年生ぐらいの頃だったと思います。
 誕生日の前の日、僕は誕生会に集めるメンバーの獲得のために、たくさんの招待状を持って学校に行きました。
 その頃は、僕らの間で誕生会に集まる人数でそいつの価値が決まるという哲学があったので、たくさんの男友達に招待状を配りました。
 しかし、その時に気を付けなければいけないのが、「女は絶対呼ぶな。」という事でした。
 『男の誕生会に女を呼ぶ=クラスでの地位ガタ落ち』という事になっていたからです。
 しかし、呼んじゃいました。
 Wさんだけ呼んじゃいました。
 彼女は小学校2年生という若さで塾に通っており、しかもメガネをかけているという小2では誰でも経験していない事を既に経験しているという事が、僕のラブ信号にGOサインを出していたらしく、とても気になる女の子になっていました。
 「しまった、呼んじゃったな。Wさん呼んじゃった。」と思いながらも今更断れる訳も無く、誕生会の時間になりました。
 「Wさん、どうせ来ないよ。だってそうじゃん、来た所で女一人になる事は分かってるはずだし。」などと勝手な解釈をしながら、先に来た男友達とUNOをやっていると…、来ちゃいました。Wさんが来ちゃいました。
 僕はここで追い返す訳にも行かないので、皆のいる大広間へと案内しました。
 Wさんが広間に来た時の男友達の何とも言えない視線は、今でも忘れる事が出来ません。僕にとって辛く長い時間でした。

 これだけで終われば良かったんですが、2時間ぐらい経った時でしょうか、ファミコンに飽きたKが「公園でサッカーをやろう」と言ってくるではありませんか。
 サッカーといえば男の遊び。今この場所には女の子のWさんがいます。
 彼女を残してサッカーをする事は…。

 公園でのサッカーはとてもたのしゅうございました。
 もちろん、家に帰ると母から「Wちゃん、あれから1時間くらい座ってて、それから塾へ行くって言って帰ったわよ。」とのお叱りが。
 僕はWさんに何て悪い事をしてしまったのだろうと、次の日学校に行ったら謝ろう、そう思いながらも男子の目が気になって謝れない日々が続きました。
 自然とWさんとの会話もなくなっていきました。

 そして約3ヶ月。
 心の傷が癒えそうになった時、Wさんから誕生会の招待状が渡されました。
 Wさんは小声で、「この前呼んでくれたから。」と僕に言いました。
 Wさんに謝る意味でも誕生会に行かなければ。
 そう思い、前の日にプレゼントを用意して、Wさんの家に行く途中、Gくんが「サッカーやんねー?」とのお誘い。
 「Wさんの誕生会に行くから。」なんて言えば次の日からクラスで僕の立場はありません。
 1時間後、近所の公園で岬くんになっている僕がいました。
 翌日、Wさんが泣いていたという話を聞きました。

 伊集院さん、今フランスではワールドカップをやっているという噂を聞きますが、僕は見ていいんですか?

 (PN:覇王)

 98.6.1 放送 (第138回)  
 私の通っていた小学校では、毎年『大縄跳び大会』がありました。
 1、2年生は上下する縄をくぐるだけのものだったので、デブで運動神経の無い私でも大丈夫だったのですが、3年生からは8の字跳びになりました。
 本当に運動神経の無い私は、回る縄に入るタイミングが遅かったり、上手く出られずに足が縄に引っかかったりでした。
 皆で「1、2、3、4、」と数えていても、私の所でいつもいつも止まってしまう。
 同じチームだったN君に「もう少し早く入れよ。」と言われる事が度々ありましたが、その度に同じチームだった女子何人かが「頑張ってるんだから!」と私をかばってくれました。
 自分が悪い。そう思っていた私は、N君に、そしてかばってくれた女子にもとてもとても申し訳ない気持ちがしていました。
 「あの、あの、縄を回す役にして下さい。」と先生に言おうとはしました。
 が、一番最初に先生が決めてしまっていたし、励ましてくれた友達に悪い気もするし、とても言い出せませんでした。

 そして私が上手に跳べないまま、大縄跳び大会当日が来てしまいました。皆体育着に着替えて張り切っている様子です。
 私は「ゴホッ、ゴホッ。風邪ひきました。」と言って休んでいました。学校には何とか行きましたが、大縄跳び大会は見学でした。
 いよいよ私たち3年生の順番が来ました。グランドの隅で皆が跳ぶのを見ていました。段々寂しくなってきました。
 「やっぱり、出れば良かったかな。皆あんなに励ましてくれたんだし。出れば良かったかな。」
 と思いました。
 しかしその時、私のチームが最高記録を出しました。そして我がチームは学年で優勝。しかも4年生の記録をも上回るという素晴らしい大会でした。
 大喜びするクラスの皆に駆け寄って「よかったね、よかったね。」と一緒に喜びました。
 たとえようの無い気持ちでした。
 4年生の縄跳び大会ももちろん休みました。

 私は大丈夫なんですか?

 (PN:魚人)


 あれは、確か小学校3年生の時です。ちょうどその日はその地区のガキ大将的な人のグループと一緒に遊んでいました。
 普段は同じ学年の友達だけで遊んでいたので、どんな事をするのかワクワクしていました。
 確か、柔らかいボールとプラスチックのバットを使ったちょっとした野球をして遊びました。
 どういうきっかけかは忘れましたが、ガキ大将のK君が皆に「なぁ、探検に行こうぜ。」と言いました。K君が言うには、学区外の森へ行こうという事です。
 K君の言っている森がある方は、まだ僕が知らない新大陸だったので不安でしたが、迷っているうちに一緒に行く事になっていました。

 しばらく行くと塀に囲まれた空き地があり、その中にはブルトーザーやロードローラーなどの色々なメカがありました。
 K君がその空き地に入って「少し休もう。各自自由にやってくれ。」的な事を言いました。
 僕と親友のNは何もする事が無かったので、辺りをキョロキョロ見渡していると、止めてあるブルトーザー等が目に付きました。
 僕とNは引き付けられるようにブルトーザーの所に行きました。初めのうちは土をすくう部分に入って遊んだりしていました。
 普段は近くに寄って見る事が出来なかったブルトーザー。興奮していました。
 しばらくするとNが僕に「運転席に座ってみようぜ。」と言ってきました。
 もちろん、断りません。
 さっそうとコックピットに乗り込みました。そこはまるで戦闘機のようです。いろんなメーターやスイッチがあります。
 僕が恐る恐る触っていると、隅の方に金属の板のような物が付いていました。
 僕は「それは…キーだろ。やばいよ、やばいよ!」と言ってNがキーをいじるのを止めようとしましたが、次の瞬間にその不安は「キー。ひねればエンジンがかかる。エンジンのかかったブルトーザーはカッコいいだろうな。」という欲望に変わっていました。
 そして僕はNと一緒にひねってみる事にしました。ドキドキしながら回すと予想通りすさまじい音と共にエンジンはかかりました。
 その時、壁を登ったりして遊んでいたK君たちはびっくりしていましたが、次の瞬間反射的にK君が「逃げろ!」と言うので、皆は全力で逃げ始めました。
 僕とNは少し遅れましたが、皆結局逃げました。
 しばらく走って、最初に遊んでいた公園に戻りました。K君たちも驚いていましたが、僕とNが一番驚いていました。K君が「はっ、エンジンかけただけだろ?全然平気だよ。」と言ってくれたので、一安心でした。
 その事件から一月ぐらい僕とNは皆に「ブルトーザーのエンジンかけたんだぜ。カッコいいだろ。」と自慢していました。
 しかしその程度の事。皆段々忘れていきました。

 それから約6年。
 中学校3年の時、僕とNとその中学校で仲良くなったHと小学校の時の話をした時に、Hが何気なく「そういえば小3の時に、うちの小学校で空き地のブルトーザーにいたずらして、塀を壊した奴がいるって先生が言っていたけど、結局見つからなかったんだよ。」と言いました。
 その時Nは思い出さなかったようですが、僕はその時の記憶が蘇りました。
 その時僕は、「エンジンをかけただけで後は何もしていないから大丈夫」と思っていましたが、あの時に見なかった事にしていたブルトーザーから僕が飛び降りる時に変なレバーを掴んでしまい動き出したという記憶が蘇りました。
 その現場が学区外だったのでHの小学校で犯人探しがされたようです。

 その日に何となく現場に行ってみると、壁に修理がした跡があり、全ての機械類は無くなっていました。
 恐らくその事件から後、その会社の人が全て別の場所に移したものだと思います。
 それからというもの、ブルトーザーなどの工事用重機を見ると、あの時のレバーの「ガタン」という感触と、K君の「逃げろ!」という言葉が蘇ります。
 こんな僕とN、いや、Nは憶えていないから僕、は大丈夫でしょうか?
 そしてまたいつか、ブルトーザーに乗れるでしょうか?

 (PN:何田一少年)

 98.5.25 放送 (第137回)  
 僕は小学校2年から中学校の3年まで英語の塾に通っていました。
 小学校6年生の3学期から中学校の授業を先取りするために授業の時間が変更され、それまでは夕方5時から6時半までだったのが7時から8時半になりました。
 8時半にもなれば外は真っ暗で、街は夜の様相を呈し、営業している店は本屋かコンビニだけという状況です。
 戸の閉められた酒屋さんやほの暗い明かりだけが点いたスーパーの横を自転車で通り抜けながらいつもは家路につくのですが、その日は家に真っ直ぐ帰らず、夜の住宅街を散策してみたくなりました。
 家に真っ直ぐ帰るのが何となく嫌で、夜の公園にでも行ってみようかなどとも思いました。
 家から1キロほど離れたやや広い公園に行く途中、とあるアパートが目に止まりました。
 目に止まったというより、何か視界に入ったという程度でしたが、そのアパートの前にあるゴミ捨て場にエロティックな雑誌が大量投棄されているのが見えました。
 しかも紐で結わいているのではなく、紙袋に平積みに詰め込まれています。
 僕は辺りに人がいないのを確認すると、チャリにまたがったままさりげなく上から数冊テイクアウトしていました。
 公園の外灯の下でその雑誌を読みふけりました。
 が、読んでいる途中で犬の散歩をしているおじいさんが通りかかるなどのハプニングもあり、そう長くはいれませんでした。
 そこで僕は塾のカバンに持ってきたエロティック雑誌を積め込み、さらにまだ入ると思い、帰りに数冊追加して帰りました。
 カバンはパンパンでした。
 ズボンもパンパンでした。(すみません)
 そして僕は持ってきたエロ本を机の一番深い引き出しの中にしまっておきました。

 翌週、再びそのアパートの前に行ってみると、今度はコミック雑誌です。
 無論エロスです。エロス養老の滝です。
 僕はまたカバン一杯にテイクアウトして帰りました。
 毎週毎週行く度にそのアパートの前には多かれ少なかれエロス雑誌が湧き出していました。
 実際はエロ本の墓場のようなものだったのでしょう、塾は木曜日にあり、翌日はゴミの日。毎週のようにエロ本が落ちているのも頷ける話です。
 そんな生活が一月ほど過ぎると、机の引き出しに許容量の限界が来ました。
 僕はエロティック本のいいとこを抜粋し始め、いらなくなった部分だけを捨てに行く事にしました。
 しかし、いつ捨てに行けばいいのだろう。
 こんな疑問が起こりました。
 夜こっそり捨てに行くにしても、そこはまだ小学校。
 僕は塾の帰りにあの滝に戻そうと思いました。

 翌日の木曜日、僕は切り刻まれたエロ記事でパンパンになったカバンを持って家を出ました。
 塾ではクラスメートがそのカバンを見て「何入ってんの?」とか聞いてきましたが、「いや、何という事はない物だよ。」などと、どう考えても不自然な受け答えをしつつ、何とかやり過ごしました。
 塾が終わると僕はチャリにまたがり、滝改めエロ墓場に急行しました。とっととこれを処分して、あわよくば新しいやつをゲットしよう。
 こういった意気込みと共に僕は国道を突っ切り、住宅街を走りつつあのアパートの前へ急ぎました。アパートが間近に迫った時、何か様子がおかしい事に気付きました。アパートの前に人が数人立っているのと、てっぺんに赤いランプを光らせた車がいました。
 「警察?」
 確かにそれはポリスでした。何か事件が発生したらしいのです。
 エロ本墓場の前に人気があっては、ましてポリスがいては持ってきたエロ記事をそこに捨てるわけにはいきませんでした。
 僕はその前を通りすぎ、少し離れたゴミ捨て場に捨てればいいやと思い直し、チャリで素通りしようとした刹那、
 「あー、ちょっと君。」
 ポリスが僕を呼び止めました。僕はギクリとしました。

 もし今何か事件が起こっていて、ポリスが僕に職務質問をしに来たのだとしたら、このカバンの中身を見られるのはまずい。非常にまずい。

 そう思った瞬間、僕は力一杯ペダルを踏んでいました。
 「奴らをまかなければ、未成年のエロ本所持で逮捕だ。」
 なぜか異常に焦った僕は後ろも振り返らずに猛然とダッシュしていました。
 ポリスが僕を見てどう思ったのかは分かりません。後ろの方からサイレンの音が近づいてくるような気がしました。
 僕はパニックに陥り無我夢中で走り続け、道路に飛び出した瞬間、はねられてました。
 気が付くと病院のベッドでした。
 そしてあのエロ記事満載のバッグはなくなっていました。僕はしばらくして退院し、再び新しいカバンで塾に通いました。

 そして数年後、僕は引っ越す事になりました。その時、押し入れの中からなぜかあのバッグが出てきました。
 バッグがどうやってそこに戻ったのかは本当に、本当に今でも謎です。
 その時の「ははぁっ…。」という居たたまれない気分を思うと、死にたいです。
 2度目の大学受験に失敗した時よりも、その時の方がキツかったです。

 (PN:みずのはるよし)

 98.5.18 放送 (第136回)  
 あれはそう、小学校の入学式が終わり、ちょうど小学校1年生の5月、そうですね、今ぐらいの事でした。
 その頃になると同じ団地に住んでいる幼なじみだけではなく、新しい友達とも仲良くなり、皆で本当に仲良く遊べるようになっていました。S君もそんな友達の1人でした。
 Sを誰かにたとえるとすると、裸の大将といった所です。純粋で笑顔も言動も良く似た、本当に人懐っこい少年でした。
 当時彼が一人っ子であり、彼の家にはファミコンやロボピッチャ等のおもちゃがたくさんあったので、ほとんどそれを目当てに友達になりました。
 S君はそんな事とはつゆ知らず、いつも遊びに来てくれるいい友達ぐらいの気持ちを僕に持っていてくれたようです。
 そんな感じで僕は物目当て、彼は純粋に僕と遊ぶ事を目当て。こんな関係が続きました。

 事件はある日の音楽の授業中に起こりました。
 その日まで出されていた宿題は、手作りの楽器を作って持ってくるというものでした。
 数学や国語の漢字ドリル等の勉強系の宿題は必ずやっていっていましたが、「音楽の宿題は宿題にあらず」的な感じを持っていた私はすっかり宿題を忘れていました。
 音楽の授業は5時間目。気が付いたのは昼休みでした。焦りました。
 そこで急いで友達に「何か余っている物はない?何か余ってるもんがあったらちょうだいよ。」と聞き回ったのですが、なかなか手に入る物ではありません。
 ようやくある友人が、ポカリスエットのロング缶をくれました。
 道具は缶一本のみ。困った挙げ句、
 「缶に水を入れてチャポチャポ音を出そう。音が出るって事は楽器さ。無いよりはましさ。」
 考えて水を入れ振ってみると、もちろん水がこぼれます。
 そして道具箱からセロテープを取り出し、口の所に貼って水漏れを防ぐという、今考えると忘れた方がまだマシという楽器が出来上がりました。

 そして5時間目のチャイムが鳴り、授業が始まりました。
 クラスの大半は空き箱を叩くといったような打楽器系が中心だったのですが、女子の一部では2つの紙コップの口と口を合わせた物の中にコーヒー豆をいれたマラカスのような物を作ってきたり、竹筒を洗濯板のようにして棒でこするギロのような物、くぎを叩いてトライアングルのような音を出す物など、しゃれた物を作ってくる人もいました。
 そんな中、僕はいうと、水を入れすぎたため音らしき音はダプッ、ダプッという小さな醜い音の鳴る缶でした。
 しかも水に弱いセロテープがはがれて水が飛び出るので指で直接缶の口をふさいだため、その音すらも出ているか出ていないのか分からないもので、クラス中がため息混じりの気まずい雰囲気に包まれました。
 その空気を察知した僕は、早々と「これで僕の楽器の発表を終わります。」と言って、勝手に切り上げました。
 激しい、激しい自己嫌悪に落ちていました。クラス全員の発表が終わると最後に先生がよく作れた人にごほうびのために「皆、誰の楽器が一番良かった?」と聞きました。
 皆は前述のマラカスやギロやトライアングルの作者の名前を叫んで褒め称えています。そこで褒められた人たちが教室の前に出て並んでいます。
 そんな時、S君が手を挙げて言いました。
 「先生、I君のも良かったです。」
 I君は僕です。
 「ええっ?」と思ってS君を見るとニコニコと「良かったね、前に出られるよ」と言いたげな笑みを満面に浮かべていました。
 彼は純粋に、「僕が褒めて前に出られるようになればI君も喜ぶ、そうに違いない」と信じきってるようでした。そして前に出た僕はまた、クラスの皆の前で「ドプッ、ドプッ」という醜い音を出す缶を含めて見世物になっていました。
 しかもその楽器は1ヶ月間クラスの後ろに陳列され、父兄参観の時に見せるという結果になりました。
 ま、しかし幸いな事によくは憶えていませんが、楽器が全て行方不明になったとやらで1ヶ月見せしめの刑だけは逃れました。
 伊集院さん、でも、ポカリのロング缶を見ると、S君が言った、
 「I君のもよかったです。」
 が頭の中に響きます。
 僕が宿題さえやっていけばというのが本当のところです。
 でも、僕は弱い人間です。ついあのS君の言葉を責めてしまいます。
 自分の罪を受け入れる事もままなりません。

 伊集院さん、最近こんな夢を見ます。
 雨に打たれ、泣き叫びながら無数の手作り楽器を抱えて、神社裏を走る僕。
 伊集院さん、全てお察し頂いた上で僕は大丈夫ですか?

 (絶対匿名)

 98.5.11 放送 (第135回)  
 この封書の中に入っているワープロからプリントアウトされたと思われる手紙は、大学受験センター試験の前夜、父親がそっと僕の部屋に置いていった物です。

 [ワープロの紙]

 **様

 頑張れ。
 明後日からセンター試験である。
 貴君の精進を発揮する時が来たのだ。
 気張らず、冷静に立ち向かえ。
 君はここの所一生懸命やっていた。
 まだ簡単に合格するまでの実力はないのかもしれないが、可能性のあるうちは最善を尽くせ。
 頑張れ。

 OTO


 落ちました。

 (PN:よしお制作委員会 ピエロ小松)


 あれは確か僕が小学校2年生くらいの時に起こった出来事だったと思います。
 当時僕は近所に住んでいる同い年の友達と、それよりも小さい幼稚園児たちというメンバーでいつも遊んでいました。

 ある日、そのいつも遊んでいるメンバーが余り揃わず、集まったのが僕と自分より年下の友達が数人だけという構成になった日がありました。
 『俺王様、お前ら歩兵』という子供なりの王政を当てはめ、少しばかりの優越感に浸っていました。
 何をして遊ぶかを自分中心に決めていき楽しく遊んでいる最中、僕はガムが食べたいと思ったので、皆に「みんなー、ワシは今から少しいなくなるが、楽しくやっていてくれたまえ」的な事を言い残し、一人で近所のコンビニに向かいました。
 コンビニに入ると僕は真っ先に10円ガムのコーナーに行きました。
 そして買うガムが決まった瞬間気づきました。

 お金が無い。王様なのに。

 皆がいる場所からコンビニまでは歩いてもせいぜい2分ぐらいの距離なのですが、一度戻って歩兵から金を借りるのは王のプライドに触ります。
 すると何かが僕に囁きました。

 「とっちゃえ。」

 僕は少し考え、ガムをもらう事に決めました。
 ちょうどレジと10円ガムのコーナーは向かい合う位置にあったので、レジに背中を向ける格好でしゃがみ込みながらガムを選んでいる振りをしました。
 数分後、僕は少し大き目の声で「いいガムがないなぁ。」と言いながら素早く1個10円のガムをポケットに入れ出口に向かいました。
 すると、

 「ぼく、まだお金払ってないでしょ?」

 バレていました。
 頭がパニックになった僕は思い切って走って逃げてしまいました。
 後ろから「待ちなさーい!」という声が聞こえてきましたが、振り返らずに全力で走りました。
 それほどしつこくはレジのおばちゃんが追ってこなかったので、ホッとして皆の所に行きました。
 「いやー、ごめんごめん。ちょっとガム買ってきたんだ。」と言いながらガムの紙を開けました。
 当たりでした。
 何という神の悪戯でしょうか、当たりが出た瞬間、僕はその10円ガムが盗品という事を一気に忘れて皆に、
 「すっげーだろ、当たりだぜ。すっげーだろ。いいだろ。」
 自慢していました。
 「すごい、すごい。」
 皆、目を輝かせながら言ってくれたので、王様気分が前にも増してアップした僕は、
 「オッケー、今から交換しに行きまーす!」
 そして僕は盗みを働いたコンビニに戻りました。しかも皆で。

 その後の事はよく憶えてませんが、ただ一つ記憶に残っているのが、そのコンビニから家に向かう途中で号泣している僕と、その隣で憤怒しながら歩いているマザーのシルエットだけです。
 そして今、コンビニのガムコーナーを見る度に、どこかに走りたくなります。
 どこでもいいんです。どこまでも、どこまでも。

 伊集院さん、僕はどこに向かって走ればいいのですか?

 (PN:かずのし)


 母子家庭の子に対する世間の認識は、大抵『可哀相』というもので、恐らく可哀相指数にして70ぐらいに評価してると思います。
 しかし、3歳で父親を亡くしたかなりの筋金入りの母子家庭の子である僕自身は、5から10ぐらいと実感しています。
 嫌な事といえば、生徒名簿の保護者欄が僕だけ女の名前な事と、何といっても父の日です。
 事件は小学校3年生の父の日に起きました。
 この日の国語の授業の時、
 「明日は父の日ですから、お父さんへの感謝の気持ちを作文用紙3枚に書いて下さーい。」
 二十歳を超えたあたりの新米教師、宮崎先生(具体的には美人。フジテレビの佐藤里佳系。白のブラウス、パステルカラーの花柄のスカート。髪を後ろで結ぶ。中流家庭で育った品のいいお嬢さん風。女子にも男子にも大人気。)が言いました。
 この手の事は保育園時代から「お父さんの似顔絵を描きましょうね」等で慣れていましたが、何度経験してもちょっぴり嫌なものです。
 こんな時僕は決まって皆の前で手を挙げてこう言い続けてきました。そしてこの日も。

 「先生、お父さんの死んだ人はどうするんですか?」

 『いない人』と言わず、『死んだ人』とどぎつい表現を使っていた理由は、僕に多少なりとも嫌な思いをさせた担任へのささやかな復讐心があったかもしれません。
 彼女は「えっ…」といった感じで一瞬絶句して、
 「いけない、私もしかして物凄くこの子に対して残酷な事をしてしまったのじゃ。」
 とすまなそうな顔をして、
 「そ、そうね。じゃあお母さんの事でもね……書いて下さい。(最後はかなり小さい声)」
 多分彼女にとっても初めての事だったんでしょう。表向きは平静を装っても、かなり頭の中は動揺している事が手に取るようにわかりまず。
 大人が困っている。僕の中に妙な楽しさが沸いてきました。
 先生が作文用紙を配りに僕のそばに来ると、僕は「ちぇっ。」机を蹴りました。
 机の中からホッチキス、はさみ等の文具、教科書、鉛筆、そしてずっと前に食べ残してカサカサになったパンが一面に落ちました。
 先生は机から吐き出された僕の嘘怒りの中で立ち尽くしていました。
 5秒ぐらいして、気丈にも彼女は笑みを浮かべ直し、「ダメでしょ。机はサッカーボールじゃないのよ。」と僕の机を立たし、散らばった文具類を拾い集め始めました。
 「あらあら、もうこのパンカチンカチンね。ダメでしょ。食べ物を粗末にしちゃ。」
 先生の目にはうっすら涙が浮かんでいました。
 さすがに僕も居たたまれなくなりました。一緒に拾いながら彼女の耳元でこう囁きました。
 「せ、先生。ごめん、ごめんなさい。オレ。(これはごく普通に)」
 「いいの、いいのよ。私こそ。」
 すると友人の加藤君(もちろん仮名)が、

 「先生、僕の父親は離婚していないけど、どうしたらいいんですか?」

 僕はちょくちょく加藤の家に遊びに行くので、加藤の両親が仲がいい事はよく知っています。
 多分彼にしてみれば友人の僕を、ただでさえ可哀相指数70の僕をさらに85、6まで傷めつけてくれたなこの野郎と加勢してくれるつもりで言ったんでしょう。
 何度も言います。実際は5か10。
 間髪入れずに、今度は友人の清原君(仮名)が、
 「先生、僕の親父はガンであと一ヶ月で死ぬんですけどどうしたらいいんですか?」

 僕は思いました。
 これ以上先生をなぶり続けて彼女が学校に来なくなったら俺が一番悪い人になっちゃうよ。ったく、これが70と5のギャップってやつだよ。

 先生にもそれは嘘であるという事はわかっていたと思います。
 しかし、加藤と清原の交互の「どうしたらいいんですか?どうしたらいいんですか?どうしたらいいんですか?どうしたらいいんですか?」シュプレヒコールに立ち向かう気力は新任教師には無く、落ちた物を拾う姿勢のままうずくまってしまいました。
 もちろん泣いている事はクラス中の誰もが分かっていました。三浦君以外は。
 三浦君は興味深げに動かない先生の側に行き、
 「どうしたの先生、気持ち悪いの?あれ、先生泣いてるの?大人なのに?あれ、先生泣いてる。ねぇ泣いてるよ、みんな。先生が泣いてる。大人なのに。」

 この時の教室内での僕の立場は、既に『お父さんのいない可哀相な少年』から『先生を泣かした悪党』。
 もし仮に悪者ケーキ100個を皆で分けるとするなら、5つが三浦の分、そして加藤と清原に10個ずつ、残りの75個は俺の物という感じでした。
 この状況を打破するべく、女子森川さん(仮名)が「加藤君は嘘を言っています。加藤君のお父さんとお母さんがこないだペアルックで買い物しているのを見ました。」
 加藤君は『ペアルック』という言葉にカッとなったんでしょう、
 「うるせぇ!その後速攻で離婚したんだよ、ブス!想像で物言うな!」
 大ゲンカです。
 その後クラスはブスコール&金切り声。
 女子と男子の間でお決まりの戦争。
 真ん中で動かない先生。
 隣のクラスの担任の「お前ら何やってんだ!」
 これで教室は平静を取り戻し、チャンチャンという感じでした。

 次の日曜日、先生が僕の家に謝りに来ちゃいました。ショートケーキを持って。彼女のお母さんと一緒に。(和服姿)
 まず初めに何も知らない母が出て話を聞き、「まぁ、家の子にそんな事があったんですか。たけし(僕の仮名)、たけし。ちょっと来てごらん。早く早く。」
 もちろんこの時、先生がいらっしゃってる事は知っていて、願わくば僕を呼ばないでくれと部屋で切に願っていたのですが、「まぁまぁ、あの、上がって下さい。お茶入れますから。」と、4人でショートケーキを食べました。
 先生とうちの母と先生の母の3人は何やら色々世間話をしていたようですが、まるで上の空です。
 その時の僕の居づらさといったら。

 僕は大丈夫なんですか?まぁ5から10なので大丈夫なんですけども。
 じゃあ、宮崎先生は大丈夫なんですか?

 (絶対匿名希望・PN:伊良部秀輝)

 98.5.4 放送 (第134回)  
 僕とF君は小学生の時同じクラスでした。F君の家は大工さんで、F君はいつも将来家を継いで大工さんになると言っていました。
 その後僕は転校してF君と会う事はなくなりましたが、中学になって偶然また同じ学校に通う事になりました。
 しかし3年間僕とF君は同じクラスになる事はありませんでした。

 卒業式の日、式が終わり廊下を歩いていると、F君が前から歩いてきました。
 卒業式。もう会う事のない、最後の時。
 そんな感傷からか、何となく「声をかけなければいけないな」という気持ちになった僕は何気なく、「F、F。お前高校どこ行くの?」と聞きました。
 言った瞬間思い出しました。F君は高校には行かず、大工さんになる事を。
 でも、そのまま何も起きなければF君はきっと明るく、「ハハッ、俺、家継いで大工さんになるから。高校には行かないんだ。」と言ったと思います。
 F君はそういう爽やかな男だったし、何より僕には悪意のかけらも無かった。
 当時僕は同じクラスの就職組に対しても本当に純粋な気持ちで、「今からそんなに先の事をきちんと考えているなんてすごいなあ、俺なんて何も無くて、ただ進学するだけなのに」と思っていたし、多分F君に対しても何も無ければそのまま素直にその気持ちを伝えられたと思います。
 しかし、僕が「F、高校どこ行くの?」と聞いた次の瞬間、そばにいたOが僕の言葉尻を遮るように、「バカ!お前。」僕を怒鳴りつけました。
 「Fは進学しないんだからそんなひどい事聞くなよ!」
 こんなトーンで怒鳴りました。
 デリカシーのないくそ虫を踏み潰す勢いで怒鳴りました。
 その怒鳴り声に、不覚にも僕は反射的にF君に「ご、ごめん。」と謝ってしまったのです。
 謝る必要など全く無かったんです。
 やる事が無くてダラダラと高校に行く自分より、むしろF君の方がはるかに偉いしカッコいいに決まっている。そう思っていたのだから。
 でも僕は反射的に謝ってしまったのです。
 Oの頭の悪さと、僕のダメさによって、F君は傷つきました。
 顔を真っ赤にして怒りと悔しさが混ざったような表情でF君は僕をじっと見ました。F君は後ろを向いてスタスタと歩いていってしまいました。
 Oの奴は、そんなF君の肩をポンポン叩きながら、「なぁF、許してやってくれよ。あいつも知らなかったんだからさ。あ、またお前んち遊び行くからさ。」と言って笑っていました。
 本当に、本当に頭の悪いO。
 Oはある程度F君と一緒に歩くと、僕の所まで走って戻ってきて、僕に「ハッ、気にすんなよ。間違いは、誰にでもあるんだからさ。」大人の表情をしてそう言いました。
 そして僕はF君にかける言葉が見つからず、バカのように立ち尽くしていました。

 あいつが横から口を挟んでこなければ。
 あいつが横から口を挟んでこなければ。
 あいつが。

 それだけで頭の中を埋め尽くしたくても、F君の背中を見つめていると、
 「怒鳴られた時、僕が謝らなければ。」
 そんな気持ちが膨れていきました。
 F君は今でもこの事を思い出す事があるんでしょうか。
 その時どんな思いがF君の中に、あるいはもうすっかり忘れてしまったんでしょうか。
 10年以上、僕の中でまだくすぶっている、自ギャグです。

 (PN:やまむらさだこ)


 これは僕が小学校6年生の時の話です。
 当時僕にはH君という大親友がいました。H君は結構太めの、いつも笑顔の明るい少年で、僕たちは何をするにも一緒でした。
 特に3学期になってからは、僕が引越しして別の中学に行く事が決まったので、僕とH君は少しでも多く思い出を作ろうと二人っきりでいつもいつも遊んでいました。

 でも、そんな卒業式も近づいたある日の体育の時間です。
 僕らの小学校では6年の2学期になると男子は2つのチームに別れてサッカーの試合を毎時間やっていました。
 当然その日もサッカーの試合で、しかも体育の時間でその上両チームの勝敗も全くイーブンという事で、男子は異常に盛り上がって試合に挑んでいました。
 しかしチームを2つに分ける時にAチームが7人、Bチームが8人で数が合わなくて不公平だという話になった時、「A(僕の名前)が、あ、お前が8人目だったら全然大丈夫。」という評価を受けたぐらい、戦力として数えられていない僕だけは周りの男子の盛り上がりとは無縁でした。
 一方大親友のH君は僕とは違ってちゃんと戦力として参加しており、太っていても運動神経は悪くないという事で敵チームのキーパーとして僕らのチームのシュートを確実に防いでいました。
 そして僕が1回もボールに触る事無く試合時間は終了しました。スコアは0対0の引き分け。
 時間的にはまだ余裕があったので延長も可能だったのですが、その日は天候が大変悪く、試合の途中からかなり強い雨が降り始めていました。
 僕はこんな雨模様、すぐさま教室に帰りたかったのですが、両チームの熱血バカどもが「先生、決着付けて下さい。」と先生に頼みました。
 そこで延長よりも早く勝負の付く、雨の中のPK戦で決着が付く事になりました。
 PKは5本勝負なので、当然僕に出番はないなと決め付けており、高見の見物を決め込んでいました。
 しかし、両チームとも5本蹴って2対2のイーブン。勝負はサドンデスへともつれ込みました。
 その間も雨は凄い勢いで降り続け、いい加減やめればいいのにと思っていましたが、雨の中での死闘というシチュエーションに男子たちは完全に酔っており、それどころか体育館でのバスケットボールの試合が終わった女子までもがわざわざ雨の中応援に来ていました。

 6本目、7本目と両チームとも外し、ついに僕の出番になってしまいました。
 もっとも僕にはやる気など全然無く、僕のチームの連中のテンションも一気に下がりました。
 一方、敵チームは僕らに向かってこう言いました。
 「おい、俺たちはもう1巡しちゃったから、1回蹴った奴順番入れ替えて出すぜ。」
 そうです。PK戦は必ず全員出さなければいけないのですが、敵は既に全員が蹴っていたため、確実に外す僕に対して確実に決める奴をぶつける事が出来たのです。
 そして、僕の相手として出てきたのは、クラス1のモテ男、Fでした。Fは顔も運動神経も良く、女子からの人気は絶大でしたが、性格は最悪で僕はFが大嫌いでした。
 相手がFだと知り、僕の中に沸沸とやる気が沸いてきました。しかし実力の差はどうしようもありません。
 その時、僕の頭の中のデビル君が名案を出しました。
 「相手キーパーのHに頼んで、わざとボールを取るのを失敗してもらおうぜ。」と。
 相手チームのキーパーは僕の大親友のH君ではありませんか。
 僕はH君の近くに、皆に悟られないようにごく自然に近づき話を持ち掛けました。当然H君は嫌がりましたが、
 「大丈夫だよ。Fは絶対入れるだろう?そしたら俺が入れても同点じゃん。」
 強引に言いくるめました。OKさせました。

 しかしここで予想外の展開が。最初に蹴ったFがぬかるみに足を滑らせてシュートを外したのです。
 ここでもし僕が入れれば、一躍ヒーローです。
 柄にもなく張り切ってボールをセットした時、ゴール前に立っているH君と目が合いました。
 その時のH君の目を僕は一生忘れる事が出来そうにありません。
 謝るような、それでいて責めるような目で「いんちきは、出来ない。」とばかりにゆっくりと首を振ったのです。
 僕は約束を破ろうとしているH君への身勝手な怒りを胸に、「ちきしょう、こうなったら実力で。」と力を込めてボールを蹴りました。
 しかし運動音痴の僕の蹴ったボールなどたかが知れており、まるでボーリングのように地面を転がっていきました。

 H君はしゃがんでボールを取ろうとしました。
 しかし、ボールは泥のせいで滑りが良くなっていたらしく、H君の手をツルッとすり抜けて入ってしまいました。
 僕らのチームの勝ちでした。周りからは歓声が起こり、僕はヒーロー扱いされていました。
 すっかり有頂天になっていた僕は、H君の姿を見て凍りました。
 H君は何であんなヘロヘロボールが捕れなかったんだとチームメイトから責められ、泥まみれで泣いていました。
 僕は興奮が一気に冷め、何てひどい事をしたんだと後悔しましたが、結局H君にも謝らないまま卒業して、引っ越していきました。

 あれから10年が経ちます。
 伊集院大先生、僕の中のデビル君はまだ生きてるんでしょうか?

 (PN:さかえたかし)

 98.4.27 放送 (第133回)  
 今日私は通学路で、隣に座っていた知らない男のした屁の責任を勝手にとって電車を降りました。

 (狭山市・FAXネーム:あらきてつろう)


 ビクビク生きてます。
 人前では「広末がかわいい」と言われれば「かわいいね」と言い、「菅野美穂がかわいい」などと言っていますが、本当は羽野晶紀命です。

 (府中市・PN:ささきけい)


 「広島カープが好きなんだ。」
 「なんで?」
 と聞かれると、
 「やっぱり、皆で一丸となって点を取る、あの姿勢がいいじゃない。」
 とか言ってきましたが、実は、

 「北別府って響きが何かいい。」

 そういう理由だけでした。
 だから、今は別に広島ファンじゃなくていいはず。

 (FAXネーム:大逃げツインターボ)


 ビクビク生きてます。
 女子が体育の授業のため着替えている教室の前を通りかかる時、急にその教室のドアが開いた時、走ってます。

 (PN:ピルグリムファーザーズ)


 あれは、僕が小学校4年の頃の事でした。
 当時僕には親友がいました。僕と親友のS君は本当に仲が良く、毎日遊んでいました。
 その頃の2人の間で流行っていたのが、お互いの家に泊まりに行くというものでした。

 ある夏の日、僕がS君の家に泊まりに行った時、その日は午前中外で遊び、午後からは家の中でゲームをしました。とても暑かったので水やジュースをたくさん飲んでいました。
 楽しい時間は本当にあっという間で、夜になり晩ご飯を食べ、しばらくしてからS君と2人でお風呂に入る事になりました。
 僕とS君は「早くお風呂を出てさ、ゲーム、続きやろうぜ。」などと話しながら急いで服を脱ぎ、お風呂に入りました。
 まず先にS君から体を洗う事になり、僕は湯船に浸かっていました。その時です。ものすごい尿意が僕を襲いました。
 「そういや朝から1回もトイレに行っていない。」
 昼、ゲームをしている時にトイレに行きたくなったのですが、ゲームの虜だった僕が我慢しているうちにいつの間にか収まっていったので、すっかり忘れてしまっていました。
 そして湯船の中で我慢しているうちに頭に血が上り、なぜかおティンティーンがカティンコティーンになってしまいました。
 その頃の僕は小4なのに早くもチョロ毛が生えてきて、とてもナーバスになっている時期だったので、チョロ毛withカティンコティー。いくら親友とは言えこんな物を見られたら僕はもう学校に行けなくなるなどと頭の中はパンクしそうな程に悩んでいました。

 次の瞬間、お風呂の中に放尿していました。
 物凄い勢いで放尿し終わるのとほぼ同時に、S君は体を洗い終え、僕は何事も無かったかのようにS君と交代しました。
 僕が体を洗っている間、S君は楽しそうに湯船の中でゲームの話をしています。
 僕は頭の中が罪悪感で一杯だったので、その話にいい加減な相づちを打ちながら急いで体を洗い、お風呂を出ました。
 僕たちが最初だったので、その後S君の妹、お母さん、おばあさんが順番にお風呂に入るのを横目で見ながら、僕はゲームが楽しくて楽しくてたまらない、楽しくて楽しくてたまらないという振りをしていました。
 最後にお風呂に入ったS君のお父さんは、「あぁいい湯だったと言ってビールを飲んでいます。
 僕はS君のお母さんが剥いてくれたよーく冷えた梨を食べながら、物凄く悲しくなりました。

 夜も遅くなり、S君のお母さんが布団をS君と並べて敷いてくれたのですが、お風呂の事を考えると寝付けませんでした。
 「僕はあんなに優しいS君とS君の家族にひどい事をしてしまった。僕はクズだ。」
 などと考えているうちに、
 「もしかしたらS君ファミリーは全員気づいているのに、家族揃って優しいから僕の事を思ってわざと気づかない振りをしているんじゃないかな。きっとそうなんだ。という風に考え始めると、もうここにはいられない。と思い込んでしまい、800メートル程離れた自分の家に走って帰りました。

 次の日の朝10時頃、僕が家の押し入れの中で寝ているのを発見されるまで、S君の家では靴を残したまま消えた僕の事で大騒ぎになっていました。
 S君とは今でもよく遊びます。S君の家族は今でも僕に優しく、その優しさが僕には少し辛いです。
 僕は、大丈夫なの?

 (PN:かんきつ)


 ルーズリーフで失礼します。
 あれは小学校6年生の頃だったと思います。
 季節は忘れましたが、うららかな昼下がり。何故かも忘れましたが、その日は昼休みが長く、いつもの給食ではなくお弁当持参だった事だけ憶えています。

 お昼ご飯になり、皆手に手にお弁当を持ち、外での昼食を満喫していました。
 当時一人でいる事が好きだった私は、いち早くお弁当を食べ終わると一人で校庭をブラブラしていました。
 すると、校庭の片隅に用務員さんがおこしたのでしょうか、たき火が小さな炎を上げています。
 顔を他に向けると、しゅろの木。しゅろの木とは、皆さんご存知かもしれませんが、葉が硬く、やたら南国チックで幹の周りにモジャモジャ毛が生えています。
 そしてまた視線を戻すと、火。
 しゅろの木、火。しゅろの木、火。しゅろの木。
 気が付くと私は火の点いた枝を持ってしゅろの木に近づいていました。

 燃えました。
 炎上しました。
 しゅろの木は、一瞬で炎に包まれていました。
 真っ青になった私は、燃え尽きる事を期待して一度逃げかけましたが、近くで遊んでいた5年生が燃え盛る火を発見。
 私は彼らと一緒に発見者の一団の振りをしてバケツで消火活動。火はなんとか鎮火できました。

 子供とはいえそこは最高学年。職員室まで先生に事情説明に行きました。
 当時の私の担任がオールドミスのいかにも教育者タイプの先生でした。
 その先生を前にして、私の脳裏には先生が母に向かって「お宅では子供にどういった教育をしているんですか!」とヒステリックな金切り声で説教を垂れる光景がよぎりました。
 私は泣きながら叫んでいました。
 「お母さんは悪くないんです!お母さんの責任ではないんです!」
 これに先生は驚いたのか、その後余り怒りませんでした。
 今思えば周囲の皆の反応は、怒るというより私に対してかなり引いていました。
 落ち込んだ私の唯一の救いは、父の「しゅろの木ってやつは、よく燃えるんだよなぁ。」の一言でした。
 伊集院さん、私大丈夫ですか?

 (PN:ファン)

 98.4.6 放送 (第130回)  
 小学校2年生の時、僕とA君は野球少年でした。
 僕らの近所は畑ばかりで、広々と遊べる場所はなく近所の道でキャッチボールをするのが精一杯でした。
 野球少年といっても小学校2年。上手くボールが捕れず、畑に入ってしまう事がしばしばありました。
 畑にボールが入ると、その畑の地主にボールを取られて返ってはきません。なぜならそこの地主は地域で一番怖いオヤジとして有名だったからです。
 それでもめげず僕とA君はキャッチボールをし続けました。
 しかし、とうとう僕とA君のボールは全てオヤジの畑に。
 キャッチボールが出来なくなると、僕とA君は何をして遊ぶかを考えました。

 するとA君が「あのオヤジ、1ヶ月に何回かトラクターで野菜の収穫に来るの知ってる?」と僕に聞きました。
 「知ってる。」
 僕が答えると、「じゃあ、あのオヤジがトラクターに乗って通る農道に落とし穴を掘ろう。」と言ってきました。
 僕はこう答えました。
 「オッケー。」

 それから僕とA君は農道に穴を掘り続けました。
 五日間かけてやっと落とし穴が完成しました。縦1メートル、横2メートル、深さ60センチぐらいの穴でした。
 そしてその次に、その穴一杯に落ち葉を敷き詰めました。

 それから2ヶ月後、僕らが草むらに隠れていると、オヤジがトラクターに乗ってやってきました。
 しかし僕とA君が作った落とし穴よりも左側を走っています。作戦失敗と思いました。
 その時です。
 右の前輪が穴に落ち、その勢いで車ごと右に1回転、そしてサイドのガラスが割れる音がした瞬間、僕らは逃げていました。

 次の日、僕とA君は学校から帰ってくるとすぐにあの現場に向かいました。
 するとトラクターはそのまま穴に横にはまったままでした。
 そして僕がA君に「あのおじさん、大丈夫かな?」と聞いた時でした。
 オヤジが畑の方から手押し車にたくさんキャベツを載せてこっちに向かってきました。
 すると、いつも怖い畑のオヤジがやさしい口調で「ひでぇことする奴がいるもんだよねぇ。まあ君たち子供はおっきな穴は掘れないだろうけど。君たちが大人になってもこんな悪戯だけはしちゃだめだよ。」と言ってきたのです。
 その時僕とA君は誰に言われるでもなく、オヤジの畑の手伝いをしました。

 手伝いが終わり帰ろうとすると、僕とA君に「そうだ、これ君らのボールだろう。たくさんたまってるから、キャッチボールに使いなよ。」
 畑のオヤジがボールを全部返してくれました。
 僕とA君は、ボールを受け取ると走っていました。泣きながら。
 そして落とし穴の場所に埋めました。泣きながら。

 あれから10年、畑のオヤジに会うと僕はあの落とし穴を思い出します。オヤジは僕らの親切を思い出すようです。
 僕とA君は大丈夫でしょうか。

 (PN:プライド)


 あれは小学校3年生の出来事です。
 夏休み明けぐらいから、私たちのクラスでは匂いのする消しゴムというのが流行り出しました。
 いちご、レモン、オレンジ、こういった物は以前から文房具店から見かけていましたが、その頃からインドカレーやカステラの匂いがする物まで発売されるようになってきました。
 クラスで目立つ事をあまり好まない私でしたが、なぜかこのブームにだけは乗り遅れてたくないという気持ちが強くなってきました。
 しかし今使っている消しゴムは半分以上残ってる。ケープと書かれた、白くて大きな消しゴム。しかも家に予備がもう1つあります。
 そんな訳で、母に新しい消しゴムを買ってもらう事は不可能と判断し、私は自費で買おうとケロヨンの小さなガマ口を渋々開けましたが、「お兄ちゃんは弟の誕生日にプレゼントをあげなければいけない」という我が家の法律を守るためのお金しか残っていません。これを破れば、私の今後の収入がゼロになってしまいます。
 来月に迫った弟の誕生日には既にガンキャノンを買ってあげる約束を本人とも堅く堅く交わしていたため、
 「消しゴム購入は無理なのかなぁ、僕は匂いつき消しゴムを持つ事は出来ないのかなぁ。」
 そんな気持ちになり始めていました。

 数日後、私と最も親しい友人がフライドポテトの匂いのする、不思議な消しゴムを学校に持ってきました。
 この事は2時間後の休み時間にはクラスの大部分に伝わり、匂いを嗅がせてくれ、一嗅ぎいや半嗅ぎさせてくれという列が出来るほどでした。
 私たちの町ではマクドナルドが一店出来たばかりで、憶えたてのフライドポテトという言葉に皆が刺激されたのか、いつもの新種発表会よりも大盛況でした。
 それを裏付けるようにクラス中の匂い消しゴムを把握しているY子さんが班ノートに「K君が今日、フライドポテトの匂いがする消しゴムを持ってきました。皆嗅ぎましたか?」というインフォメーションまで載せていました。

 得意になっている友人を見て、私は匂い付きの消しゴムへの欲望が沸沸と蘇り始めました。といっても弟のガンキャノンは断念できません。
 ので、「予備の消しゴムにどうにか良い匂いを付けられないか」という子供らしい発想を持ち、この夢の達成のために家に帰った私は早速家中のいい匂い探しを始めました。
 まずトイレ。芳香剤を嗅ぎましたが、フルーツっぽい匂い。取りたてて話題性はなし。
 2階に上り、次は母の鏡の前にあったシトラスの香水の匂いを嗅いでみました。
 とてもいい匂いがしました。これこそフルーツでもなし、食べ物でもなし、シトラス。おお、何という不思議な響き。
 まさに匂い付き消しゴム界の新種になり得ると思い、消しゴムに塗りました。
 後で母に香水を撒き散らした事を怒られましたが、私は明日の学校が楽しみで夜もなかなか寝付けませんでした。

 朝になり、白い新品の消しゴムに付いた匂いの衰えてない事を確かめ、登校しました。
 早速友人Kに「これはシトラスの匂いだよ。」と言い、嗅がせました。
 Kは大そう驚き、早速他のクラスメートに触れ回っています。
 すると何人ものクラスメートが私の消しゴムを嗅ぎに来ました。
 パッケージの無い白い消しゴムに半分不信感を表した表情で嗅ぎながらも、皆一様にいい匂いだと言ってくれました。

 これでブームに乗れた。
 目的達成に胸をなで下ろしているとY子さんが匂いを嗅がせてくれとやってきました。
 私は快く受けると、鼻に黙って持っていき、3秒ほど「さあお嗅ぎ。」
 何やら意味深な笑いを浮かべコメントを残さず去っていったY子。
 そして放課後、班ノートにはY子さんの自筆で、
 「伊藤君が今日、父兄参観日の香りのする消しゴムを持ってきました。」

 それを見て皆の反応は「そうだ、シトラスじゃない。父兄参観の匂いだ。」と全員同意のように見えました。
 私はそれが自作した消しゴムである事までは誰も気が付いていない様子で安心しましたが、それ以来父兄参観日がある度に、消しゴムを見つめてうっすら涙を浮かべるようになってしまいました。
 母に対しても、なぜか冷たい態度をとってしまいます。
 伊集院さん、オレは大丈夫?

 (PN:カドタッチ)

 98.3.30 放送 (第129回)  
 僕が小学校3年ぐらいで、飼育委員をしていた時の話です。
 僕は特別動物たちが好きだったわけではなく、ただボーッとしていたら飼育委員にされていた。でも幸いなことにうちのクラスは魚や昆虫を捕まえてくるような輩はいなかったので、僕は学校で飼っている動物の世話だけが仕事でした。

 そんなある日の事、コイの世話をする事になりました。エサを適当にばらまくだけ、と思っていた僕は次の日から一匹のコイだけをひいきするという遊びを覚えました。
 そのコイは池の大半を占めるコイの中に一匹だけ存在したゴールドのコイでした。
 それから3日も経てば、池のコイの中での序列も出来、金は王、銀は側近(3匹)、赤や白は一般で、黒はたくさんいるからどーでもいい人、と勝手に決めていました。
 そんな制度を決めたので、金の周りだけにたくさんエサをばらまいていたのですが、それに群がる黒いコイを見つけ「無礼者!」とか「愚か者!」とか言ってそばにある小石を投げつけていました。

 それからしばらくしたある日、僕はキングに「王様、私は家に帰らなければならないので、後の事は側近に任せますぞ」という挨拶をしに池に向かった所、何やら工事の方が池の前でしゃべっているではありませんか。
 「まさか、あやつら池に攻め込むのでは?」と勘違いした僕は妙に興奮していました。工事の人が立ち去るとすぐに「敵襲、敵襲。ただちに王を安全な所へ。」と自分に号令をかけ、小さなバケツにすくって、なぜか校舎の方に向かっていました。
 ここで運悪く、少し離れた所にいた見回りの先生に見つかりましたが、上手く説明できなそうなので走っていました。
 後を追ってくるので、便所に隠れる事にして急に腹痛少年を演じる事にしました。コイを便器に移して出たと思わせ、コイは流れないと思って流しました。
 見回りの先生には、忘れ物を取りに来たら急にお腹が痛くなったと告げました。
 自分で取りに行けると言った後に便器を覗いてみましたが、王はお隠れあそばしていました。
 後で思うと、金のコイは黒いコイより一回り小さかったなと思います。

 それから少し経って金のコイが盗まれたということになっていたと思うのですが、これはマジで本当に憶えています。
 僕はコイを見るより便器を見ると王が帰ってきてくれる気がたまにします。
 王は僕の事をどう思っているか、教えて下さい。

 (PN:シャアザク)


 小学1年生の、授業参観での話です。
 私の通っていた小学校の授業参観は1時間目から4時間目まであり、なるべく多くの親に見てもらうためにいつでも来る事の出来る時間に「どうぞ」というシステムをとっていました。
 私は別に自分の親が来るかどうかも良く分からず、来るなら来れば?的な状態でした。

 その日もいつも通り学校に行き、教室に着くと皆は「今日お父さんとお母さんどっち来んの?」とか「お父さんの前で指されたらやだな。」とか話していました。
 授業が始まり、だんだん後ろに親たちが入ってきて人が集まっているのが分かりましたが、私は振り向いて親と目が合ったりするのが嫌だったので、別に後ろを見たりはしませんでした。
 1時間目が終わりさりげなく後ろを見ると、親同士で話をしていたり、親子で話をしているような風景でしたが、私の親が来ている様子はありませんでした。
 2時間目の休み時間も、3時間目の休み時間も人の出入りはあるものの、同じような風景が続いていたと思います。

 そして4時間目。その時間の授業は国語。
 内容は『りんごジュース』という題名の、りんごは赤いのにジュースは白いみたいな内容の詩のような文章を読むのだったと憶えております。
 その文章を今では名前も憶えていませんが、隣の女子が指されて読み始めました。
 その女子が題名の「りんごジュース」という言葉を口にした瞬間、後ろの変な男子が「りんごって英語でアップルって言うんだぜ。」と言いました。
 その時クラスは少しざわつき、親たちのいる辺りからは少しの笑い声が聞こえましたが、私は「そんな事僕だって知ってるよ」と思っていました。
 すると先生が、「へー、すごいのね。りんごは英語でアップルというのを知ってる人。」と言うと、クラスのほとんどの人が元気よく手を挙げました。

 思わぬ所でいい雑談を見つけた先生は、「それじゃオレンジジュースは日本語でいうと何でしょう?」と言った時に私は、「みかーん!」と大声で自信満々にシャウトしたのです。
 その時、親たちの辺りから大爆笑が。生徒の中からは少しの笑い声と、「答えはよくわかんねーけど、みかんじゃねーだろ、オレンジは。」的なざわつきが起こりました。
 私は「何が?何が?」と思いましたが、すぐに答えがみかんではないという雰囲気を察しました。
 先生はニコニコしながら「オレンジは日本語でみかんではなくて、日本でもオレンジはオレンジという果物なのよ。」みたいな事を言いました。
 私は普段あまり発言しないくせに大声で大間違いをシャウトしてしまった自分に恥ずかしくなり、真っ赤になっていました。

 その刹那、私の背後にはいやーな予感が。
 そうです。後ろには、知らない間に、お母さん。英語でマザーが来ていたのです。和服に、前髪の辺りが紫という姿で。
 ただでさえ「みかん」発言を親に聞かれるという恥ずかしい事にあったのに。
 伊集院さん、奴の姿はなんですか?
 なんで、授業参観に和服なんですか?
 なんで、朝は普通だった黒い髪がパープルなんですか?
 なんで、次の日には普通の黒に戻っているんですか?
 そして、なんであの日、母はあんなに張り切っていたのですか?
 僕はあんなに張り切ってシャウトしたのですか?
 あの日、あの母に、あの「みかん」発言を聞かれた私は大丈夫ですか?
 私は遠い将来、オレンジジュースを飲めるようになるんでしょうか?

 (PN:V2)

 98.3.23 放送 (第128回)  
 あれは小学校2年の時、放課後の遊びといえば家の近くの砂場で、友達2人で落とし穴を作る事でした。
 いつものように穴を掘っていると、砂の中から次々と300円出てきました。誰かが落とした物でしょう。
 小学校2年といえば物の善悪の分別が付かない時で、友達は「お菓子買おうぜ」とか「ゲームやりたい」などと泥棒してしまう話がまとまりかけていました。
 が、当時リーダー格の私は「いや、警察に届けよう。」友達が泥棒になるのをとどまらせました。そして警察へ。

 すると警官は「偉い子だね。」と、とてもとても褒めてくれました。
 かっこいい制服を着ている人は、僕らの中で日本で2番目に偉い人(1番目は校長)的な考えがあったので、とてもとても有頂天になりました。
 その夜は夢の中にも褒められた話が出てきたりして、また褒められたい願望が浮かんでくるのでした。

 しかし、そうそうお金は簡単に落ちているものではありません。
 ということで次の日、お母さんの財布から小銭を拝借し、友達が来る前に砂場に埋めて、遊ぶ時に「またあったよ」的な小芝居をし警察へ。
 警察は「また見つけたんだ、すごいね」と言って僕ら3人にアメまでくれました。
 家に帰る途中、「なんで、俺が埋めたのに、他の2人も褒められてるんだろう。俺だけ、俺だけ褒めるべきではないのか?」
 心の中でこんな声が大きく大きくなってきました。

 僕は次の日、友達2人の遊びの誘いもことわり、母の財布から直接交番に届けていました。
 褒めてもらいたいための奉納が一週間ぐらい過ぎると、さすがに警官もおかしいと感じ、家に電話をしてくれました。
 そしてお母さんに財布からお金を取っている事がバレてしまいました。
 もちろんその日以降、警察に貢ぐのはやめました。

 伊集院さん、僕は大丈夫なんでしょうか?

 (PN:ニジンスキー)


 あれは確か、私が小学校6年生の時だと思います。
 私と同じクラスに、背が高いぽっちゃりとしたSさんという子がいました。
 小6ともいうと、もう大人の女に近づいている時期です。Sさんはとても成長が早く、着替えの時に知ったのですが小6にして既にスポーツブラを着用していたので、幼児体型だった私は同性ながらにして凄いと思っていました。

 春が過ぎ、夏になりました。プールの季節です。
 その前の年は冷夏だったせいか、あまりプールに入らなかったので私はとてもわくわくしていました。
 そして、6月の中頃かそこらにプール開きがありました。
 プールに入る前に小6全員がプールを囲み、準備運動を始めました。
 私とSさんは同じぐらいの背だったので隣同士でした。

 手を大きく挙げる運動の時、私はSさんの脇毛を発見しました。
 1年ぐらい前に先生が急に「男子は皆キックベースをしていなさーい」と言い、女子だけを教室に残し女子へ二次成長について語り出した時の「個人差はあるけれど女の子はある時期になると脇などに毛が生えてくる」と言われた時の知識があったので、私は「Sさんはきっとある時期が来たのだろう、教えてあげなければ」という気になり、「Sさん、脇毛生えてるよ」と言いました。
 Sさんはまだ素知らぬ顔で運動しています。
 きっと聞こえていなかったのだろうと思い、
 「Sちゃん、わーきーげ!脇毛生えてるよ。脇毛生えてるよ。Sちゃん脇毛生えてるよ。」
 何回言ったか憶えていないぐらい、運動し続けているSさんに向けて言い続けました。
 しかしSさんはまだ前を向いたままです。

 この後のプールについては一切憶えていません。
 でもSさんのずっと前を向いていた横顔だけはなぜか憶えています。
 今でもたまにSさんと駅で会いますが、お互い気づかないふりをするルールが出来ているようです。
 当時の私はSさんに対して全く悪気はなく、むしろ教えてあげなくてはという親切感からのものでした。
 しかし今思い出すと、お腹が痛くなります。

 伊集院さん、こんな私はSさんに何か償いをする事が出来るのでしょうか。

 (PN:ガタピシ)

 98.3.16 放送 (第127回)  
 あれは確か小学生、僕が5年生の頃の事だったと思います。
 4時間目が終わってさあ給食だという所でした。
 給食当番ではない僕は、机を給食時間用に早く並べてしまうと、給食当番が給食を配る用意が出来るまで、する事がありません。
 いつもだったら友人と廊下やベランダでも遊びに行って教室の残っている事などまずはありませんでしたが、その日に限って疲れていたのか、なぜだかただ1人教室の端の壁にもたれて、床に座っていました。
 この世の中には不思議な事があるもので、偶然にも座った場所が、当時大好きだったEさんの机の前でした。
 しかも自分の座っている場所からはよくEさんの机の中身が見えたのです。
 僕はこの幸運を神に感謝しつつ、Eさんの机の中の様子に見入っていました。

 そのうちに次々に牛乳が配られました。もちろん、Eさんの机にも配られました。
 他の人から見ればどれも同じ牛乳瓶に入った牛乳に違いないのでしょうが、その時、めったに見られないEさんの机の中身というプライベートワールドを覗き見して頭が何となくピンクに染まっていた僕にしてみれば、Eさんの机に置いてある牛乳なんぞ、部屋の外に干してある下着のような物です。

 次の瞬間、僕は下着泥棒になっていました。
 牛乳を手に取り、すぐさま凄い勢いで飲みました。
 うちの学校は廊下で給食を配るシステムだったのでその頃には牛乳を配る用意も整い、全員が廊下に出ていってしまっていたので教室には僕以外誰もいなかったのです。おかげで誰にも見られていないようでした。
 すぐさま牛乳を掃除用具用のロッカーに入れ、何食わぬ顔をして廊下に出、列の最後尾に並びました。

 「いただきます。」の時になり事件は起こりました。
 Eさんが泣いています。Eさんだけ牛乳がないからです。教室の中のみなが騒いだり不思議がったりしています。
 無くなった原因は簡単です。僕が飲んだからです。
 しかし、そんな事は人前で言えるはずもありません。
 担任の先生は当番に確かに配った事を確認し、その上で「誰がEさんの牛乳を隠したのか名乗り出るまで給食は食べられない」と言い出す始末です。
 さすがの先生でも牛乳がいち早く飲まれているとは思っていないようでした。

 そのあたりからはあまり定かではありませんが、誰かに「Sがやったんじゃねーの?だってさーそこらへんに1人座ってたじゃん」みたいなことを言われ、まさにジャストだったのですが、確か親友のTが「おいおい、Sはそんなに食い意地の張った奴じゃねーだろ」とかばってくれ、結局お腹が空いて先生も我慢できなくなったのか、当番に牛乳を給食室まで取りに行かせ、無事事無きを得たように思います。
 今にして思うと、Eさんの牛乳の味なんてさっぱり覚えていませんが、好きな人の縦笛をついペロルしてしまう人の心理状態は、この時の好きな人の牛乳を気がついたら飲み終わっていた時の心理状態を思うとよくわかるような気がします。
 もうすぐ18になりますが、今でも駅の売店の冷蔵庫に並んでいる、瓶の牛乳を見ていると、ピンクっぽい気分になります。
 伊集院さん、こんな僕はいかがでしょう?

 (PN:フォーク指)

 98.3.9 放送 (第126回)  
 わたしが小学校1年生の時の事です。
 当時私にはあまり友達がいなかったので、放課後は学校で1人で遊んでいました。その時よくやった遊びは、学校の駐車場の小石を投げるというものでした。
 しかも、ただ投げるのではなく、駐車場の近くにあった変電室の屋根に乗っけるという、5、6年生がよくやっていた、1年生にしては高度な遊びです。
 当時、学校の駐車場はアスファルト舗装されておらず、砂利だったので手頃な石がたくさんあり、私はどんどん投げました。
 幸いにも小学1年の私の腕力と人通りの無さが、小石による怪我人を出す事はありませんでした。それと同時に小石がきちんと屋根に乗る事もありませんでした。

 何日も何日もやり続けていると、だんだん飽きてきました。
 もう石を投げるのは嫌になったので、今度は小石を積んで遊ぶ事にしました。
 その時、私は何を思ったのか、ただ積むだけでは面白くないという理由で、手近にあった車のタイヤの所に積み上げる事にしました。
 そして4本のタイヤの周りにびっちり石を積むと、日がかなり沈んでいたので家に帰りました。

 次の日いつも通り学校に行くと、朝の会の時に担任の様子が変です。
 そして先生が話し出しました。
 「昨日先生が帰ろうと思って車に乗ったら、エンジンはかかるのに車が前にも後ろにも動かないの。どうしてだと思う?それはね、タイヤの所に石が積んであったの。誰か、やった人は素直に名乗り出なさい。」などと、尊敬すべき先生が泣きながら言っているではないですか。
 もちろん犯人は私です。でもまさか担任の車などとはこれっぽっちも知りませんでした。
 しかし先生の話を聞いた直後、私の脳裏をよぎったのは「今素直に出ていったら先生の部屋(職員室)に連れていかれ、死刑。」
 結局、先生には本当の事は言えず、全校の問題にまで発展し、『小石を投げない・積まない』という新しい校則まで作られ、さらには駐車場は全てアスファルト舗装されました。

 あれから11年という月日は流れましたが、伊集院さん、こんな私は大丈夫でしょうか。
 無事に3年生になれるんでしょうか。

 (PN:こ(中略)み)


 当時、私の通っていた中学では、2年の時に湖のほとりの山に囲まれた所で林間学校というイベントがありました。湖でボート漕ぎやキャンプファイヤー、フォークダンスなど中学初のお泊り期間です。3泊4日。
 しかしこれは旅行ではなくあくまで学校なので、所持品にかなりの制限が課せられていました。
 お菓子やガム、ウォークマンから湖が汚れるという理由でシャンプーに石鹸、ヘアムースなどは御法度でした。
 厳しい条件ではありましたが、いざ始まるとこの学校、楽しくて仕方がありません。この狭い狭い学校に幸福な時間が流れました。

 2日目、私たちは男子が湖の自然を守るため湖周辺と宿舎周辺のゴミ拾い、女子は宿舎内で清掃をさせられました。
 案の定女子は先に終わり、バスタイムに移ります。
 一方男子は未だにゴミ拾い。男子は不満たらたら。中には怒っている奴もいます。
 僕のグループ5人の1人が「こんな事してないでさ、女湯覗きに行かない?」という明らかな思い付きを口に出し、これがいけなかった。
 僕らのおピンク様が目覚めてしまいました。さらに好きでもない清掃をさせられている事への怒りと、赤信号皆で渡れば怖くないという理屈が僕たちを動かしてしまいました。
 僕たちのグループは宿舎に一番近く、先生たちはゴミ拾いに夢中で僕らに対してノーマーク。天も僕らに「女湯に行け、行くのだ、行かねば」と言っています。
 ということで女湯に行ってみると、建物の裏側の少し高い位置に窓を発見。そこから湯気がモックモク。人が覗けるほどの隙間もあります。
 僕らはそこに接近しました。

 その時、「何してるの!」
 女教師に捕まってしまいました。
 まさか「裸(ら)を見に来た」などとは言えるはずもなく、説明できない僕たちは観念しました。
 「もうダメだ。もうダメだ。もうダメだ。」
 しかし、私は風呂の窓のすぐ下に不自然に置いてあるナップザックを発見しました。
 私は瞬時にひらめきました。ここからは私の独り舞台です。
 「先生、実はですね、僕は聞いてしまったんです。女子がこっそり禁止されているシャンプーとか石けんを持ってきていることを、ホラ、あの袋です。これ、この袋の中に。僕はこういう不正が許せなくて、取り上げて先生に提出しようと思っていたんです。」
 先生は「見せてご覧なさい、あら本当ね。全くこんな事して良心が痛まないのかしらね。」
 僕は勝ったのです。逆転勝訴です。他の4人は僕をヒーローのように熱い眼差しで見てくれました。私たちは難なくこの場をしのぎました。
 しかしこの時はまだ気づいていなかったのです。事の重大さに。

 その日の夕食後、異変が起こりました。行われるはずだったゲーム大会が中止になりました。
 理不尽な中止宣告に生徒たちは実行委員のT君に詰め寄ります。しかしT君はうつむいたまま。
 全校生徒は広場に集合を命じられ、そこに生活指導の教師が現れました。
 そして一言、「全員正座。」
 ただならぬ教師の表情に生徒はみな黙ってしまいました。
 教師は、「この中にルールを破った人がいました。心当たりのある人はいますね?そうです。ルールを破って持ってきてはいけない物を持ってきた生徒がいます。よって抜き打ち持ち物検査をします。今皆の部屋で担任の先生が皆の荷物をナウ調べています。」
 あまりの急展開にみな唖然としていました。
 30分後、先生たちが御法度グッズを持ってきて全生徒の前にまとめて置きました。
 そこにはお菓子、ジュース、CDプレイヤー、ラジオ、ゲームボーイ、シャンプー、中でも最大のインパクトは液晶テレビでした。
 その後、就寝時間までお説教が続きました。一番可哀相だったのは一晩中正座させられたN君です。彼は液晶テレビを持ってきてクラスの仲間とおピンク番組で大フィーバーする企みを中止されたそうです。

 3日目、話題の争点は一体誰が先生にチクったのかという方向に向かって行きました。全生徒間で不信感が漂っています。
 僕は社会で習った中世の魔女裁判を思い出していました。
 本来、ヒーローであるはずのジャンヌ・ダルクでさえ、魔女として裁かれた。
 世界史豆知識が私の頭の中でグルグルと回っていました。
 確かに僕は仲間の危機を救ったジャンヌ・ダルクでした。
 でも僕は、単に仲間を売った裏切り者、魔女なのでしょうか。
 最終日のキャンプファイヤーが、私は何か恐ろしくなって、一人で震えていました。

 伊集院さん、大丈夫ですか?
 あのキャンプファイヤーは僕をあぶってはいませんでしたか?

 (PN:一等星シリウス)


 小学校の時って、クラスでクリスマス会やりますよね?そこでプレゼント交換やった人も多いはずです。私もそんなクラスにいました。
 先生の「プレゼントにかけるお金は300円まで。出来れば、手作りが心がこもってていいね。」という言葉を信じ込み、私は300円だけを握り締めデパートに行きました。
 しかし、300円で買える物などあるはずはありません。気が付くと私は紙粘土を手に取っていました。
 「そうだ、これで人形を作ろう。」

 夜、こたつの上に粘土を広げ考え込んでいると、テレビでわくわく動物ランドが始まりました。今日はラッコの特集です。
 私はピンとひらめき、「よし、ラッコの人形にしよう!」と決めました。
 初めはリアリティを追求した芸術作品に仕上げるつもりでしたが、番組が終わるとラッコの様子がわかりません。
 だから、番組が終わってから製作された後半半分は、自分が勝手に想像したラッコ風。せっせとせっせと作りました。
 図工が2であった私が見るに、ラッコが出来上がりました。妹に見させると、「クマ?ねぇお兄ちゃん、クマ?」
 私、口をパクパクさせながらラツコ、ラツコ。」「ああ、ラッコ?」
 やっと自分好みの答えが返ってきました。
 私は「ラッコもクマもネコも、耳がありヒゲがある、そしてつぶらな瞳を持ち、哺乳類。同じ同じ。」と割りきり、仕上げとして作品を入れる箱はないかと見渡すと、大きさ、形といいグッドな箱を発見しました。ティッシュの箱です。
 私は中身を抜き取りはさみで上面を切り抜き、ラッコを入れ、最後はスーパーの半透明の袋とテープでラッピングしました。
 その日は安心して寝ました。

 次の日プレゼント交換の時、私は自分のプレゼントが皆とかなり違う事に少々ショックを受けましたが、私にしてみれば「どうせ他人がもらうんだから大丈夫。」と決める事で乗り越えました。
 私に回り回ってきたのは、女子が作った手作りクッキーとクリスマスカードでした。
 私はその場でクッキーをほおばり、しばし至福の時を過ごしました。

 帰宅中、女の子に出会いました。当時、私が好きだったSさんです。
 私はいつも彼女と話す時ドキドキしてしまうほど大好きなのですが、表面は平静を保ち、「僕はクッキーもらったよ。君は?」と聞きました。
 彼女は「うーん…」と答えました。
 なぜ悩む?
 状況がわからない僕は、
 「ぼかぁねぇ、ラの付くプレゼントを出したんだ。」
 その時Sさんは、「え、ラ?」
 「ああ、ラの付くプレゼント出したんだけど。」と答えると、鈴木さんは、
 「私に来たプレゼントはティッシュペーパーに入った粘土だったんだけど、ラ、ラッコ?もしかして。」
 ドキッ。
 「違う違う、あの、僕のはラッパだったな。」
 私とSさんは黙ったまま下を向いて歩いていましたが、気が付くと僕は走ってしまいました。

 次の日、鈴木さんは学校でその事について何も言いません。
 よかった、気づかれてなかったんだと安心していましたが、掃除の時ゴミ捨てに行く途中、鈴木さんはぞうきんを絞っている私にこっそり、
 「ありがとう。飾っておくね。弟が笑ってたから私注意しといたよ。私、好きだな、ラッコ。」
 鈴木さんはそう言って立ち去っていきました。
 私はぞうきんをいつまでもきつーくきつーく絞っていました。

 私は彼女に嫌われてしまったのでしょうか。
 もしかしたら彼女は僕を恨んでいるでしょうか。
 そしてラッコはまだあるのでしょうか。
 あれは客観的に見てもラッコだったのでしょうか。
 教えて下さい。

 (PN:サンタになりたい)

 98.3.2 放送 (第125回)  
 あれは中学2年の体育の授業でした。
 体育についてまるでダメの僕にとっては、苦痛としか言いようの無いソフトボールの授業でした。
 あの日も僕の指定席、9番ライトでした。いつものように内野ゴロを連発していました。
 守備はセンターを守っていた人がソフトボールの大変上手い人だったので、ずっとカバーをしてもらっていました。

 そして、授業も終わりに近づき、残り10分ぐらいで先生の「時間も無いから、この回で最終回にしろ。」という指示が出されました。
 表の守備は無事に終わり、裏の僕たちの攻撃になりました。その時点で僕のチームは3点から4点負けていました。その回の打順は前の方からなので、僕には回らずに終わると思っていました。
 しかしその回、攻撃が爆発。かなりの押せ押せムード。
 いつのまにか体育館から戻ってきた女子達も応援に加わり、盛り上がり始めています。

 本来なら途中でもうチャイムが鳴ったので終わりなのですが、その授業は4時間目で次は昼食&昼休み。試合は続行されました。
 皆が盛り上がる中、僕は焦り出しました。
 このままでは僕まで打順が回ってきてしまいます。今までの事を考えれば、間違いなく内野ゴロです。
 僕にとっては悪い事に、この押せ押せムードで最初は少なかった女子がどんどん増え、その中には当時好きだったKさんもいます。
 皆が「がんばれ、がんばれ」と叫ぶ中、僕だけ心の中で「お願い、誰かアウトになってくれ。お願いだからアウトになってくれ。」と念じていました。

 しかし、僕の念は天には届かなかったのか、打順が回ってきました。
 1点差、2アウトランナー2塁という場面で。
 僕が全然打てない事を知っている男子からは、「デッドボールになれ、デッドボールになれ。」という言葉。
 Kさんを含む女子からは頑張れコールが飛んできます。
 僕たちのソフトボールではなかなかストライクが入らないから、フォアボールはなしというルールになっていたので、フォアボールという逃げ道すら失われています。
 僕は絶体絶命のピンチに立たされていました。

 2、3球見送った所で覚悟を決め、次の球を思い切り打ちました。
 もちろん、内野ゴロでした。僕は半べそで1塁に向かって走りました。
 しかし奇跡が起きました。内野の投げたボールが悪かったのか1塁手がボールを落とし、僕はセーフだったんです。僕は久しぶりに踏む1塁の感触を噛み締めていました。沸き上がる声援。Kさんも喜んでいるようでした。
 僕はこの大舞台での成功に身も心も踊り、有頂天になっていました。有頂天の僕の心にある事が浮かんできました。

 2アウトながら1塁、3塁のチャンス。もしこれが2塁、3塁になれば逆転が可能だ。
 今までの試合、1塁に出た奴は簡単に盗塁を決めてるではないか。
 盗塁を決めればKさんだってもっともっと喜ぶだろう。
 そして次の瞬間、僕は走ってました。

 その後の事は思い出せないし思い出したくもありません。
 ただ、土煙の中Kさんの落胆した顔だけが。
 僕の誤算は、自分の運動神経がゼロであり、盗塁のスタートも悪い上に足も遅いということを忘れてしまうほど有頂天になってしまったことにあります。

 伊集院さん、今現在僕はプロ野球中継を見ていても1塁ランナーがスタートすると涙目になってしまいます。
 いつか僕は2塁に盗塁する事が出来るのでしょうか。

 (ラジオネーム:夢の中の盗塁王)


 伊集院さんこんばんは。
 そちらの椅子に腰掛けて、僕の話を聞いて下さい。

 あれは、幼稚園の頃です。僕はコアラのマーチやたべっこどうぶつみたいな、動物の形のビスケットが全く食べられませんでした。
 動物の形をしたビスケットを食べると、その動物たちが死んでしまうように思え、とても可哀相だったからです。

 そんなある日、幼稚園でおやつの時間に僕の食べられない動物ビスケットが出されました。
 ビタミンやらカルシウムやらが入っているとやらで、全部残さず食べなければ休み時間はなしというルールがあったため、「このままじゃ休み時間が無くなる」というのと、「動物が死んじゃう」という2つの考えが頭の中で戦った結果、僕のとった行動は、動物たちの手足だけを食べて、それ以外の頭の部分だけを残す事にしました。
 なぜそんな事をしたのかと?
 答えは簡単です。
 「動物は頭の上だけ残しておけば、頑張れる、頑張れるんだ。」と思い込んでいたからです。
 そして動物ビスケット改め頭ビスケットをロッカーに隠して、そのまま休み時間友達と楽しく遊んでいました。
 それ以降動物ビスケ系がおやつに出される度に何度も繰り返し同じ事をしました。

 そしてあの日、年に1回の大そうじ。当然ロッカーの中の掃除もします。
 幼稚園の先生はなかなか掃除を始めない僕に疑問を感じて、ロッカーを開けました。
 すると、お馬さん、ライオン、キツネ、トラ、ウサギなど、全て頭のビスケットが大量に。幼稚園の先生の足元に散らばりました。
 僕は先生に「何でこんな物を集めてるの?」と質問され、ここで本当の事を言えばまだ良かったものの、ものすごく怒られるような気がしてしまい、「助けたかったから」と漠然とした事を言ってしまい、先生をブルーにさせたのを憶えています。

 それ以来、家族や周りの先生が急に優しくなり、質問おじさん(私はそう呼んでいた)という人の所に週1回会いに行かされていました。おそらく両親が心配しての事だろうと思います。
 もちろん、未だにその手のビスケットはだめです。
 伊集院さん、僕のとった行動は正しかったんでしょうか?

 (PN:ひろふみ)


 私が幼稚園の頃、当時私は水の入った灰皿にタバコの火の点いたやつを入れる時に出るジュッという音が好きで、よくおじいちゃんがタバコを吸う時灰皿に水を注いで怒られていました。

 さて、私の遊び友達に3つ年上のKという、ちょっとファイヤー好きなお姉さんがいました。
 Kさんはよく私を連れて近所の稲刈りの終わった田んぼなど比較的無害な所をちょっとした火の海にしていました。
 その日の遊びもそうでした。
 Kさんはポケットからチャッカマンを取り出し、まず落ち葉などで小さなたき火を作り、小枝を足して大きくしていきます。
 私はいつも小枝を拾ってくる係でした。
 その日は雨が降った翌日だったので、なかなか火が点かなかったのですが、そこはファイヤー好きなKさん。すぐにたき火は出来ました。
 小枝に火がパチパチと点く頃、私はちょっと離れた所に水の入ったバケツを見つけました。
 私は、小枝を燃やしていると中に線香みたいな火が消えて先が赤くなってるあの部分が、タバコを吸うと先が赤くなるのと似ているのに気づき、先の赤くなっている小枝をつかんでバケツに走り寄り、それを水に浸けてみました。
 「シュッ」という音と共に赤い所が黒に変わりました。
 予想通りの事が起きた事に喜んだ私は、「もっとやろう、もっとやろう」と思い、何度も何度も火の点いた小枝をバケツの水に沈めました。

 何本目だったでしょうか、私は突然Kさんに呼ばれました。
 Kさんは怒っていました。無理もありません、自分が点けた火を私が次々に消しているんですから。
 「枝返せよ。」Kさんは言いました。
 私の手にはまだ先の赤い小枝が握られていました。
 怖くなった私は、すぐにその枝をKさんに渡しました。
 その時、水に入れた時とはちょっと違った、シュッという音が聞こえました。
 ハサミを渡す時は刃の付いている方を差し出してはいけません。先が赤い所は火の点いている所と同じでもちろん高温です。
 気が付くとKさんが手の甲を押さえて声も無くうずくまっていました。
 私は小枝を握り締めていました。

 その後の事は良く憶えていませんが、何日か経った頃、Kさんの右手に包帯が巻いてあったような気がします。ばんそうこうではなくて。
 あれ以来私は線香や花火など、先が赤く燃えている物がだめです。
 Kさんは引っ越してしまったのでもう会う事はないでしょうが、あの音と小学生、しかも女性に根性焼きという一生残ってしまう事をした事実が、頭の中を駆け巡るのです。
 今でもファイヤーに関する行事に関わる度に。

 伊集院さん、こんなあたいはアウトなんでしょうか?

 (PN:日大獣医に受かりたい)

 98.2.23 放送 (第124回)  
 あれは私が小学校3年生の夏の話です。
 その年の夏はとても暑く、梅雨に全然雨が降らなかった事もあり、全国的に水不足になり、節水が呼びかけられていました。
 当時私の通っていた小学校でも、水道の蛇口全てに『節水』と書かれたシールが貼られ、最終的には皆が楽しみにしていたプールの授業の中止といった形で私たち子供の世界にも影響を与え、結局プールの授業は1度も開かれないまま夏休みを迎えていました。

 そんな夏休み、プールに入れなかったストレスを感じつつも、それはそれ。
 私は大親友のM君とザリガニを取りに行きました。すると、ものすごい大漁です。
 そうです。水不足のおかげで川の水が減り、ザリガニが川底を歩いているのがバッチリ見え、取り放題の状態だったのです。
 ザリガニが大量にいる事を知りつつも、速い流れの水のため諦めていた用水路も水が少なく、流れが弱くなり、取り放題。まさに取り放題なのです。

 そんなわけで大量のザリガニをバケツに入れ、ホクホク顔で家に帰る途中、学校の横を通った時の事です。
 「プール今年は入れなくて残念だったね。なーんて話をしていると、どちらともなく、プール、のぞいてみようか。」という事になり、私たちはフェンスをよじ登り、中に入る事にしました。
 そこには膝ぐらいの雨水が溜まったプールがありました。
 それをじっと見ていると、どうしてもそれが巨大な水槽にしか見えなくなり、バケツのザリガニを放してみました。
 しかし、25mのプールにバケツ2杯分のザリガニでは物足りません。
 そこで、「もっともっとザリガニを捕まえてきて、このプールをザリガニ牧場にするのだという話をして、僕とM君の2人は夏休みの間中ザリガニを獲ってはプールに放し、ザリガニを獲ってはプールに放すといった作業を繰り返しました。

 そして2学期が始まり、9月、10月のうちはザリガニ牧場の将来について2人で熱く語り、エサとして牛乳とパンをフェンスの外から投げ入れたりしてよく面倒を見ていたのですが、冬にもなるとたまに思い出してはパンを投げ入れるぐらいで、その事はだんだん私たちの記憶から忘れ去られていきました。

 そして春、私たちは4年生になり、さらに6月、土曜日の放課後、先生たちが何やら真剣な顔をして話をしています。
 聞いてみると、「プール清掃しようとして水を抜いていたんだが、何かが詰まっている。」というではありませんか。
 思い出しました。
 あの夏の事、あのザリガニ牧場の事。
 慌ててM君に声をかけプールに行ってみると、そこには数人の先生と噂を聞いてきた20人ぐらいの生徒がいます。
 プールを見ると既に水はあと半分ぐらい。でも水は濁っていて底は見えません。
 しかし、水は少しずつ減っているようにも見えました。
 それをM君と見ながら、
 「多分、あれだね。」「そうだね。」
 「けど、あれは死んでる。」「そうだね。」
 なんて話をしていると、出てきました。
 出てきました、あの赤いやつ。
 死んでませんでした。
 生きてました、そして増えてました。
 どう見ても私たちが放した数より1.5倍から2倍にはなっている様子です。
 どうやらプールでの生活はわりかし快適だったようです。
 しかしエサは足りなかったようで、生きているザリガニと同じぐらいの数の共食いされたと思われる跡のある死骸もありました。
 私とM君はその場を黙って立ち去りました。

 その後の話は聞きずてですが、そのザリガニは先生たちの手によりスコップで取り除かれる事になっていました。
 そして月曜、全校朝礼での校長先生の話は衝撃的なものでした。
 内容を簡単に書くと、「恐らく推測されるに、去年の夏休みぐらいの事、いたずらでプールにザリガニを入れた奴がいる。その犯人が素直に名乗り出るまではプールは中止。」というものでした。
 朝礼が終わり教室に帰ってくると、クラスの皆が口々に「犯人はお前とMじゃねーの?」なんて言ってきます。
 「なんで?そんなわけねーじゃん。だって、でも、でも、どうしてそう思うのかな?」と聞いてみると、
 「だってさ、2人ともザリガニ取るの上手いし、くっだらないいたずらがあると何かしらからんでるし、それに言ってたじゃん。犯人はかなりの数に分けてザリガニを運び入れたはずだって。てことは、去年の校内夏休み日焼けコンテストで優勝したぐらい真っ黒になってた、お前らじゃん!」ということでした。
 びっくりです。どれも目茶苦茶当たりです。
 けど私たちは黙ってました。
 そして本当にその年もプールの授業はありませんでした。
 あの年、ちょうど2年ぶりのプールの授業を楽しみにしていた全校生徒1200人の皆さん、本当に本当にすいませんでした。
 犯人はやっぱり私でした。
 伊集院さん、皆の楽しみを奪ってしまった私は大丈夫ですか?大丈夫なんですか?

 後日談も書きますが、卒業式の日に当時の担任から実はあの夏に私たちがちょくちょく学校に出入りしていた事は知っていて、何をしていたかはわからないでいて、ザリガニがプールから無数出てきた時に、かなりの確率で私たちが犯人だと疑っていたのですが、生徒を初めから疑うのは良くないとあの方法を採ったそうです。
 その時も、「本当にあなたたちじゃなかったの?」と聞かれ、もちろん「違います」と答えていたのです。

 (PN:黙秘する者)


 あれは私が小学校5年の時のバレンタインデーの事です。
 バレンタインデーの2日後に引っ越す事が決まっていた私は、準備に忙しく、大好きな隣のクラスのY君に渡すチョコを作れずに、仕方なくスーパーで買ったチョコを持って登校しました。

 隣のクラスが体育の着替えでいなくなった昼休みの終わり、私はこっそりとクラスに忍び込みました。
 ここのクラスの生徒はもちろん、私のクラスの生徒も皆校庭で遊んでいていません。
 私はそっとY君の手提げカバンの中を見ました。
 彼は顔も良くスポーツも万能で、それはそれはモテモテでした。そんな彼だけあって、既にランドセルに一杯。そして手提げにもチョコが5個入っていました。
 この中でも一際目を引く箱がありました。私のクラスのSさんの物でした。大きな箱を綺麗な包装紙で包み、豪華なリボンが飾ってありました。
 それを見た私は自分のチョコを入れるのをためらいました。スーパーで買った物などで、小さくて包装も簡単でした。

 どうしようか悩んでいる時、ふと見るとSさんの箱のリボンの所にカードが挟んでありました。抜き取り読んでいました。
 そこには、Sさんの可愛い文字で「私が作りました。食べて下さい。」と書いてありました。
 私はますます焦りました。以前Y君が「家庭的な娘が好き」と言った事を思い出したからです。
 「どうしよう、負けちゃう。」
 もはや私の頭の中には、Sさんのチョコの事しかありませんでした。
 今考えれば、他のたくさんのチョコも私のと大して変わらなかったはずですが、混乱した私は自分のが一番カスに、みじめに見えていたのです。
 そしてパニック状態の私は、手に持っていたSさんのカードを自分のポケットにしまい、自分のカードをSさんの箱のリボンに挟んでしまいました。自分のチョコは持ち帰りました。

 家に帰り、ランドセルから自分のチョコとSさんのカードを机の上に並べ、罪悪感にさいなまれながら荷物の整理をしていると、電話のベル。
 母が「Y君ていう人から電話よ。」
 妙な期待と不安を抱きながら、私は電話に出ました。
 Y君「あ、もしもし、俺、Y。」
 私「ん、なに?」
 Y君「あのさ、チョコくれただろ?あ、あれ、カードにさ、お前の名前書いてあんだけど、チョコにはさ、ホワイトチョコで『H▽K』(▽=ハート)って書いてあったんだよ。Hは俺の名前だろ?Kって何?お前の名前はAじゃん。」

 その後の事はあまりよく憶えていません。
 多分、アルファベットの綴りを間違えたとか答えたと思います。
 もちろんそこにある『K』というのは、Sさんの名前です。
 私の名前はAなのでどう考えても間違えるはずはありません。

 次の日、お別れ会をしてもらうために登校しましたが、Y君とは顔を合わさずそのまま転校しました。
 Sさんは何も知らないようで、心温まる別れの手紙と、「昨日のバレンタインの時についでに作ったやつで本当に悪いんだけど」と手作りチョコレートをプレゼントしてくれました。
 開けてみるとそこには、チョコレートの上にホワイトチョコで『A&K』と書いてありました。
 帰り道、私はずーっと泣いていました。

 あれから6年経ちました。これを書いている今日は2月の14日です。
 一応今付き合っている彼にチョコをあげましたが、手作りチョコを見るといやーな気持ちになるので、作ってません。
 これから先も作るつもりはありません。
 伊集院さん、恋というのはこういうものだと言って下さい。

 (PN:ニセ警官)

 98.2.9 放送 (第122回)  
 あれは私が6つか7つの頃の事だと思います。
 季節は春。とてもよい季節でした。多分、家族が全員家にいたことから、日曜日だったと思います。
 私は母親と一緒に庭の植木や花に水をあげていました。花は、それは美しく咲いていました。その光景はのどかで美しい日曜日の親子の姿に映ったことでしょう。
 すると縁側でそれを見ていた弟が「僕もやる」と言って走り寄ってきました。
 私は弟に小さいほうのじょうろを手渡し、母親の使っていた大きなアルミのじょうろを貸してもらって、2人で仲良く花に水をあげていました。

 少しして、母親は家の中に入っていきました。その時、既に私と弟は花に水をあげる行為に飽き、水遊びを始めていました。
 その時、私の持っていたアルミのじょうろから注ぎ出される水から虹が。
 「めったに見ることの出来ない虹が、今僕の手で作り出されている。」
 そう思った私は弟を呼び寄せ、「見ててみな。」と得意げに弟にもそれを見せてあげました。
 弟も「うわぁ、すごい!」と目を輝かせました。
 弟のその反応と虹の作り方を発見してしまった事にすっかり興奮してしまった私は、「こんなちっちゃいのじゃなくて、もっと大きな虹を作って、弟をもっともっと喜ばせてやれと思い、アルミのじょうろを持ったまま、体ごと大回転を始めました。
 アクションが大きいと結果も大きくなると思ったんでしょうか、私は。私を軸にじょうろの水はスプリンクラーのように庭中に飛び散りました。
 しかし、確かに虹は出来るのですが形も大きさもさっきと変わらず、4分の1バームクーヘンのような形にしかなりません。私の頭の中に描かれた2分の1バームクーヘンのような、正統派虹の形にはなりません。
 私はグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグル回り続けました。

 回りながら弟を見ると、彼は既に虹の存在を忘れ、円を描き飛び散る水に心を奪われていたようでした。
 そして「僕もやるー!」と言い出し、私の方に近寄ってきました。私はまだ回り続けていました。
 私を軸とした円の一番外側には、アルミのじょうろがあります。
 「危ない、来ちゃダメだ!」と私が回りながら言った時、私の視界の隅に何かに弾き飛ばされたように倒れ込む弟の姿が映りました。
 何が起こったのかも事の重大さも、遠くから響いてきたサイレンのような弟の泣き声から理解できました。
 弟のおでこ左上から赤い液体がポタポタと落ちています。伊集院さんおっしゃる所の、頭血(ずぢ)です。
 すぐに私はアルミのじょうろを投げ出していました。視線だけは弟から離しませんでした。

 「だ、だ、だ、大丈夫!?」
 走り寄って弟のおでこを見ると、パックリと切れていました。そこからドクドクと頭血が。
 私も半泣きになり、縁側からタオルを取ってきてそれで傷口を押さえ、そのまま固まった状態で「お母さん、お母さん!」と叫び続けました。
 もちろんそこは家の庭なのですぐに両親は来てくれました。まず消毒をして弟は父に連れられ病院に行きました。弟が帰ってくるまで私は縁側に座り込んでいたと思います。
 その間母が何か言っていたような気もしますが憶えてはいません。

 1時間ほどで父と弟は帰ってきました。おでこの傷は2、3針縫ったようでしたが帰ってきた時点で弟は笑っていました。
 私はまだ縁側から動けずにいました。
 祖母が「もうそんなとこに座ってないでいいから、庭のじょうろを片づけてあっちの部屋に行こうね」みたいことを言いました。
 そう、庭にはあのアルミのじょうろが転がったままだったのです。じょうろの片付けを命じられても、私はあれにもう2度と触りたくなかった。
 頑なに片付けを嫌がっている私に、祖母は「しょうがない」とじょうろを片付けてくれました。
 そしてその事件は一段落しました。私に『じょうろ嫌い』という症状を残して。

 その後、小学校の飼育係等の仕事に就いても、一切じょうろには触れず、水関係の仕事は敬遠するようになりました。
 どんなおもちゃっぽいやつでも、じょうろを見るだけであの日のかすかな手応えと、弟のおでこの傷がフラッシュバックするのです。これから一生じょうろを使わずに生きていく自信はありません。

 どうだろう伊集院さん、私はじょうろの呪縛から逃げる事ができるのでしょうか?

 (PN:るまた)


 僕の通っていた小学校は、小さな小さな学校で、同級生は15人、男6人、女9人だけでした。
 そして、そんな仲間たちと小学校4年生の時、社会科見学で市内巡りをしていた時の事でした。
 市内巡りとはいってもとりわけ見たいような所もなく、ワイワイガヤガヤバスの中で騒いでいるのが楽しいような社会科見学だったのですが、最後のほうになって担任が皆、S先生に会いたくない?」と言ってきました。
 S先生というのは若い女の先生で、皆から好かれており、もちろん僕も大好きでした。
 でもその頃S先生は産休でしばらく学校を休んでいて、久しぶりに会えるのだと思うと嬉しくて「会いたい、会いたい」と15人皆口々に叫びました。
 先生も自分の思い付いた粋な計らいが生徒に喜ばれたのに満足げで、早速S先生の家にバスは向かいました。

 S先生の家に着いた僕らは、玄関前で「S先生、こんにちはー。」と言うと、ちょっと間を置いて先生は出てきました。
 赤ちゃんにおっぱいを与えながら。
 小学校4年生の僕は、その事態を冷静に判断し、「単に母親が赤ちゃんに母乳を与えているのだ、単に母親が赤ちゃんに母乳を与えている当たり前な風景なのだ」と割り切れるほど大人ではありません。
 ちょうど『エロ』というものが分かり始めた小4の男子にとって、それは大好きな先生がおっぱいを放り出している姿にしか見えませんでした。

 女子全員と男子のうちの2人だけが先生に寄っていき、「あー、かわいい赤ちゃん。」などとまるでおっぱいは見えない様子で話していましたが、残りの男子4人は僕と同じで恥ずかしいのと女子に何か白い目で見られそうな強迫観念で、先生に近づく事が出来ません。
 隅のほうに固まってどうでもいいような事をどうでもよく話していました。
 時間にして5分ぐらい経った頃でしょうか、そろそろ学校へ帰る事になりバスに乗り込みました。
 バスに乗った後も皆は窓から「先生さよーならー」と言っていましたが、その時もまだ先生はおっぱいを出しっぱなしにしていたので、僕ら4人は今さら先生を見る事は出来ません。
 そのままバスは静かに出発しました。

 しばらくバスが走ると、担任の先生が鬼のような顔をしてバスの後ろに陣取っていた僕ら4人の所にやってました。
 「何なの、何なの?あの態度は。S先生だってね、皆に会えるって楽しみにしてたのよ。それを先生を無視して、隅のほうに固まって、さよならの挨拶もしなかったでしょ。何考えてるのよあんたたちは!」
 何を考えてるのなどと言われても、「おっぱいいっぱい」なんてことを答えられるはずはございません。
 皆黙っていると、先生はヒステリックに僕らの顔が吹っ飛ぶぐらいのビンタをお見舞いして前の席に戻りました。
 その時、女子は「何となく私たちにも理由は分かっているのよ」的な感じで哀れな僕らを見ているように感じてなりませんでした。
 バスはそのまま僕らしょぼくれ4人衆と前のほうで無理して盛り上がっている様子の女子達を乗せて学校に向かいました。

 学校帰り、帰り道が一緒だったK君と自宅近くに捨てられていたエロブックを読み漁り、その日のエロ体験をどうにか上書きして消そうと思いましたが、何ヶ月か後に産休を終えて帰ってきた佐藤先生の目は見れませんでした。

 伊集院さん、その小学校で2000年に開ける予定のタイムカプセルがあり、その時僕は22歳の青年としてまたS先生と会う事になるんですが、大丈夫なんですか?

 (PN:水曜日のうなじ)
 98.2.2 放送 (第121回)  
 これは私が8歳の時の事です。
 私には3歳になる、近所でも可愛らしい可愛らしいと人気者の弟がいました。キコキコとペダル式の子供車を爆走させるその弟は、ペットのゴマダラカミキリを心の友とする私の目から見ても、とても可愛らしい幼児でした。
 がしかし、弟が産まれるまでの5年間、末っ子という立場により親に一番甘える事の出来た私にとって、この愛らしい弟は敵でした。
 そんな私の心を感じ取ったのでしょうか、弟も私にはさっぱりなつかず、他の家族には紙風船をポーンと放り投げてくるのに、私にはブリキの消防自動車をガツンと叩き付けるといった、無邪気ながらも敵対心丸出しの対応をしてくれました。

 そんなある日の事、事件は起こりました。私と弟の不仲に心を痛めていた母が、私にこう言いました。
 「あんまり弟の事を嫌ってると、弟をおじさんの家にあげちゃうからね!」
 これを聞いた私は、喜びました。
 喜んで喜んで喜びぬいて、弟の引越しの準備を始めました。
 8歳といえば分別盛りです。この母のうそくさいセリフを本気にしてしまった私は大はしゃぎです。
 「お手伝いするー。」と言って押し入れの奥から父の旅行カバンを引きずり出し、ベビーダンスの洋服を次から次へと詰め込みました。

 その後の事はあまりよく憶えていません。
 憶えているのは泣きながら私というダメ人間に対する将来の不安を延々と語る母の隣で、カバンの中身をタンスに仕舞い直した事です。
 このような事もあり、結局今日まで弟との仲は改善されず、たまに顔を合わせると青アザを伴うじゃれ合いをしています。
 伊集院さん、こんなあたしゃ大丈夫なのかい?

 (PN:うそ書類)


 小学校2年生の頃、学校帰りはいつも線路沿いの道を通っていました。
 地方に住んでいる人なら分かると思いますが、路線は結構近道だったりするんですよ。当時線路は子供が通ってはいけない道、大人だけが通る事を許された道だと僕は思っていました。でも、大人に見つからないようにいつもいつも通っていました。
 あの日もいつものようにH君と僕、K君と3人でスタンドバイミーよろしく線路をてくてく歩いていました。

 すると、何を思ったのか僕は「なあ、線路に何か置こうぜ。」と2人をけしかけ、禁断の遊びに手を出してしまったのです。
 最初は消しゴムと鉛筆。
 遠くで鉄橋を渡る下り電車の音がしたので、「早く、早く隠れろ!」
 3人で線路の盛り土の下で伏せて待ちました。
 ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ゴーッという音と共に電車が過ぎると、そこにはさっきまで消しゴムと鉛筆だった物が、グシャグシャに。
 面白くなった僕は、「ねえねえ、次何する?」と言うと、H君が「ガチャのカプセル。」「それと釘行こうぜ釘。」3人で再びワクワクしながら待ちました。
 そして今度は上り電車が来て、全てを目茶苦茶にして通り過ぎました。

 調子に乗った僕らは誰からでもなく、「石置こうぜ。石。ちっちゃいやつなら大丈夫だよ、平気だよ、多分。」と言い出し、3人で考えた結果、親指ぐらいのなら平気、だって相手は電車だし、という結論が。
 早速トライ。3人で伏せて待つと、10分後ぐらいにまた上りの電車が来ました。「皆伏せろ!」僕が言うと、ガタンゴトンガタンゴトン、ガツーン。
 電車が過ぎると線路には何も残ってなく、石は砕け散って跡形もなく飛び散っていたのです。
 僕は「すっげーよ!粉々だよ!石なのに、石なのに、電車だから。」と。

 「今度はもっとデカいのにしようよ。」
 K君が「どのぐらいの大きさがいいかな?」と言うとH君、「握りこぶしじゃないの?」
 3人で手頃な石を見つけ、電車を待ちました。しかし電車はなかなか来ません。「電車来ないね。」「うん、来ないね。」「もう帰ろうか?」H君が言った時、遠くで小さく、コーガタッガタッ、ガタッガタッ、ガタッガタッ、ガタッガタッという下り電車が鉄橋を渡る音が。
 やがて、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン。
 大きくなり、ついには列車が、
 ガタンゴトンガタンゴトンガタンゴトンガタンゴトンガタンゴトンガタンゴトンゴーッ、ガツン。
 電車は無事通過。

 「やったぜ!」僕は思い、振り返ると、K君が頭を抱えて仰向けになっています。
 「うーわぁっ!!」
 「どうしたの!」「どうしたの!」
 H君と2人で声をかけると、K君の頭からどす黒い物がテローリと。
 どうやら破片がK君を直撃したらしく、K君が「ってぇ、ってぇ。」と起き上がると、手にべったりと血が。
 僕は「K君が死んじゃう、死んじゃう!」とH君に言うと、H君は「へ、へいき、へ、へいきだよ。だって、だって、動いてんじゃん。ね、K動いてるしさ。」と僕に返しました。
 子供にとっての頭血は、「もう助からない」を意味していました。
 でもK君は痛がっているだけで、全然死ぬ様子はなかったので、僕は3人で近所に1軒しかないお医者さんに行きました。
 すると医者が「こりゃだめだ、大学病院に行かなきゃ。」慌てています。
 K君はタクシーで連れて行かれました。

 その晩、僕とH君は親、学校、警察、国鉄関係らしき人、その他大勢の知らない人たちに怒られました。
 K君は頭を何針か縫うだけでしたが、K君の両親が「こんな所に子供は置いていけない。」
 すぐに引越しする事になり、それ以来K君を見てはいません。Kとはいまだに音信不通です。
 こんな僕は、大丈夫なんでしょうか?

 P.S.今でも線路の近くを歩くと嫌な気分になります。『電車でGO!』も嫌いです。

 (PN:ロッキー上院議員)
 98.1.26 放送 (第120回)  
 あれは小学校1年生の事だったと思います。
 アサガオを育てる授業を理科の時間にやっていた頃です。クラス全員1人1つずつアサガオの種を4月に植えました。
 一週間ほどすると、半分ぐらいの人のアサガオの種が発芽しました。
 遅くとも3週間もすると全員のあさがおが芽を出しました。…僕以外の。
 僕は普通の人と同じように植えましたし、同じように育てました。なのに、芽は出ませんでした。
 周りの人は面白半分に「お前の性格が悪いからだよ」とか「お前種裏で食べたんじゃねーの?」とか茶化してきます。
 先生は「少し発芽するのが遅くなってるけど、もうすぐ出るわよ。」と言ってくれました。
 しかし、1ヶ月しても僕のだけ発芽しません。
 周りの子はというと、アサガオがすくすく伸びて、15cmほどになっています。
 理科の時間に観察絵日記というのを付けますが、僕は毎日土だけを描いていました。

 ここまで来ると精神的に辛くなり、親に話すと「そう、それはね、きっと種が悪かったのよ。」と言い、買い物のついでに種を買ってきてくれました。
 それを学校に持って早く行き、こっそり植えました。
 そして1週間後、芽が出ました。僕は精神的に解放されました。
 2ヶ月後、何か皆と違うような感じがしてきました。
 3ヶ月後、僕の芽からはつるが出ません。
 4ヶ月後、花が咲きました。ホウセンカの。
 簡単な理由です。親がアサガオとホウセンカを間違えたんです。
 僕は周りの人からからかわれ、先生も「どういうこと?」と聞いてきました。僕は答えませんでした。
 そして先生は全てを覚ったらしく、頭をなでてくれました。
 僕は先生に頭をなでられている途中、急に走り出し、自分のホウセンカを引き抜きました。
 伊集院さん、まずここまでは大丈夫でしょうか?

 その後、クラス全員のアサガオを抜きました。
 一転して先生は怒りました。クラスの皆は冷たーい目で僕を見ていました。
 今でもその事を思い出すと、髪の毛をむしり取りたくなります。
 伊集院さん、総合で大丈夫なんでしょうか?

 (PN:食物連鎖)


 僕が小学校4年生の8月のある日、親友のSと一緒に探検ごっこをする事にしました。
 いいターゲットはないかと会議した結果、僕の家のすぐそばに、その当時建てられたばかりの家があり、ここに行く事にしました。
 この家はほんの2日ほど前に完成したばかりの家でまだ誰も住んでいなく、探検するには格好の場所です。
 早速、僕とSはその家に行って、ドアを開けようとしました。が、当然鍵がかかっていて開きません。
 仕方なく、その家の庭で立ちションベンをしたり、家の壁にチョークで描いたライオンを倒すフリをしたりして遊んでいました。

 しばらくするとSが「隊長、隊長!」と呼びました。
 行ってみると、「隊長、ここにドアがあります!」と叫んでいます。
 見ると、その家の裏にもう1つ、子供なら入れるぐらいの小さなドアがあります。しかもそのドアには鍵がかかっていません。
 もちろん入りました。探検隊ですから。
 どうもそこは地下倉庫のようでした。
 僕とSはちょっとがっかりしたのですが、そこは探検隊。きっと、隠し扉などあるはずです。
 そこで、周りをドンドン叩いてみると、天井が持ち上がるではありませんか。
 もちろん入りました。探検隊ですから。
 天井に上がって移動すると、また開きそうな所があります。その天井を開けるとそこは家の中でした。
 僕らはもう大はしゃぎで家の中を探検探検探検し続けました。

 しかし、8月の締め切った家の中はとても暑く、5分もしないうちに2人は喉がカラカラになってきました。
 台所で水を飲もうという事になりましたが、いくら蛇口を回しても水が出ません。
 まだ建ったばかりなので、水道が出ないのは当たり前なのですが、僕とS君はそれを「これは、我が探検隊に神が与えた試練だ!」と思い、「S、水を探せ!」「ラジャー!」「水がなければ我々は死あるのみだ!」「ラジャー!」などと叫び、風呂や洗面所の水道の蛇口を回しましたが、結局水は出ませんでした。
 もう水が飲みたくて仕方なくなった僕とS君は、「ここにいては、我々はミイラになる。」などと訳の分からない事を言いながらまた床下から抜け出して僕の家に行き、冷蔵庫にあったジュースを飲みました。

 それから2日後の夕飯時、うちの母親が「この前建った家なんだけどね、今日の午後、お家を買おうと思って見学に来た人がドアを開けたら、家の中が水浸しなんだって。水が20cmぐらいあって、調べたら、家の中の水道という水道の蛇口がみんな全開になってて、すぐ水を汲み出したんだけど、床はボロボロでシミが取れないらしいわよ。」

 僕だ。それは僕だ。僕だ。

 そうです。僕とS君が開けっ放しにしておいた水道は、あれから水が通るようになったらしく、誰も知らないうちに1日中水が出ていたらしいのです。
 母親も僕の変化に気付いたらしく、「どうしたの?何かあったの?」と聞いてきました。
 言ったら警察に捕まって死刑だし、僕は「別に。」とごまかして自分の部屋に行き、布団に頭を突っ込んで「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。」と聞かれないように泣きました。
 結局あの事件は家に鍵がかかっていた事から、工事をした人の不手際という事になったらしく、そこからちょっと遠い所に住んでいたSは、知らずに済んだようです。

 あれから10年経ちました。
 その家の床のシミはまだ取れていません。
 そこに引っ越してきたご夫妻とは目を合わす事もできません。
 伊集院さん、僕は大丈夫なんですか?

 (PN:50m15秒)
 98.1.19 放送 (第119回)  
 あれは、小学校3年の時の事です。
 先生が「クラスで昆虫を飼おう」と言い出しました。
 当時僕は生き物係だったので、全てを任されていましたが、何を飼えばいいか分からなかったので、とりあえず昼休みに皆で虫を捕まえに行く事にしました。男女バラバラで好きな虫を捕まえに行きました。
 僕の中で虫の王様はカマキリだったので、カマキリだけを探して、僕は他の虫には目もくれませんでした。
 昼休みが終わる頃に虫を採り終えて教室に戻り、捕まえた虫を水槽の中に草と一緒に入れる事にしました。
 男子はバッタやトンボを、女子はアゲハチョウを水槽に入れました。
 アゲハはクラス中で大人気になり、バッタやトンボは相手にされていません。
 もちろん、僕の捕まえた3匹のカマキリもアゲハの人気にはかないませんでした。
 そうこうしているうちに5時間目が始まり、皆で席に着きました。

 しばらくして退屈していた僕は、教科書をパラパラめくっていると、カラーページにカマキリの写真がありました。
 「おおっ」と思った僕は、その写真を良く見ると、そこには無気味な笑いをしながらアゲハチョウを鷲づかみにして食い殺しているカマキリの姿がありました。

 「…まさかー!!」

 と思った僕は、次の休み時間になると半泣きで走って水槽に行っていました。

 全滅でした。

 水槽にはさっきまでトンボだった物と、元バッタ、アゲハの羽。
 そして3匹の侍。
 大惨事を一目で理解した僕は、女子が来る前にその場から逃げました。
 ランドセルをしょって家まで逃げました。

 次の日、学校に行った僕に付いたあだ名は『アゲハ殺し』アンド『カマキリ使い』でした。
 女子全員から白い目で見られ、味方してくれる男子もいませんでした。
 なぜか先生にも怒られ、その日の夕暮れ、校舎裏で一人泣きながらカマキリに殺された虫たちの墓を作りました。

 この日以来、カマキリを見るととても嫌な気分になるようになりました。
 10年経った今でも、カマキリの卵はむしり取る事にしています。

 (PN:コリモツ紳士 18歳)


 僕がスイミングスクールに通っていた小5のある日、送迎バスがルート変更する事になり、違う小学校の人達が同じバスに乗る事になりました。
 僕は人見知りをする方だったのですが、2ヶ月もすると同い年のA君とは仲良くなりました。僕はAの家に遊びに行くようにまでなりました。

 そんなある日、送迎バスの巡回ルートの関係で、僕の町内は最後、Aの町内は最後から2番目に降りる事になっていて、そのため男子の最後はいつも僕たち2人だけになるので、毎回バスの一番後ろに座っていました。
 ふと前に目をやると、以前から気になっていたのですが、前の方に女子が1人座っているのです。
 その顔を見て、僕は笑い出しそうになってしまいました。
 そいつは髪型はブロッコリーのようで、顔は一言では言いきれないのですが、何と言えばいいのかと責められれば、「岩です。」と言う他ありませんでした。
 僕はAに「なぁなぁ、見てみろよ前にいるあの女。岩。岩。」と言いました。
 A君は前を向き、その女を見た後僕の方に向き直って言いました。

 「あれ、姉ちゃん。」

 その直後バスが止まり、Aと岩改めAの姉さんはバスを降りていきました。

 あれから6年、Aとは口を利いてません。
 伊集院、どーなのよ?

 (PN:紅茶ダンス)


 忘れもしない、小学校5年生の運動会の事でした。
 僕は年に1度の運動会が大の楽しみでした。なぜなら、足の速い僕は毎年運動会の花形であるリレーの選手に必ず選ばれるからです。
 その年ももちろん選ばれました。
 リレーは運動会で一番盛り上がる種目であることから、事前に何度も予行練習を繰り返すのですが、余りの強さに僕のいるチームは予行練習では大差を付けて連戦連勝。
 前日のチームミーティングで6年生のアンカーが「今年のリレーもらったな。っちゅうか、俺たちのチームってさあ、強すぎてまずいよな。おい、たかし。お前速すぎるからちょっと手抜け。」
 冗談でこんな事を言い出すほどでした。

 そして当日、運動会は順調に進み、いよいよ最後の大トリ、紅白対抗リレーの番です。
 赤対白の点数差は僅か15点。リレーの勝利点は30点ですから、白である僕のチームが勝てば劇的な大逆転勝利です。
 案の定僕は1位でバトンをもらい、風を切って走り出しました。2位との差はかなり開いています。
 走っている間、ふと、あの6年生の言葉を思い出しました。
 そしてその時僕は何を思ったのか、突然走るのを止め、歩き出してしまいました。まさに『ウサギとカメ』をやってしまったのです。
 差のほとんど無い状態でドラマチックにアンカーにバトンを渡し、僕の役目を終えました。

 ところが、アンカーの6年生があっさり抜かれ、結局負けてしまったのです。
 その後、勝利を確信していた白組全員から文字通り白い目で見られ、最高に盛り上がる場面を台無しにしたという事で先生からこっぴどく叱られ、泣く泣く家に帰る途中、あのアンカーの6年生からお呼びがかかり、俺が抜かされて恥をかかされたのはお前のせいだとばかりにボコボコ殴られました。
 僕は泣いていました。

 次の日の学校はショックで休みましたが、その次の日に嫌々登校すると、僕のあだ名は『手抜き』でした。

 僕は大丈夫だと思うんですが。
 思うんですが。
 思うんですが。

 (ラジオネーム:ボケ殺し)
 98.1.12 放送 (第118回)  
 確か小学校3年生の時、その頃爆発的の大ヒットになったドラクエ3を一目見ようと、友達T君の家に自転車で30分かけて行きました。
 「おじゃましまーす。」そう言いながらT君の部屋に行くと、T君とT君のお父さんとT君の高校生のお兄さんの3人が目を血走らせながらテレビに熱い視線を送っていました。
 「あっ、いらっしゃい。」僕に気付いたTが言いました。
 「今やってんの、ドラクエ?ドラクエ3?」Tは100万ドルの笑顔で僕に微笑みかけました。
 しばらく見ていると、Tの兄が「友人と約束があるから」と部屋を出て行き、続いて父親も「子供たち(僕ら)の邪魔になるから」と部屋を出て行きました。
 T君と2人になった僕は、開放感からかTにあれこれドラクエについて聞きまくっていました。
 またしばらくするとT君が「ちょっとトイレに行ってくる。あと、ついでに飲み物も持ってくるよ。ゲーム、このまま付けっぱなしにしておくけど、セーブが消えちゃうから絶対触っちゃ駄目だよ。絶対触っちゃ駄目だよ。絶対触っちゃ駄目だよ。絶対だよ。」と言い残し、部屋を出て行きました。

 部屋に一人きりの僕。そして目の前には憧れのドラクエ3。僕は黙って見ている事ができませんでした。
 「ちょっと動かすくらいならね。」そう思いコントローラーを取り、おもむろに勇者を動かしました。
 すると、画面が急に暗くなりました。敵です。僕は焦りました。何をしていいのか分かりません。パニックになりました。ただひたすらにAボタンを押し続けていました。
 「やばいやばいどうしよう、どうしよう」と思っているうちに、やがて画面は白い文字からオレンジの文字、そして真っ赤な文字へと変わっていったのです。
 『勇者は全滅しました』というような、よくは思い出せませんが、そのようなことが書かれた画面を見て僕はただただ愕然としていました。
 その時です。僕に1つのアイデアが浮かんだんです。
 「ドアから入ってきたTに足をかけて転ばせて、ファミコンにジュースをこぼさせれば…。そしたら僕がいじった事はバレない。」
 思った途端、本棚から漫画を取り出し、寝転んでTが来るのを待ちました。
 「お待たせ。」ドアを開けて入ってきたTに僕は足を上手く絡ませました。
 ドカン、ビシャーッ。
 コップの中のファンタとコーラは見事ドラクエとゲームに命中。同時にゲーム画面は「ビー」という音と、何か色んな文字が出ました。
 画面を見つめて、Tは動きませんでした。
 僕は「病院に行くから」とバレバレの嘘を残し、Tの家を去りました。
 その後、ドラクエがどうなったのか分かりませんが、次の日学校に来たTが兄にやられたのか、体中アザだらけだったのをよく憶えています。
 その日以来、Tはドラクエの自慢を全くしなくなりました。今でもたまにTとは本屋などで会いますが、顔を合わせるとTは嫌な顔をして出て行きます。
 伊集院さん、伊集院さん?俺ダイジョブ?

 (PN:つのだひろし)


 私が幼児期の頃の話です。小さい時の記憶のため、断片的なものでしかないのですが、確かこんな事があった事を憶えています。
 小さい頃の私はヒーローへの憧れが人一倍強く、当時自分自身が仮面ライダーだと思い込んでいました。
 ところがある夜、イナヅマンの乗っている車の超合金発売というテレビCMがやっていました。
 それはそれは凄い物で、車の前面からはミサイルが2発も発射され、さらにクワガタの角のような物が車の下からニョッキリ出ていて、敵を挟みこらしめるといったような物で、それを見て「うわぁ、本物と同じじゃん。」猛烈に欲しくなりました。そりゃあ仮面ライダーな私でも、イナヅマンの車は欲しくなりました。
 父にねだると「ようし、明日の日曜日に一緒に買いに行こう。」と言ってくれました。
 その時の私の喜びようは大変なもので、その夜は遠足前夜のように中々眠れないほどでした。

 そして日曜、イナヅマンの事で頭が一杯の私は、急いで朝食を済ませ、出かける支度をし、父の部屋に行く。
 ところが、どうも私の期待した雰囲気とは違います。父は体の具合が悪いという事です。母が私にそう言って今日の買い物の中止を告げています。確かに父は苦しそうにしていたような気がします。
 ですが心は既にデパートのおもちゃ売場に出発してしまっている私は、納得できません。
 が、これ以上ゴネると母に怒られそうだったので、しょんぼり自分の部屋に戻りました。

 そして日も高くなり、何の気無しにテレビを見ていると、父が「あ、少し具合が良くなった。」と縁側でひなたぼっこを始めました。
 「よし、これでデパートに行ける。」と思い、私は父にその旨を言うと、「あー、いやいや。やっぱり、来週にしてくれ。」と言ってきます。

 その瞬間、私はキレていました。
 そして父に対して、

 「ライダーキック!」

 キックを入れてしまいました。
 するとどうでしょう、柔道二段の父が両膝を付いて「く」の字になり苦しんでいます。
 私は父の苦しそうなうめき声を聞きながら、「やっぱりライダーキックはすげぇや。」と仮面ライダーの決め技の威力の凄まじさに感嘆しつつ、「どうだ!」と一喝ポーズを取っていると、それを見た母が驚いて駆け付け、父を介抱し始めました。
 こりゃ冗談ではなさそうです。本気で苦しんでいます。
 しかし、ライダーキックを決めた手前、ライダーとして決められた相手を気遣うわけにもいきません。
 しばらくすると父の具合は良くなり、「デパートに行くか。ごめんな、約束だもんな。」と言ってくれました。私の気持ちがやっと伝わったようです。
 父の体の事など頭に無い私は素直に喜びましたが、母は父を心配し、止めていた事をよく憶えています。

 結局家族4人で出かける事になり、無事イナヅマンの車を買ってもらえました。
 今度は一刻も早く家に帰ってイナヅマンごっこをしたい気持ちで一杯です。
 そう思っていると、母は姉に父の具合はやっぱりおかしいので病院に行ってくるとそう言い、私は姉に連れられ2人で家に帰りました。
 私が買ってもらった物で遊んでいると、外は暗くなってきました。両親はまだ帰ってきません。
 もう日は暮れ、夕食時に、しかも私はイナヅマンなので平気ですが、電話が鳴りました。
 姉が受話器を取り何やら話しています。父は病気で帰れず、母も今日は帰れないから近所のおばさんの家に泊まらなきゃならないとの事でした。
 私はその時「お父さん病気なの?可哀相だね」ぐらいの感想しかなかった記憶があります。
 姉に連れられおばさんの家に行き、その夜慣れない布団に寝かされました。
 私が思い出せるのはこのへんまでで、この後の事は曖昧な記憶しかありません。

 それから10数年後、私が高校生になった時、姉との会話中例の話になり、あの時父が何の病気だったのか聞いてみると、姉から聞かされる話は私を驚愕させるものばかりでした。
 何でも、あのデパートから私たち子弟が家に帰っている時、父は病院に着く前に発作を起こして倒れて病院に担ぎ込まれ、手術後半年ほど入院。
 そして退院したものの、すぐに会社でまた発作を起こし病院に運ばれ大手術。後2年ほど入退院を繰り返していたとの事。
 話を聞かされている私の右足の裏には、あの時のライダーキックの感触が甦ってきました。
 どう考えてもあのライダーキックと体の不調を押して買いに行った買い物が、父の発作を起こした引き金になっているようにしか思えません。

 その後父は病気を克服し、今ではムカつくほど元気になったのでセーフですが、私は危うく『パパ殺し』という、一生かかっても降ろす事が許されない十字架を背負うとこでした。
 伊集院さん、大丈夫じゃないんですけど「大丈夫」と言って下さい。

 (PN:ロバート・ペニーロ)
 98.1.5 放送 (第117回)  
 あれは、忘れもしない小学校6年生の時、僕は2歳下のS君と一緒に遊んでいました。
 その時僕は不意に運動会のことを思い出し、運動会の時に使った発煙筒がそこいらの花火の何倍も綺麗だということを思い出しました。
 僕はまたあの美しい炎が見たくなり、Sに「知ってる?発煙筒ってすっげぇ綺麗なんだぜ。見たくねぇ?」と言いました。
 Sも「見たい見たい。」と言ったので、僕たちは僕の父の車から2本の発煙筒を手に入れ、少し離れた所にある民家の裏へと行きました。
 そこは結構樹があり、大人には見つかりにくい、火遊びには最適な場所だったのです。僕は発煙筒に火をつけました。それはそれは綺麗な炎でした。
 しかし、元々発煙筒は遭難した時に救援信号を出すもの。ちょっとやそっとじゃ消えません。
 何分経っても消える気配のない発煙筒に飽きた僕は、発煙筒を土の中に埋めることにしました。
 少し煙は出ていましたが、S君は5時までに家に帰らなければならないので、僕も帰ることにしました。

 Sは別れ際に「あれ、本当に大丈夫かなぁ。」と言いました。
 さすがに僕も心配になり、自宅に帰らず現場に戻ることにしました。
 遠くからも、煙が見えました。それは、間違いなく黒煙です。
 僕は全速力で自転車をこぎました。着いた時僕の見たものは、直径1.5mほどのちょっとした火の海でした。
 実は僕が発煙筒にかぶせていたのは土ではなく、枯れ葉だったのです。
 僕は恐ろしくなり逃げようとも思いましたが、さすがにそれはいけないと思い火を消そうとしました。枯れ葉を足で踏んでみたり、近くの田んぼから水をすくってかけたりしましたが、火種は発煙筒。その程度で消えてはいけないものです。
 僕は走りました。そして近所のおばさんに「火事だー!!」と叫びました。
 その後おばさんと周囲の人の協力により、火は鎮火しました。僕の心は安堵感で一杯でした。
 そんな僕の耳に入ってきたのは、遅く駆けつけた消防車のサイレンでした。
 第一発見者の僕は消防士さんに色々聞かれました。僕は本当のことを話せませんでした。そんな事をしたら、死刑だと思ったのです。

 その後僕は火災を発見し、被害を未然に防止したとして消防署と町長さんから感謝状をもらい、その事は写真入りで町の広報誌に掲載されました。
 今でもうちにはその感謝状も広報誌もありますが、破りたいです。
 伊集院さん、ダメっすかねぇ?

 (新潟・PN:紅茶ダンス)


 僕が小学校の頃の自ギャグ体験を聞いて下さい。
 僕は当時動物が大好きな少年でした。学校では飼育委員をやり、わくわく動物ランドや野生の王国などの動物番組を毎週欠かさず楽しみにしていました。

 ある暑い夏の日のことでした。
 私は前日見たムツゴロウとゆかいな仲間たちに大変刺激され、「よし、ミニムツゴロウ王国を作る。」と思い立ちました。
 とはいっても、我が家にいる仲間たち候補はノラ猫が1匹とチャボが20匹。これだけではとても王国とは言えません。
 そこで庭に穴を造り、池を造ってその周辺を王国にすることにしました。
 まず家の裏の川でフナとメダカを合わせて20匹ほど捕まえて池に放し、「よし、これで王国魚部門完成。」としばらく満足してその家を眺めていました。
 しかししばらくすると何か物足りないような気がしてきました。
 「魚だと、触れ合いがないな。」そう思った僕は、名案をひらめきました。
 「そうだ、カエルだ。カエルなら触れ合える。」私はすぐに虫かごを探しました。
 しかし、見つからないので手近にあったウィスキーの大きな瓶を虫カゴ代わりに、近くの田んぼに動物王国の仲間探しに出かけました。
 夏の盛りということもあり、瓶はすぐにカエルで一杯になりました。カエルは少なく見積っても20匹〜30匹にはなっていたので、名前をどうしようかなぁなどと考えながら家に帰りました。

 家に着くとちょうどお昼時でした。
 「ごはんよ。」と祖母に呼ばれ、お腹も空いていた私は「よし、カエルたちを仲間にするのは午後から。」と考えました。
 私は「はーい。」と返事をすると、その仲間達が入った瓶を池の隣に置いて、走って家に入りました。
 父と母は仕事に行っていたので祖母と祖父と私の3人で昼ご飯を食べました。この時王国のことをちょい忘れしていました。

 その後スイカを平らげ、食休みをしていると、プールに行っていた弟が帰ってきました。
 弟は「兄ちゃん、あんなとこに、墓?」と言いました。
 私は何のことかなぁと思っていると、「庭の穴、穴。死体の一杯入った穴だよ。」と言うじゃないですか。
 僕は「さては王国のこと?」と気付き、「違うよ、今、ミニムツゴロウ王国造ってんだよ。穴の中にフナとかメダカとか一杯いるだろ?」と言うと弟は、「うん、いる。けど、水がない。」なんて言うじゃないですか。
 「何言ってんだよ、だって俺さっき見たばっかりだぞ、うそつくな。」と叫ぶと、私は走って行きました。
 さっきと言ってもそれは2時間も前のこと。そしてその時初めより少し水位が下がっていたような気もしてきました。

 私の王国に着いた時、そこに水は一滴もありませんでした。王国のフナやメダカは真っ白い目でこっちを睨んでいます。
 「うわっ、ごめん。今水入れるから。」
 私は半泣きでホースを引いてくると、直径1m、深さ30cmの砂漠に水を注ぎました。
 しかし、既にフナやメダカは二度と泳ぎはしませんでした。
 「うわっ、うわっ!」
 私はパニックになりながらも、まだカエルがいると思い近くの瓶に目をやりました。
 「カエルー、カエルー!!」
 しかし、カエルたちも私に真っ白な目を向けていました。あんなに元気だったカエルたちは動きません。
 その日、日中の気温は30度を超えており、密閉した瓶の中は2時間のうちにマグマの熱さとなっていたのです。
 「あぁ、あぁ、煮えてるぅー!!」
 取り乱した僕は、瓶を池の中に投げ入れ、水が入っているのも気にせずに土を次々とかぶせて埋め、固く固くスコップで固め、そこには二度と近づかないことにしました。
 その日以来、僕は動物が嫌いです。
 伊集院さん、大丈夫なんでしょうか?

 (PN:野村謙二郎カープ)
 97.12.29 放送 (第116回)  
 数年前の『佐々木君事件』に関しての、僕の言い分。
 「例えば、そんなことがあったら面白いよね」的なユーモアを佐々木に言ってみたまでです。
 だから、僕だけおとがめ無しの判決は正当。
 …だと思う。

 (PN:僕らのピアノ)

 あのウサギは間違いなく寿命でした。

 (PN:肉多め大乃国)

 M君、君の『スーパーマリオ』、駅前の『ファミっ子ストア』に並んでるよ。

 (PN:スーパーワーク)

 大久保君、小学校1年生の時、「起立、気をつけ。」は日本語か英語かでもめてしまって、君を飛び蹴りで血まみれにしてしまったね。
 ごめん、あれやっぱ日本語。

 (PN:タケコプター人間)

 あれは、まだ私にも良心というものがあった頃の出来事なので、おそらく幼稚園ぐらいのことだったと思います。
 セミを取りに公園に行った私は、道路の脇に横たわる小鳥を見つけました。
 「このままじゃ死んじゃう。」
 そう思った私は家に持ち帰って父に見せました。
 父は「骨折してるけど、治るから大丈夫だよ。」と言って添え木をしました。

 それから小鳥はどんどん元気になっていき、10日を過ぎた頃には家の中を飛び回れるようになっていました。
 父が「そろそろこいつも自然に帰してやらなきゃな。」と言ったので、私は「明日逃がしてやろう」と心に決め、今日でお別れだから友達に見せてやろうと鳥かごを持って公園に行きました。
 公園では小泉君と杉山君がサッカーをやっていました。
 私は2人を呼び、とてもかわいいその小鳥をめちゃめちゃ自慢しました。
 そしてその時、小泉君が「鳥に水浴びさしてやろうぜ。」と言い出しました。
 私たちは公園にある水飲み場に行き、鳥カゴの上から滝のような水を入れ続けました。
 今考えれば、その時鳥は恐怖の余り大暴れしていたのですが、バカな私たちは「羽をバタバタさせて喜んでいるね。」などと言って、鳥かごにジャブジャブ水をかけ続けました。
 あとはカゴをベンチに置いて、皆でしばらくサッカーをしました。

 2人が帰って、私もそろそろ帰ろうと思ってカゴに手をかけると、鳥が水の上に浮いて寝ています。
 「おやぁ?」と思いカゴの中に手を入れて鳥を掴むと、鳥は寝ていました。
 永遠に。
 急に怖くなり、泣きながら「どうしよう、これじゃ殺したようなものだ!」
 きっとこの事が親にバレたら「こんな子はいらない」と捨てられてしまうと思った私は、鳥を逃がした事にしました。
 土の中に。
 幸い今まで誰にもバレていません。小泉君と杉山君にも逃がしたと言いました。

 カゴも捨て、この記憶を心の金庫に閉まって約10年。
 このコーナーの存在を知り、便箋にしたためていた所、小鳥の名前が正確に知りたくなり、父にそれとなく聞いた所、「ああ、あの時の鳥ね。あれはメジロっていう天然記念物だよ。本当は飼っちゃいけないんだけど、逃がしてあげて良かったね。」との一言。
 傷を癒すどころか、膿んでしまいました。
 伊集院さん、大丈夫?ねえ、大丈夫なの?

 (PN:こっぱみじん)


 あれは小学校3年生の時、学校の行事で近くの畑を借りてサツマイモを作るというものがあり、その日は収穫の日でした。
 先生は僕たちにそのサツマイモを1本ずつ配り、「今日配ったおイモはおうちの人に調理してもらって、明日持ってきて下さい。どんな物が出来るか、先生楽しみにしてますよ。」と言いました。
 母親とは七夕状態だったので、僕は一緒に暮らしているおばあちゃんに頼むしかありませんでした。
 おばあちゃんにその事を言うと、快く引き受けてくれました。

 次の日、学校に行く前におばあちゃんから銀紙に包まれた物を渡され、僕は学校に行きました。
 昼ご飯の時間、先生が「昨日のおイモは持ってきましたか?」と言いました。
 周りの友達はケーキにしたり、チップス状にした物を机の上に出しました。
 先生は「うわぁ、おいしそうねー。皆のお母さんは料理が上手なのね。」と言いました。
 私も机の上に銀紙に包まれた物を出し、中を開けました。
 すると中にはただ吹かしただけのイモがありました。
 僕はそれを見た瞬間、すぐさまに机の中に隠そうと思い、机の中に投げ入れましたが、それを隣の席の友達が見ていたらしく、僕が先生に「持ってくるの忘れました。」と言ったと同時に、「え、持ってきてんじゃん。今机の中に入れたの見たもん。」と言われてしまい、泣く泣くそれを出すと、先生は「あら、吹かしてるのね。これは一番美味しいおイモの食べ方だからね。」と言ってくれましたが、周りからはいつの間にやら「手抜き」コールが。
 母親は皆に家にいつもいる事になっていたので、僕はその訳も言えず、家に帰ると部屋に閉じこもり、テレビゲームをしていました。

 するとばあちゃんがおやつのおにぎりを持って入ってきました。
 僕は、今日あった事をおばあちゃんに当たらずにはいられなくなって、おにぎりのお皿を手で払い除けて「おにぎりなんてもういらないよ!」と怒鳴りつけてしまいました。
 おばあちゃんは僕の態度を見て今日あった事をさとったらしく、床に転がったおにぎりを拾い上げて、部屋から出て行く時にぽそっと「ごめんね。ばあちゃん料理しかできなくて。」
 その日の夕食、おばあちゃんがあのおにぎりをお茶漬けにして食べていたのは、今でも頭から離れません。
 僕はタコのウィンナーやそぼろで絵が描いてあるお弁当を食べたことがありません。
 もちろん、不満を言った事はありません。
 あの日から。

 (PN:青山牧場)


 あれは私が中学校3年生の時の話です。
 その時私は、中学校最後の文化祭のため、夜遅くまで学校に残って催し物を製作していました。
 そして7時ぐらいになって皆が一人一人と消えて、私が一人残っていた体育館のカギを職員室に戻す事になり、一人カギを戻してから、とぼとぼと薄暗くなったロータリーを自転車置き場まで歩いていきました。

 その途中には剣道場があって、「自分も夏まではここで部活をしていたんだなぁ」と思いながら、剣道場にいつの間にか近づいていました。
 何となく中を見たくなって入り口の所に行っても、やっぱり中はカギが閉まっています。
 僕は「どうせこっちも閉じているだろう」と思って、窓の下にある、人がくぐれるぐらいの窓に手をかけて引っ張ってみると、スーッと小窓が開きました。
 私は何かに惹かれるようにその剣道場の中に腹ばいになって入っていきました。
 私は剣道場の懐かしい匂いが少し嬉しくなって、部活に入ってたくさんの胴着がかかってるのを見て、はっと気付きました。

 「隣の女子の部屋には私が結構気に入っていた、後輩のSさんの胴着がかけてあるんじゃないかなー。」

 私はすぐに女子の部室の方に行く事にしました。
 しかし、神様も私を罪人にはしたくないようで、私の期待していたSさんの胴着や袴はありませんでした。

 でも、防具がありました。

 私はその防具を手に取り、少し眺めていた。
 その時、剣道場の前あたりから最後の見回りに来た先生の「誰かいるのか?」という声が。
 私は慌てて、入ってきた小窓から逃げました。
 何とか先生にも見つからずに、自転車置き場に着いたのです。
 やはり、神は私を善人のままでいさせてくれたのです。

 その時、私は右手に何かを持っていることに気付いたのです。
 それは小手でした。Sさんの小手でした。
 その後、小手はいまだに押し入れの中にあります。
 伊集院さん、こんな僕の神様は大丈夫なんでしょうか?

 (PN:サモハンキンポー)


 両親が共働きだった僕は、小1から小3まで学校を下校後、『学童養育クラブ』という、僕と同じ境遇の子供がいる施設に入っていました。
 あまり楽しくはない所でしたが、毎年夏に行なわれるキャンプは、全員楽しみにしていました。

 僕が3年になって班長に就任した年のキャンプのメインイベントは、武田信玄の埋蔵金探し。
 埋蔵金探しといっても、父兄が用意して隠した金メッキの小判の入った千両箱を班ごとに探すというものでしたが、小3の僕にとってとても楽しみなイベントでした。
 僕は班長として年下の1、2年生に尊敬されようと、キャンプ前日深夜まで、班員への的確な指示を出すための策を練りに練っていました。
 その夜はキャンプ実行委員長の父も遅くまで起きていました。
 僕が父に何をやっているのか問うと、父は「埋蔵金探しの隠し場所の地図の確認をしている」と言いました。
 この予期せぬ父の発言に、頭の中は「これさえあれば、これさえあれば」という言葉が繰り返されていました。
 少し経って正気に戻った僕は、盗み出した隠し場所の記された地図のコピーをコンビニで班員分とっていました。

 翌日キャンプ場で班のバンガローに入って早速この地図を配り、それぞれ見つけ出す千両箱を割り当てました。
 その正午、埋蔵金探しがスタートしました。
 僕が先生に渡されたクイズを解くふりをしていると、スタートの合図と共に班員どもは、割り当てられた千両箱の所にクイズも解かずに猛ダッシュしていました。
 呆然と立ち尽くす僕を尻目に、バカ班員どもは10分後、1人1つずつの千両箱をパーフェクトで抱え、満面の笑みを浮かべ、僕の所に帰ってきました。
 幸いスタート地点には呆然と立ち尽くす僕しかいなかったので、この事は誰にも知られていませんでした。
 さすがに4時間かけて行なう予定だった企画を、ものの10分で、しかも見つけたのが全部うちの班というのはまずいと思い、元の場所に戻してくるように伝えましたが、誰も言うことは聞いてくれませんでした。

 もうダメだと僕は覚悟を決め、役員テントにいた父に全てを白状しました。
 父は激怒し、僕の襟首を掴み、崖から落とそうとしました。
 僕が言葉にならないぐらい泣き続けているのに気づいた先生達によって父は止められ、急遽役員会議が開かれ、まだどこの班もクイズを解いていないということで密かに元の場所に戻すことになりました。
 こんな事があったとは知る由もない他の班に、3時間後全ての千両箱が発見されました。
 その3時間の間、棄権扱いになった僕の班はバンガローで反省文を書いていました。
 落ち込んでいる僕にさらに追い討ちをかけるように班員達は、「班長の命令だった」という内容の反省文しか書いていませんでした。同じ学年の副班長までもがです。
 キャンプ2日目に起きたこの事件のショックから立ち直れず、僕はあと3日間のキャンプにどうしても参加したくなくて、お腹が痛くなったということで家に帰りました。

 キャンプが終わって元の生活に戻ってしばらくすると、毎年恒例のキャンプ再現劇のための練習が始まりました。
 班員達は、棄権してバンガローにいるという様子の劇の練習をしていたようですが、僕は練習も本番もお腹が痛くなったということで欠席しました。
 普通は学童を卒業して4年生になっても、OB班ということでキャンプに参加するのですが、僕だけが毎回お腹が痛くなったということで行きませんでした。

 あの事件から10年、あの事を思い出すとベッドでじたばたしてしまいます。
 伊集院さん、どうすれば、僕はどうすればいいのでしょうか?

 (PN:五右衛門 19歳男子学生)


 中学校2年の夏、M君、W君、そしてW君のお父さんと4人で近所の運河にハゼを釣りに行った時の話です。
 その日はM君、W君とともに釣果がよく、朝からいい引きでした。
 それに反して僕だけはどうしたことか1匹も釣れず、釣りに飽きがきていたので釣りを止め、1人で石をどかして間抜けな小虫を取ったりして遊んでいました。
 しばらくの間遊んでいるとW君のお父さんに、「おーい。そっちはヘドロに足を取られるから、1人だと危ないよー。」と注意されました。
 僕は知らない間に釣りをしている所から大分離れた所まで来ていたんです。
 こりゃ危険だなと思った僕は虫取りを止め、今度はそこいらの石をヘドロに投げ込んだりして遊び始めました。

 そこに、川上からカルガモの親と子4、5匹が仲良く泳いで来ました。
 その微笑ましい親子のカモを見守るほどその頃の僕は優しくはありませんでした。
 気がつくと、幸せな親子をビビらせてやろうと小石を投げつけていました。
 小石投げが次第にエスカレートして、野球のボールぐらいの大きさの石を投げるようになった時、ここまでカモの親子は僕の石攻撃をかわし続けていたので、僕はカモにぶつけるのではなくカモの近くに石を落とし、その波でカモを驚かせようという作戦に変わっていましたが、僕の手から離れた石は綺麗なアーチを描き、カモの親子の近くに落ちる予定が、石は見事に親ガモを直撃。
 親ガモはまるでシンクロナイズドスイミングをするかのように脚を上にして水中に消えていきました。
 その時の僕に追い討ちをかけたもの。急に親を失った子ガモたちがピーピー必死で親を捜し泣いています。
 そんな切ない泣き声と罪悪感で僕は頭が混乱し、「カ、カモが、カ、カ、カモが。」と声にならない声を出してパニック状態で、「殺したからには食べなくては」と水中に没した親ガモの方へとフラフラと近づいていきました。

 その時です。「ズボッ」という音と共に僕の両足はヘドロにめり込みました。
 しかし頭の中に殺した母ちゃんカモを食べることしかなかった僕はヘドロにまみれながらもカモへとカモへと這いずっていきました。
 その時、W君のお父さんに止められ助けられなかったら、僕はカモと心中していたかもしれません。
 ヘドロの中から引き抜かれ、どうしてヘドロの中にいたのかと聞かれ、僕は「カモを食べようとして」とは言えずに、ヘドロと泥水にまみれて小刻みに震えて下を向いて黙っていました。
 はと目をやるとカモの死体は運河の下流の方へと流され、その周りに子ガモが輪になっていました。

 今でもこのシーンはたまに夢に見ます。
 大丈夫でしょうか?

 (ラジオネーム:足刺し職人)

 小学校3年生の時、僕たち5人の仲間は、旅人でした。
 ゲームボーイのロールプレイングゲーム「Saga2」にハマって旅をしたり、人が行かないようなところに行ったりとほんとにほんとに楽しい日々でした。

 ある日、家の中で遊ぶのに飽きた5人は、メンバーの1人である高橋君の家を出て、旅に出ることにしました。
 今回の目的地は前々から僕が行ってみたいと思っていた、下水道です。その下水道は人が歩けるほどの大きさなので、旅人としては行かないわけにはいきません。
 とりあえず、水の中を歩くので長靴を取りにいこうということになり、5人は1度解散し、下水道の前に集合ということになりました。
 いよいよ突入です。入り口から入っていって、数mのところで、いきなり鉄柵がありました。
 しかし我々旅人はその程度のことではあきらめません。柵の横の隙間から横歩きで突入。まず、一番最初に入っていった僕は楽に成功。ほかの3人も楽に入れました。ちょっとデブの高橋君も何とか入ることができました。
 僕たちは真っ暗な下水道の中を懐中電灯の明かりを頼りに突入していきました。
 確かそこはゴミだらけで猛烈に臭かったんですが、本当に楽しかった旅だと記憶しています。

 30分ほど経った時でしょうか、Uターンして入り口手前の鉄柵まで戻りました。僕たち4人は柵から出て家に帰ろうとしました。
 が、1人足りません。デブの高橋君です。
 下水道の水でふやけたのか、彼が鉄柵から出れません。半泣きでした。
 4人は必死で彼の腕を引っ張りました。でもだめです。
 僕は、彼を助けるには大人の力が必要だと思い、高橋君の家に向かいました。
 しかし残りのみんなも僕の後ろについてきます。猛ダッシュで走る4人。
 その時です。僕の頭に「大人にバレたらヤバいよなぁ…」という考えが浮かびました。
 全会一致の判断でした。
 「高橋君が太っているのが悪い。」と心に何度も言い聞かせ、4人は解散しました。

 翌日、高橋君は学校に来ていました。僕は本当によかったなと思いました。
 それもつかの間、昨日のメンバー4人が担任に呼び出されました。昨日のことは高橋君の親を通じて担任に知らされていました。
 担任は僕ら4人に言いました。「何で呼ばれたかあんた達わかる?」
 答えました。「下水道のことですよね?それなら高橋君も一緒でした。」
 横の3人の顔は引きつっていました。
 僕が「しまった」と思った瞬間、僕の体は宙を舞っていました。担任のビンタです。
 担任は涙目で「高橋はな、あそこでずっと叫んでたんだよ。10時までな。助けてくれた人がいなかったらお前らどうすんだ!何でそうやって友達裏切れるんだよ!」と言いながら他の3人を次々と吹っ飛ばしていました。
 僕はボロボロ泣いていました。さらにそこから入ってはいけないところに入ったことと、さっきの僕の高飛車な発言に対しての計2回ずつ、4人で計8回吹っ飛ばされました。
 教室に泣きながら入る4人。クラス全員の冷たい視線。このことをクラス全員に言いふらし、こっちをチラチラ見る高橋君。
 僕たち4人は孤立しました。高橋君は他のグループに入りました。

 それから1ヶ月後、高橋君は引っ越すこととなり、クラスでお別れ会を開きました。
 僕らは彼にあらゆる思いを込めて4時間かけて『高橋君人形』というものを作りプレゼントしましたが、帰り道その人形がドブ川を流れていくのを見ました。
 今もあの下水道のとこを通ると、ビンタを思い出します。
 僕らまとめて大丈夫でしょうか?

 (PN:ニセポパイ)


 僕がまだ小学生の頃の話です。その日、僕と男友達のY君、T君、クラスの女子のAさんとBさんとで当時僕が憧れていたCさんの家に学芸会の打ち合わせに行きました。
 理由なんてどうでもよかったんです。好きな女の子の家に行くのは『モテない君』の僕にとって、最高の喜びでした。
 家に入り、Cさんの部屋に案内された時点で、もう僕の心臓の鼓動は「エマージェンシー、エマージェンシー」。
 それなのに、さらに心臓の負担のかかるような出来事が起きました。
 部屋の中にはイスが用意されていたのですが、1人足りなかったので、一番最後に部屋に入った僕がなんと彼女のベッドに座ることになったのです。
 この当時、僕は確かに『モテない君』でしたが、それと同時に『顔の悪いやつは心は奇麗』という変な迷信により、かなり安全なやつと思われていたフシがあり、他のみんながお菓子を食べながら話し合いをしている間、僕1人幸せ気分に浸りながらベッドの上でたたボーッとしていました。

 しばらくしてお菓子が切れると、「新しいやつ持ってくる。」とCさんがお皿をもって部屋から出て行きました。
 AさんとBさんも「手伝ってくる」と言って出て行きました。そして「トイレ。」とY君が出て行き、「金魚見てくる。」とT君が出て行き、僕は、部屋には僕1人だけの状態に。
 神様のいたずらのようですが、僕1人になったのです。
 「もしかして、みんながどっかから覗いてて、オレが変なことするの待ってんじゃないかな?」
 最初はそう思いましたが、どうもそうじゃないと確信を持つと、いよいよ僕の頭の中におピンク様が出てきて、「枕抱きしめちゃえよ」とか「布団の中に入っちゃえよ」とか言ってきます。
 当然僕の心の中の天使様は「そんなことしちゃダメダメ。」と僕に言っています。
 「やっちゃえ!」「ダメだ。」「やっちゃえ!」「ダメだ。」
 そんな押し問答が僕の心の中で続けられ、そのやりとりと「今オレは好きな子の部屋に、ベッドの上でただ1人でいる」という緊張感に耐えられなくなった時、僕は吐いてしまいました。吐きました。

 そこで瞬間的に変に冷静になった僕は、「この場所に吐いたらみんなが嫌な思いをしてしまう。」と考えたまではよかったのですが、時間がなく、布団をめくって中に吐いてしまいました。
 もうこうなってしまうとおピンク様など心の中から逃げ出していて、とにかくバレないようにバレないようにと上にきちんと布団をかぶせ、部屋を1回飛び出し、1番離れた部屋にみんなが戻ってくるまで隠れていました。
 みんなが部屋に戻ると、「あーすっきりした。」といかにもさっきまで僕もトイレに行っていましたという感じのセリフを言いながら戻りました。
 吐いた物が小ゲロだったためか臭いでバレることはありませんでした。そしてそのまま帰りました。

 翌日、Cさんが学校に来ていません。
「僕のせいだ…。」
 いたたまれない気持ちになった僕は、帰宅後、家にあったお歳暮を勝手に持ち出し、これでお詫びということにしようと思いながらCさんの家に走っていきました。
 家に到着。恐る恐るインターホンを押すと、Cさんのお母さんが出てきました。
 「怒られるかなー」と思っていると、すんなりとCさんのいる部屋に通されました。
 Cさんは自分のベッドではなく、布団で寝ていましたが、どうやら僕が犯人だということはバレていないようで、部屋に入るとCさんの親友であるAさんがお見舞いに来ていました。

 普段女子とはあまり話さないので何といったらいいのかわからず、しばらく黙っていると、Aさんが「何でCちゃんが寝込んだか知ってる?」と聞いてきました。
 「やっぱり、あの事だよなぁ…」と思ってはいましたが、言えるわけはありません。
 「カゼ?」とシラを切ると、Aさんは「実は…」とCさんが寝込んだ理由を話し始めました。案の定僕が原因でした。
 布団を頭までかぶっているCさんを見て、「謝らなきゃ」と思ってはいましたが、隣でAさんがすごい勢いで怒っていたので、言えませんでした。
 「やっぱり謝らなきゃ!」そこで急にAさんが「きっと犯人はTよ。」と僕の友達の話をし始めました。
 まずい、このままじゃ親友のT君が犯人になっちゃう。
 そう思った僕はとっさにこう言いました。

 「そうだよね、彼結構お菓子食べてたし。」

 ごめん、T君。そう思いながらも自分のために次から次へとT君を犯人に仕立て上げる嘘を言い続けました。もう既にAさんの頭の中ではT君が犯人になっています。
 「明日、Tのことぶん殴ってやるよ。」Aさんは言いました。
 まずい、これ以上他の人に話が広がると犯人が僕というのが表れてしまう。
 そう思っているとCさんが静かな声で布団をかぶったまま、「いいよ。T君もきっと反省してるだろうし。」と言いました。
 それっきりCさんは喋りませんでした。
 Aさんも黙っていました。
 この雰囲気に耐えられなくなった僕は帰ることにしました。
 ふと自分が持ってきたお歳暮のことを思い出し、Cさんのお母さんに渡しましたが、こんなたいそうな物を頂いては悪いからと言われ、返されました。

 とぼとぼとぼとぼと帰っていると、僕の脳裏に1つの不安がよぎりました。
 もしお歳暮を持っていたことが今お母さんにバレていたら、怒られちゃう。
 家の前に着き静かにドアを開けると、母が玄関にいました。もちろん怒られました。
 怒られている最中、「今こうやって怒られていることにより、僕の罪は償われている」と訳の分からない、自分勝手な自己催眠をかけていました。
 この催眠のおかげで普通に学校に次の日も行けました。Cさんも翌日から学校に来ていたし、AさんもT君に何も言っていないようだったので一件落着のようでした。

 それから約1年後、T君から「オレさ、今度Aに告白しようと思うんだけど、何て言ったらいいかな?」と相談された時、自分の今までしでかした事に対する申し訳なさに押しつぶされそうになり、「うーん、悪い虫の予感がするから止めといた方がいいよ。」とだけは言っておきました。

 その後僕はすぐに引っ越すことになり、結局T君が告白したかどうかはわかりません。今はただ告白していないことを祈るのみです。
 僕は大丈夫なんでしょうか?

 (PN:まっくろけ)


 泣くほど大事な絵だとは思いませんでした。
 実は、破れた所を直したやつが、あれから6年あるんですけども、まだいりますか?

 (PN:マカマカ)

 まさか、先生が辞めることになるとは…。

 (東京都国分寺・PN:牛乳宣言)

 立て札の「危険」の文字が、もし平仮名で書いてあったらなぁ…。
 今でも思います。

 (東京都杉並区・PN:エビ夫)

 カッパの絵が、かえって僕たちの好奇心を刺激してしまいました。

 (PN:ごうけい)

 あれは、小学校4、5年の時。A君の家に遊びに行った時のことです。
 A君の家では犬と白文鳥を飼っていたので、僕は犬と遊んでいました。
 しばらくして、犬に飽きた僕は、今度は白文鳥と遊ぼうと思いました。
 当時、白文鳥は僕の家でも飼っていて、僕の家では放し飼いにしていたので、A君に「カゴから文鳥を出していい?」と聞きました。
 するとA君は「いいよ。」と一言。僕は白文鳥をカゴから出しました。元気に飛び回る白文鳥。
 とその時、犬の足音が。一瞬、犬と白文鳥の姿がシンクロしました。そして、次の一瞬、犬の口元を見てみると何やら白っぽいものをくわえています。
 A君は「うわぁ!」と絶叫。僕も絶叫しそうになりましたが、僕は「いや、あれはティッシュペーパー。あぁん、白文鳥?んなんじゃねぇ、ティッシュペーパーだ!」と苦し紛れの自己暗示をかけていました。
 しかし、現実はそう甘くはありません。犬がくわえていたのは、紛れもなく白文鳥でした。
 A君は犬の頭をバンッ、バンッと叩いています。しかし犬は一向に白文鳥を放そうとしません。犬は、数分経ってから放しました。
 A君は白文鳥を甘握りし、一生懸命さすっています。
 A君は「大丈夫だよ、大丈夫。びっくりして気を失っているだけだよ。」と言っています。僕は「そうだよね、びっくりしただけだよね。」と同調するしかありませんでした。

 それから数分して、A君のお母さんとおばあちゃんが帰ってきました。
 少し経って、何が起きてるかに気づいたおばあちゃん達は「何をしたの?何をしたの!」と怒り気味で犬を責めています。「せっかく慣れ始めてたのにどうして!?」と泣きそうな声でおばあちゃんたちは言っています。僕は正座して小さくなって座っていました。
 おばあちゃん達は「なんでカゴから出したりするの!」とA君だけを責めています。
 僕は「ごめんなさい。僕がカゴから出そうって言ったんです。」と何度も言おうとしました。でも言えませんでした。
 僕はA君のお母さんがA君に「もうカゴから出したりしないの!」という言葉をかけているのを尻目に、そーっと家を出ました。

 それ以来、僕はA君から誘われても、「ごめん、予定あるんで。」と言ってA君の家に行きません。あれからA君の家の犬はすくすく育っているそうです。
 伊集院さん、こんな僕ですが、大丈夫なんでしょうか?

 (PN:レイジングヘル)


 僕が中学校2年の頃、進学塾に通っていて、その頃の学校の成績はと言うと、学年で220人中15位ぐらい、普通の人よりいいぐらいの成績でした。
 ちょうどその頃、僕は『ドラクエ5』が出ると友人に聞いて、どうしても欲しくなっていました。
 ある晩、僕は親とおじいちゃんとおばあちゃんに「スーパーファミコンのカセットが欲しいんだけど」と言いました。
 しかし、母は「ファミコンばっかりして勉強しないから」とあっさり却下。
 しかしどうしても諦めきれない僕は、「ね、勉強するから買って、勉強するから。」と食い下がりました。
 すると父が「じゃあ、今度の塾のテストで英語、数学、国語、3科目全部90点以上取ったら、まぁ買ってやるよ。」と何とも厳しい条件を出してきました。
 僕は何としても90点以上取るために、1ヶ月後のテストへ向けスーパーファミコンをやるのを禁止して、来る日も来る日も一生懸命勉強しました。

 そしてテストの日。
 僕は、テストが始まる直前に消しゴムを忘れてしまったことに気づきました。
 でも、消しゴムなんかなくても何とかなるだろうと思い、テストを受けました。
 しかし、国語のテスト中解答欄を間違えてしまいました。消しゴムのない僕は誤った答えを鉛筆で塗りつぶし、正しい答えを書いてしのぎました。

 数日後のテスト返却日、僕は「何とか全科目90点を超えてくれ」と祈りながら、返却された答案を見ました。
 数学、94点。英語、96点。
 そして国語。87点。
 頭の中で鳴っていたドラクエのテーマがフェードアウトしていくのがわかりました。
 そして気がつくと、僕は国語のテストの間違った答えを消しゴムで消し、そこに正しい答えを書き直していました。
 そしてそれを先生の所に持っていき、「あの、ここ採点ミスなんですけど。」と言っていました。

 僕の中で再びドラクエのテーマが鳴る予定でした。
 が、先生が怒鳴りました。
 「何でこの解答だけ消しゴムできちんと消して答えてるんだ!他の解答は間違った所は鉛筆で塗りつぶしているのにおかしい。テスト用紙を見てみろ!」血の気が引きました。
 続けて先生が「後で君の親に連絡をして面談をしましょう。」と言った時、僕は「僕はもうこの塾にはいられない。そして、家にも僕の居場所がない。」という気持ちで一杯になり、先生からテストをわしづかみで奪うと、そのまま逃げていました。

 逃げ出してから数時間経った夜中の12時過ぎ、僕はこれからどうやって1人で生きていこうかと悩みながら道をとぼとぼ歩いていると、そこにたまたま巡回中のパトカーが来て、警察に連れて行かれ、僕は警察で全ての事を話しました。
 しばらくして親が迎えに来て、家に着いた後、親に一晩中お説教されました。
 僕が半べそをかきながらしょげていた明け方の5時頃、おばあさんが起きてきて「どうしたんだい?」と尋ねてきました。
 親が事情をおばあちゃんに話すと、おばあちゃんが「お前が勉強を頑張っていたのをよく知っているよ。じゃあおばあちゃんがお金をあげるから、欲しいものを買っといで。」
 この言葉をきっかけに、僕は大泣きしてしまいました。ドラクエ5を買ったはずですが、ストーリーはよく憶えていません。

 今日、明けて30日、僕は19歳になります。成人まであと1年です。
 こんな僕ですが、大丈夫でしょうか?

 (PN:DJナイキ)


 水風船を持ってきたのは倉本君でした。いや、投げたのは僕ですけど。
 ターゲットを指示したのは岡山君でした。いや、命中したのは僕のですけど。

 (ラジオネーム:ペルドモ)

 僕は今までの人生の中で、15分間だけ『木村良輝』だったことがあります。

 (PN:アオミドロ)

 3組のみなさーん、共同募金、3262円ありました。

 (埼玉県・PN:恥さらし)

 クワガタの角って、結構簡単に折れるんですね。

 (PN:はてな)

 あの後、北斗の拳ごっこが禁止になったっけ。

 (PN:ぬし)

 修学旅行の文集の私の作文の件なんですけれども、広島に友達はいません。

 (PN:人間合格)

 牛乳瓶って、割れますよね。
 瓶ですもんね。

 (東京都板橋・PN:氷ネコアイス)
 97.12.22 放送 (第115回)  
 山下君へ。
 小学校の時、君のランドセルなくなっただろ?
 学校の隣の、神社の古井戸。今は埋められているけど、掘ってみな。
 …ごめん。

 (千葉県野田市・PN:NaCl変換Na++Cl-)


 毎年、年賀状を書くこの時期になると、私の閉ざされていた心の扉が、いつも開きかけます。
 そう、あれは確か小学校の高学年の頃、その当時私たちの仲間内では好きな女の子から年賀状をもらえるかどうかが話題になっていました。
 かくいう私も、当時好きだったSさんから年賀状をもらえると嬉しいなぁと思っていました。
 そんなことを考えながら終業式の日を迎えた私と友人数人は、当時カギッ子だった私の家に集まり、年賀状の話題で持ちきりでした。
 その時、友人Yが「正月にもらう年賀状を見せ合いっこしよう」という企画を提案しました。
 私の「そんなのやめようよ」という叫びは無視され、その企画は可決されました。
 みんなで年賀状の見せ合いをするということは、イコール女の子からもらった年賀状を自慢するということなんです。その自慢大会で切り札になりうる年賀状は、やはり好きな女性からの年賀状ということになります。
 そこで私は勇気を出してSさんに電話をし、恥を忍んで「これこれこういう訳で、年賀状をくれないか」と直接お願いしました。
 すると、Sさんは「ごめんね。今年、おばあちゃんが亡くなったから、うちは年賀状が出せないの。」と言いました。こう言われては私も無理にお願いすることはできません。
 気づいたら、私は、Sさんの名前で自分宛てに年賀状を書いていました。

 そして年が明け1月5日の午後、始業式の日に集まったメンバーが私の部屋に揃っています。そして年賀状見せっこ大会が始まりました。
 集まったメンバーの中には、女性からまったく年賀状をもらえなかった友人もいたので、偽りの年賀状は出さずに済みそうだと思っていると、この企画を言い出した友人Yが本当に自慢げに女性からもらった年賀状を見せ出しました。その中にはYが好きなKさんからの年賀状もあり、Yは本当に得意面でした。
 そして私の番がきました。
 すると、1人勝ち誇っているYが「お前はさ、Sさんから年賀状もらったのかよ?」と私を焚き付けてきました。
 私は多分この時冷静さを失っていたのでしょう、「もらったよ。」と言ってしまいました。そして自分で書いたSさんからの年賀状を友人たちに見せてしまいました。
 すると友人たちは「この字Sの字?」とか「お前の字っぽいじゃん。」とか言い出したので、「ちげーよ!ちげーよ!」と言って年賀状を友人の手からひったくると、さっさと机の引き出しにしまいました。

 その後みんなで「お年玉いくらもらった?」とかゲームの話をしながら過ごし、1時間ぐらい経った頃、私の部屋のドアがノックされ、母親が私宛てにきた1枚の手紙を差し出しました。
 「誰から?」と言うと、「Sさんからよ。」
 一瞬頭の中が白くなる私。
 気がつくと、仲間の1人が私にきたSさんからの手紙をひったくり読んでいます。他の友人も横から覗いています。
 その後、Sさんからの手紙はそっと私に帰ってきました。内容は、「ごめんなさい、年賀状書けなくて。」といったような内容でした。
 私は思わずなぜだか、大きな声で「お前たち帰れよー!帰れよー!帰れよー!」と言ってしまいました。
 その後1人になり、Sさんからの手紙を握り締め、1人で泣いていた事を憶えています。

 学校に行くと、自分で書いた年賀状の事がクラスのほぼ全員にバレており、恥ずかしくなり私はゴーゴーラナウェイ、真夜中にラナウェイしてしまいました。
 その後、担任から親の会社へ連絡が行き、大騒ぎになり、思い切り叱られたことを憶えています。
 乱筆乱文、大変失礼しました。

 (大田区・匿名希望)
 97.12.8 放送 (第113回)  
 小学校1年生の時、僕は駄菓子屋のくじに取り付かれていました。
 毎日、ぼくのおばあちゃんがくれる50円で『イーアルカンフー』や『アイスクライマー』の紙で出来た下敷きがもらえるというくじをやっていました。
 くじは1回50円。お小遣いの全額です。しかし、全然当たりません。
 だから、駄菓子屋のおばあさんに「これほんとに当たり入ってるの?」と問い詰めました。すると、
 「入ってるわよ。こないだもひろし君、ほら知ってるでしょ?あの子が当てたばかりだよ。」
 その言葉を聞くと、僕は家に走って帰り、
 「おばあちゃん、おばあちゃん、300円貸して!一生のお願い!出世払い出世払い!」
 兄の良く使っていた言葉を利用し、どうにか借りてリターンTO駄菓子屋。
 「これと、これと、これと、あっ、これ。」6回くじを引きましたが、全てはずれ。
 僕は頭が完全にイッてしまい、はずれ賞のガムをドブに投げ捨てると、家にリターン。
 「おばあちゃーん、おばあちゃーん!」
 叫びましたが返事が無い。
 裏庭を見ると、おばあちゃんは曲がって固くなってしまった腰で、洗濯物を大変そうに取り込んでいるではないですか。
 その時、僕の頭の中で聞こえた言葉。

 「チャンス。」

 おばあちゃんのいつも座る席の戸棚を物色。
 「さっき確かこのへんから出してたよな…」と心の中でドキドキしながら探索するうちに金脈を発見しました。
 500円、100円、50円と、僕は握れるだけのコインを握って、家を出ようとしました。
 すると、玄関にはおばあちゃんが。
 駄菓子屋に行こうとする僕におばあちゃんは、「何やってんの、お金なんか持ち出して!やめなさい、ダメ!」と言い、玄関の戸をピシャリと閉めました。
 この行動にキレた僕は、「うるせぇクソババァ!どけっ!」
 おばあちゃんを突き飛ばし、さっきの駄菓子屋へ。
 肩で息をしながらくじを全部買い占め、片っ端から開けると、結局当たりは1つだけ。それでもすごーく嬉しくなって、公園で手当たり次第に下敷きを自慢して歩きました。
 気がつくと辺りは真っ暗になっていました。

 僕は喜びという感情に支配され、ニコニコしながら玄関を開けると、父が仁王立ち。
 そして、怒りの鉄拳。一瞬、目の前が白くなりました。初めて父から殴られました。しかもグーです。小学校1年生の子供を、グーでぶっ飛ぶぐらい殴るほど、父は激怒。「お前おばあちゃんに一体何をしたんだ!」と怒鳴り声。
 はっと我に返り、次から次へと涙がこぼれるや否や、「おばあさんごめんなさい!」と大声で叫んでいました。
 そして外へ飛び出し、道路を裸足で走り出し、「おばあちゃんごめんなさい、おばあちゃんごめんなさい!」と叫びながら、走り続けていました。
 そして1時間ほどした所で父に「もういいから」と取り押さえられました。
 おばあちゃんは僕に突き飛ばされ、足をくじいていました。
 僕はおばあちゃんに何度も何度も謝りました。
 おばあちゃんは「怒ってないよ。ばあちゃん、自分で転んだんだから。」

 あれ以来、全てのギャンブルを許せなくなりました。現在浪人中です。
 おばあちゃん、申し訳ない。
 僕は、僕は大丈夫なんでしょうか?

 (PN:ロッキー上院議員)


 あれは忘れもしない小学校3年生の冬。僕は近所の2歳年下のいとこの家に、文鳥を見せてもらいに行きました。
 家に行くと、いとこはファミコンをしていたので、「ファミコンをしている間に文鳥を見せてよ」と言い、文鳥をカゴから出して、ファミコンの隣の部屋に。
 最初のうちは普通にエサをあげたりして遊んでいたのですが、ふと、鳥が羽ばたく所を見たくなった僕は、文鳥に『高い高い』をしてみる事にしました。
 そうすると、思った通り文鳥は羽ばたきました。
 僕の期待に応えてくれた文鳥に嬉しくなり、調子付いてもっと高く、もっと高くと文鳥を上げました。
 そして何回か上げた時に、『ゴスッ』という音が。
 そうです。文鳥が天井にぶつかったのです。
 文鳥はそのままボトッと『気を付け』の姿勢で落ちてきました。
 幸い意識はあったので、何事も無かったようにカゴに戻し、隣でファミコンをしているいとこの所に戻りました。

 そして、何時間か遊び、家に帰ると、いとこの家から電話がありました。
 内容は、文鳥の様子がおかしいということでした。最後に文鳥に触っていたのが僕なので、即バレでした。
 いとこの家に猛スピードで行くと、文鳥がおかしなリズムをとっていました。脚の辺りが何か腫れていました。
 叔母に「あんた何したの!」と怒鳴られ、僕は全てを白状しました。
 数時間後、文鳥は泣きじゃくっているいとこの手の中で息を引き取りました。
 ふと周りを見ると、普段決して怒らない叔父さんが無言ではあるものの明らかに怒っており、僕に色々ファミコンの事とか教えてくれた高校生のお兄ちゃんも、「できればお前を殺したい」というメッセージ性を秘めた顔で僕を睨んでいました。
 一通り謝り家に帰ろうとすると、2歳年下のいとこが走って僕の所に来て、
 「2度と来るな!!」と一言。

 以来僕は高3になる今もそれを守り、新年会にも法事にも誕生日会にも、何かにかこつけていとこの家には行きません。
 伊集院さん、僕は本当に大丈夫なんでしょうか?

 (ラジオネーム:伝説の足刺し職人)


 あれは確か小学校3年か4年の頃の冬の事です。家族で母親の友人宅へ遊びに行った時の事。
 親達に「仲良く外で遊んでいらっしゃい」と言われ、僕とその家の子のH兄ちゃんとK君は「探検に行こう」という事になり、3人連れ立って近所のBB山(BB弾が大量に落ちているのでそんな名前らしいです)へ行きました。

 BB山に着いた僕らは、しばらくの間地面に埋まったBB弾拾いに興じていました。
 「ヘビー弾だよ、これ。」「こっちに透明なやつがいっぱいあるよー。」などと楽しい時を過ごしていると、上の方から「すっげぇ。ちょっと来いよ。」というH兄ちゃんの声がしました。
 行ってみると、汚れたキャンプ用品のような物が入ったダンボール箱が落ちていました。
 僕らはそれを使って基地を作ろうという事になり、ダンボール箱をひっくり返しました。すると、その中にチャッカマンが。
 それを見た兄ちゃんがボソッと、「なあ、たき火しねぇ?」と言いました。
 当時小学生の僕らにとって、子供だけのたき火。あまりに魅力的な響きでした。
 樹の枝や枯れ草などを集め、さあ点火。

 気が付くと、僕らの周りはちょっとした火の海でした。

 H兄ちゃんは頑張って火を消そうとしていましたが、火はどんどん燃え広がり、既に消そうとか消さないとかいうレベルではなくなりました。
 「消防車呼ぼうよ」と言いましたが、H兄ちゃんは「バカッ!捕まったら死刑だぞ!」と言いました。
 他から見れば頭の悪い小学生に過ぎない彼も、『H兄ちゃん』などとリーダー的に祭り上げられて、僕たちの中では絶対的な存在です。
 「死刑」という言葉を聞いた時、僕は「逃げよう」と思いました。
 それは、KもH兄ちゃんも同じだったようで、気付くと急な斜面をみんなで全力で走っていました。

 家に着いた僕らは、H兄ちゃんの部屋に駆け込み、息を整えてから、
 「き、消えたかな?」「だ、大丈夫だよ。」「そ、そうだよね。」
 と勝手に結論を出し、戦車やジオングのプラモデルを戦わせて遊んでいました。
 その時です。遠くの方からサイレンが聞こえてきました。
 プラモを手に、急に無口になった僕とK君とH兄ちゃんは、「だいじょぶだいじょぶだいじょぶだいじょぶ。」
 力ない笑顔を見せてくれていました。
 しかし、無情にもどんどん音は大きくなっていきました。しかも1台や2台の音ではありません。
 僕は「どっかの家が火事なんじゃないかな、ちょうど。」と精一杯の自分フォローを入れましたが、3人全員に対して効き目はなく、無口の3人の部屋にはサイレンの音だけが響いていました。

 しばらくしてその沈黙を破ったのは、窓の外からの「おーいH、BB山が燃えてるぜー。早く来てみろよー。」というH兄ちゃんの友達の声でした。
 H兄ちゃんは「今忙しいから!!」と必要以上に大きな声で答え、半泣きでした。
 もちろん僕とK君はボロボロ泣いていました。

 その日の夜、一言も喋らず、現実から逃げるようにPCエンジンで遊ぶ僕らに、仕事帰りのH兄ちゃんとKのお父さんが「おーい、お前らの好きな物を買ってきたぞー。」と言いました。
 恐ろしいほどのBADなタイミングで、おみやげは花火でした。
 「よりにもよって冬に、それもこんな日になぜ花火?」と思いつつも、僕とH兄ちゃんはとりあえずこわばった顔で「ありがとう。」と喜んだフリをしましたが、その時、許容量を超えたK君は、花火を投げ捨て、踏み付け、自分の部屋へと走り去りました。
 その後K君は鉄拳制裁と夕飯抜きの罰を受けました。夕食の席での話題は、もっぱらKの突然の反抗期についてで、幸い山火事については誰も知るよしもなく、触れられませんでした。
 夕食後の花火大会ですが、ほとんど憶えていません。
 ただ、「こっちの方が点けやすいわよ」と言ってチャッカマンを持ってきた、私の母の平和過ぎるほどの笑顔に、あやうく涙がこぼれそうになったのを憶えています。
 僕は死刑にならないでしょうか?

 (追伸:花火自体は中学校に入る頃にやっと楽しめるようになったものの、チャッカマンを見ると涙が出る)

 (PN:ファイアースターター)
 97.12.1 放送 (第112回)  
 小学校1年の頃、僕はカギっ子でした。アパートでした。
 その日は学校から帰り、今では名前は忘れてしまいましたが、カギっ子の子達だけに来てくれるおばさんがいて、さみしい子供たちに普段食べた事の無いような料理を作りに来てくれるという本があって、僕はその本が大好きで、その日もそれを読みながら空想にふけっていました。

 すると、「ピンポーン」とベルを鳴らす音がしたのでもしやと思い、わくわくしながら自分のイスを玄関前に持ってきて、それに乗ってドアのレンズから覗くと、本当におばさんがコートを着て立っていて、その後ろにもう1人男の人が立っていました。
 僕は思わずドアを開けようとしましたが、母がいつも「知らない人はむやみに入れちゃいけません」こう言っていた事を思い出し、僕は「誰ですか?」とドア越しに尋ねました。
 すると、その人たちは「警察です。」と返してきました。
 僕は「お巡りさんでも僕は知らないので入れられません。お母さんは知らない人は入れるなって言っていたので。」と言うとおばさんは、「僕1人なの?お母さんは?おばさん達は、君の隣に住んでいる悪い人を捕まえたいの。だから、君の家のベランダから様子を知りたいの。入れてくれないかな?」
 僕はそれを聞いても初めのうちは「入れたらお母さんに怒られる」という気持ちが強かったのですが、なぜだか「悪い人を捕まえる」という言葉に妙に興奮して、お巡りさん達が悪い人達を捕まえに来たんだ、捕まえた所を1度でいいから見てみたいなぁ」と思うようになり、「わかりました」と言ってドアを開けてしまいました。
 おばさんたちは「ありがとう」と一言言って、急いでベランダへ駆け込み、様子をうかがっていました。

 僕はそれを眺めながらふと頭によぎる物がありました。
 「もし、刑事さんたちがやられちゃったら、僕がやっつけなきゃいけないんだ。」
 そう思った僕は急いで、自分の部屋のおもちゃ箱からパーマントとプラスチックの刀と、ライダーベルトと二丁拳銃を持ってきて、じっと待っていました。
 けれど一向に刑事さん達が動く気配も無いので、僕はしびれを切らし、ウンチをしに行きました。
 すると(後々分かった事ですが)、どうやら下着泥棒らしきその隣の人物が4階のベランダから下りて、非常階段の方に逃げていきました。
 「待てっ!」
 刑事さん達はその後を追って挨拶も無しで追いかけて行ってしまいました。
 僕はトイレの中なので何が起きたのかわからず、ぽつんと座っていました。

 と、突然、「何なのこれは!」という大声がしました。母でした。
 刑事さんが出て行ったままの開けっ放しのベランダと玄関のドア、床には僕が散らかしたおもちゃやお菓子等が散乱していて、母の目にはそれが恐らく泥棒が入ったようにも見えた事だと思います。いや、そうとしか見えなかったと思います。
 僕はすぐにロックをして、自分がまだ帰ってきていないように見せかけようとしました。
 けれど、僕がウンチをするためにはずしたパーマントがトイレのドアに挟まっていて、すぐにバレました。それから僕はパーマンが大嫌いになりました。
 僕は泣きながら、刑事さんが入ってきた事と、おもちゃが散らかっていた事と、僕がなぜこのような不思議な格好でウンチをしていたのかという事を話しました。

 その後母から2時間耐久説教と、刑事と名乗っている者とはいえ勝手に入れてしまった事で、罰としてお小遣いマイナスと、母専用肩叩き券を無尽蔵に作らされました。

 (PN:ママ、僕旅立ちました)


 小学校低学年の夏休みで、僕がおばあちゃんの家に泊まりに行った時の事です。
 その当時、僕は梨が大好きで、おばあちゃんもそれを知っていたので、目の前の梨を平らげてはおばあちゃんが「おお、まだ食え、まだ食え。」と言って次から次へと梨を剥いてくれました。
 こうして毎日のように大好きな梨をたらふく食べていると、ついに来るべき時が来たのです。

 その夜、僕は梨の食べ過ぎで気分が悪くなり寝つけませんでした。寝る向きを変えても状況は好転せず、やがて僕はトイレで胃液臭ーいすり下ろし梨を次から次へと製造しなくてはなりませんでした。
 次の日から僕の体には梨に対する抵抗が宿っていたため、梨を受け付けない体になってしまいました。
 僕はこの悔しさをおばあちゃんにぶつけるべく、『ウルトラマン』が始まる時間になるとおばあちゃんをなぜか無理矢理部屋の外に追い出してから見るようにしました。
 今となっては、おばあちゃんに対して悪い事をしたなという思いで一杯ですが、梨は今でも嫌いです。

 (ラジオネーム:悔いなし)

 僕が長野の山奥に住んでいた中学校2年の夏休みの事です。
 僕は東京に引っ越した友人の家に遊びに行きました。群馬に住んでいる友達と、かねてより計画しており、彼らと合流して東京に行きました。
 僕らは再会を喜び、初めての東京で色んな所を見て回りました。色んな物を買い込みました。
 楽しい一時が過ぎ、別れの時はすぐやって来ました。上野から長野までの切符を買おうという段になって、重大な事に気付きました。帰りの電車賃が足りないんです。ショッピングに興じている間に帰りの電車賃には気を配ってはいたのです。そして帰りの電車賃だけは残っているはずでした。
 しかし少々の計算違いをしていたのか、それともどこかで落としてしまったのか、100円足りません。しかも金を貸してくれない無慈悲な友人達。「今度、いつ会って返してもらえるか分からないから」という理由でたった100円を工面してくれないゲストモア。さらに「じゃあいいじゃん、キセルしなよキセル。」と無責任な事をほざきます。
 正義感が強く、悪事を許さなかった中2の当時、その言葉は僕の自尊心にアイスピックで突き刺すがごとく傷を付け、「じゃいいよ、お前らなんかにゃ頼まないよ!」と吐き捨て、怒ってその場から立ち去りました。そうしたからといって、何が解決するわけでもありません。

 5分くらい経って再び券売機の所に戻ってみると、薄情な友人どもはその場に既にいませんでした。どうやら僕を置いて電車に乗ってしまったようでした。
 言い忘れてはいましたが、当時僕は学校に通うための定期券を持っており、それを見せればノープロブレムで降りる事は出来るのです。
 僕は少し考えましたがその結果、自分の降りる駅の一区間前までの切符を買い、キセル乗車をする事にしたのです。

 電車の旅は順調でした。車掌さんが来れば手持ちの切符を見せ、バレることはありません。
 しかし問題なのは2度の乗換の後、僕の持っている切符の有効区間を過ぎてからでした。遠距離切符というのは、大体3から5駅ぐらいが一区間になっているため、自分の家のある駅までに3駅間を凌がなければなりません。
 まさかここまで来て車賞さんが現われる事はあるまいと思っていました。

 が、そのまさかは起こりました。
 自分の降りる駅のちょうど一駅前、3両編成のディーゼル線の真ん中の車両に乗っていた僕の目に、後ろの車両から今まさに車掌さんが入ってこようとしているではありませんか。ひたすらどうしようかと考えました。
 考える間にも車掌さんは、他の客の切符を確認しながらこっちに近づいてきます。
 そして車掌さんが「切符を見せて頂けますか?」というようなニュアンスの事を、僕にとっては死刑宣告として言い渡しました。
 打つ手無し、と覚った瞬間、僕は走っていました。前の車両に向かって走っていました。僕のキセル乗車に気付いた車掌さん改め死刑執行人は、後ろから追ってきます。
 僕は前の車両へ前の車両へと移動し、一瞬途方に暮れ、そしてすぐ右手にトイレを発見しました。
 ここで凌ごう。
 僕は迷わずトイレのドアを開けました。こうすることで僕はウンコを我慢していた事に出来ると瞬間的にずるい計算さえしていました。トイレに突入して慌ててカギをかけました。
 そのドアをどんどん叩きながら、車掌さんは「お客さん?お客さん?」と声を荒げています。
 ひとまず安全圏に入った僕は少しホッとしていました。

 次の瞬間、恐らく僕がトイレに突入して2、3秒のことでしょう。
 「んだよ、お前。」という声が室内から聞こえました。
 刹那的な安心感が即座に吹き飛び、びくりとそちらを向くと、僕のお隣にケツを丸出しにした高校生のお兄さんが。突然の事に向こうもビビってはいましたが、僕もそれ以上にビビりました。
 瞬間的に驚きから立ち直ったお兄さんは、僕を無理に見上げるような視線で睨んで、「何やねん!」
 あまり友好的ではないご様子でした。
 前門の車掌さん、後門の不良さんというその絶望的な状況で、僕は頭が真っ白になり、次の瞬間僕は失禁してしまっていました。

 その後の事はよく思い出せません。おそらく記憶の扉のレベル3電子ロックの番号を僕の中の記憶の番人が変えてしまってまで隠しているのでしょう。
 思い出せる範囲で続きを申し上げますと、僕が降りるはずだった駅の駅長室で、僕の隣に母が座り、テーブルを隔てた対面に駅長さんが座っているというシーンがノイズだらけで現れます。

 (PN:アスタリスク水野)
 97.11.24 放送 (第111回)  
 あれは私が中学生の頃の事でした。
 当時の私はピンク街道まっしぐらで、友達からダビングしてもらった漢ビデオにカモフラージュとして『ドラえもん』と書いたラベルを貼っていました。これがヘブンズゲートを開ける鍵とも知らずに。

 そんなある日の事です。中学校の卒業式を間近に控えた私は、友達と夜遅くまで遊びまわっていて、その日の帰宅時間は午前3時を回っていました。
 そんな時間にもかかわらず、若かった私は寝る前に一踊りしようと思い、テレビにイヤホンをセットして何度も何度も音漏れをチェックして、いざビデオテープを入れようとした時、当時私の一番のお気に入りだった『ドラえもん』のVol.7がありません。
 いやそれどころかVol.1からVol.14の全てがないのです。

 私は眠っている母親を起こし、「『ドラえもん』のビデオテープ知らない?」と聞くと、
 「あっ、あれね。昨日の夜、お父さんが働いてる会社の部長さんとその家族が来て、そこの子供が大のドラえもんファンだという事で、持っていったけど。何も言わないでゴメンなさいね。」
 その言葉を聞いた時、私は走って家から飛び出しました。裸足で。
 そして私は「もう一人で生きていくしかない」となぜか思ってしまい、そしてなぜか海に行って、なぜか一人でひたすら泳いでいました。
 ある程度泳いで海から上がり、時計を見ると時刻は午前7時半。学校へ行く時間です。
 普通の人ならここで『サボる』を選択するのでしょうが、私は3年間無遅刻無欠席と残りあと1週間で皆勤賞を逃すのはもったいないと学校へ行きました。裸足で。しかもびしょ濡れで。

 学校へ着いた僕はとりあえずジャージを着て先生に「お前制服はどうした?」という質問に「クリーニングに出してる」と答え、今日も一日ゆっくり寝て過ごせると思ったのですがそうはなりませんでした。
 1時間目終了後、放送で「3年1組の(僕の名前)、職員室まで。」というものが流れ、その時私は色々とバレたと思い、上履きのまま学校を脱出して駅まで走ってしまいました。
 そして駅の自転車置き場に止めてあった自転車の鍵を破壊し、テイクアウトしてしまいました。
 そしてそのまま札幌市の方向にハリソン・フォードしました。私の住んでいる町から札幌までの約60キロの道のり。全て立ちこぎだった事を憶えています。

 「ここまで来れば大丈夫だろう」と少し安心したのですが、その時になって気付きました。自分が270円しか持っていない事を。
 冷静さを失っていた私は、出来たばかりらしいマクドナルドを見つけ、そこに貼っていったポスターに『開店記念今ならハンバーガー1個80円』と書いてあったのを見て、「1日ハンバーガー1個、3日で3個。270÷80=3.5。」かなりイッてしまった考えが頭の中を支配していました。
 とりあえずハンバーガーを1個ゲットし、久々の食事にありつき、その後やる事もなく適当に辺りをぶらぶらしていたら、あっという間に夜になったのです。もちろん寝る所はありません。
 仕方なく私は、北海道に来た事が無い人でも知っている人は結構多いと思いますが、大通公園で寝る事にしました。

 しかし時期が時期だけに寒くて中々寝つけずにいる、公園の中に怖いお兄ちゃん達が集まってくるではありませんか。
 見つかったら殺されると思った私は、慌てて公園から抜け出したのですが、今度は巡回中のお巡りさんが目の前に立っていました。
 時刻は夜中1時。こんな時間にうろついている中学生をポリスが怪しまないはずはありません。
 もちろん捕まってしまい、色々と取り調べを受け身元が割れ、家に強制送還されました。

 そして「もう帰る事はないだろう」と思った我が家に帰ってきた私を、父は暖かい拳と心に響く「なんてことしてくれたんだ、バカ者!」という言葉をかけてくれたのを今でも憶えています。
 次の日私はカステラを持って部長さんの家に行ったのですが、部長さんは「そういう時期だから」と笑って言ってくれました。

 それ以来、私の『ドラえもん』はタイトルを『ロッキー』と改め、今『ロッキー27』まであります。
 それと、私が学校を抜けた原因となったあの放送は、前日に提出した国語のノートを取りに来いというものでした。
 こんな私はダメですか?

 (PN:裸(ら)になって踊ろう)


 あれは小学校2年生の時です。
 釣り友達だったK君と釣りに行った時、K君が「この『さし』って、大きくなったらどんな虫になるの?」と聞いてきました。
 『さし』というのは釣りのえさに使う虫の幼虫のことで、「図鑑にも載っていないんだけど」というK君の言葉に「バカだなぁ、図鑑に載ってないわけないだろう。ちゃんと目次見て調べたのか?俺が調べてやるよ。」と偉そうに答えていました。

 家に帰って早速図鑑を調べましたが、どこにも載っていません。
 実は、『さし』というのは釣り用語であって、図鑑の目次に釣り用語が載っているはずはないのです。
 釣りをする人なら知っていると思いますが、さし=ハエの幼虫、つまりウジ虫のことなんです。

 次の日K君が「ねえ、『さし』ってどんな虫なのかわかった?」と聞いてきました。偉そうな事を言ってしまった手前「わからなかった」などと言えません。
 「あのねー、あのー、緑色みたいなコガネムシみたいなやつ。」
 「えー、緑色?」
 言ってから「しまった」と思いました。
 緑色のコガネムシ。かなり珍しいじゃないですか。
 案の定K君は「さしを飼ってみる」と言ってきました。
 僕も『さし』が何になるのか多少興味が湧いてきて、それ以前にその場で嘘を白状するのが嫌なので「さしよ死ね、さしよ死ね」と願いながら毎日暮らしていました。
 まあエサが何かもわからないし大丈夫だろうと思い。
 しかしそこはウジ虫、何だって食います。

 数日してK君が大喜びしながら話しかけてきました。
 「ねえ、さなぎになったよ。」
 かなり焦りました。本当の事を言おうとも思いました。
 しかし、このさなぎという言葉が曲者でした。
 当時の僕はさなぎになるという行為はアゲハチョウやカブトムシなどのランクの高い昆虫にのみ許された高等技術だと思っていたのです。
 そしてなぜか高い確率で緑色のコガネムシになるような気がしてきたのです。

 それからさらに数日が経ったある日、K君が静かに僕に近寄り、冷ややかな目で言いました。
 「あれ、ハエになったよ。」
 一瞬、何を言っているのかわかりませんでした。
 「緑色のコガネムシになるって言ったくせに!」
 ここは素直に謝るべきなのですが、まさかハエがさなぎになどなるはずがないという気持ちと、K君の余りの声の大きさにパニックになり、
 「ああ、メスだからじゃん?」と訳の分からない事を言ってしまいました。
 K君は何も言いませんでした。

 今でもK君とは友達ですが、小学校時代の思い出話は一切しません。

 (埼玉県・PN:旅行猫)
 97.11.17 放送 (第110回)  
 あれは今から5年前の秋のある算数というなめた授業が終わって、次の授業が皆が待ち望んでいる体育の授業という時。
 体育の授業はあまり得意ではなかったけど、キックベースは好きなスポーツの1つだったので、いつもより早く着替えて友達たちと早く行く事になりました。
 そして皆でボールを蹴っていると、10分休みが終わって少ししてから僕の腕に時計が付いている事に気付いたのです。うちの学校は、時計など余計なものを体育の授業に付けていたらグランド4周という軍隊並みの事をやらされてしまうので、先生が来る前に教室に戻る事にして、友人のK君とS君と僕とで教室に戻る事にしました。

 そして教室に入って僕の時計を机の上に置いて出ようとした時、K君が「ちょっと待って。ここにサイフ置いてあんぞ。」と言いました。
 僕たち3人は顔を見合わせてその瞬間僕は「誰の?」と聞きました。そうするとS君が「これ、O君のじゃない?」と言いました。O君というのはその頃僕らの間ではお金持ちの1人でした。
 そして僕らは何も言わずにサイフの中身を見ていました。そして中には福沢諭吉1人と夏目漱石がこちらを見て助けを求めていました。僕らに「ここから出して、ここから出してよ。」
 僕らは迷わずサイフごと救出する事にしました。K君のカバンの中に逃がしたあげて、何食わぬ顔で体育の授業に行きました。

 ウキウキしてキックベースをやり終えて、その時間が終わり皆で教室に帰りました。
 そして着替えているとO君が「あーっ、あーっ、サイフがない、ない。」と焦りながら言っていました。
 あるわけはないんです。なぜなら僕たちが逃がしてあげたから。
 その事が大きな問題になってしまい、帰りのホームルームという裁判所で担任の「今出せば許してあげるから」という言葉を無視した結果、担任はキレて持ち物検査をやり出していました。
 もちろん、K君のカバンの中からさっき救出したO君のサイフは出てきました。そしてK君は皆から冷たい目で見られていました。
 僕とS君はK君が言い訳をする前に「お前最低な奴だな!」と言っていました。

 K君に食らった判決は、その後のいじめという厳しいものでした。卒業して中学校に上がってもうだつは上がりませんでした。
 僕らはそれ以来K君と話していません。
 伊集院さん、大丈夫なんでしょうか?

 (PN:リベンジが怖い)


 あれは忘れもしない、小学校3年生の頃でした。その当時、お金だと思っていたおじいちゃんが亡くなってしまいました。
 今となれば祖父のありがたみが分かりますが、そこらへんはガキ、許して下さい。

 お通夜の日、祖父の家に親戚やいとこが集まり、色々と話をしていました。そして夜の7時30分頃、「トランスフォーマーを買ってあげる」という理由でいとこのお姉さんと夜食の買い出しにパルコに行きました。
 当時は『マリオブラザーズ3』が大ブームでした。僕は「もうこんな時間だ、ゲームコーナーには人はいないだろう」と思い、お姉さんに「僕、おもちゃ売場にいるから迎えに来てね」と言い、おもちゃ売場のゲームコーナーに急ぎましたが、もう7時半を回っているというのにタダでできるゲームはどこも子供で一杯でした。
 僕は仕方なくテレビゲームをやっている子供の後ろで待っていました。

 数分経ち、「間もなく閉店の時間です」というようなアナウンスの後、テレビゲームの電源が切れ、子供たちも親に連れられどんどん帰っていきます。
 僕も「早くお姉ちゃん来ないかなー」と思っていましたが、誰も迎えに来てくれません。
 客はほとんどいなくなり、店の人達が各売場に緑色のネットのような物をかけ始めています。僕はゲームコーナーに立ち尽くしていました。そして明かりも少なくなってアナウンスもなくなった頃、店の人と数人の警察官がやって来ました。
 僕はなぜだか怖くなり、家具のコーナーの机の下に隠れました。
 そうです。その人は警察官ではなく警備員だったんです。そんな事知る由もなく、ずっと隠れていました。僕は声を殺して泣いていました。
 何時間、いや気分的には何年か経った頃泣き止み、ぼーっと立っていました。

 そこに、僕にとっては警察官が見回りに来ました。
 僕はもうここから出たかったので、出ていこうとした時、頭にある事がよぎりました。「こんな時間にこんな所にいたら泥棒だと思われる」と思い、僕は精一杯考えました。そして出た答えが、レジの所で待っていれば怪しまれないと思い、棚にあった『マリオブラザーズ3』を手に持ち、レジの前に並びました。
 これで助かったと思ったんでしょう。
 助かりませんでした。
 警備員の目には、僕は万引きだと映ったのでしょう。腕を掴み、業務室へ。
 枯れた鼻の涙をもう一度流し、僕は母親に手を引かれ祖父の家に帰りました。
 業務室での事はあまり憶えていませんが、殺風景だった気がします。

 その後、謝りながら「閉店間際で慌ててたの、ごめんね」とお姉さんは言い、おもちゃを買ってくれました。でも、そのおもちゃでも遊ばなかったし、お姉さんとは会っていません。
 こんな僕でも大丈夫なんでしょうか?

 (PN:ジンクス)


 小学校1年の時でした。
 当時、祖父母の家にさくらんぼの樹があり、ちょうど実がなる季節だったので親父と2キロほど離れた祖父母の家に車で行きました。
 着くと早速親父ははしごを取り出し、1人で樹に上り黙々とさくらんぼを取り続けていました。
 「ぼ、僕にも取らしてよ!」と言うと親父は「あぁ、もう少し待ってろ」と言うので、しばらくじっとしていましたが、30分ほど経っても僕に取らせてくれる気配が無いので腹がたってきました。

 僕は何とかして親父に、僕にもさくらんぼを取らせようという気を起こさせようと思い、親父の同情を誘うように仕向けました。
 そこで僕が考えた事は、祖父母の家から僕の家に向かって逆家出をする事でした。僕がいなくなれば親父は心配して僕を探し出し、さくらんぼが取れない事でそこまで思いつめていた僕に同情してくれるだろうと。
 小1なりに計算し、早速実行しました。家への帰り道の途中で5時のサイレンが鳴りました。
 僕の地元では5時を過ぎても外で遊んでいる子は『悪い子』のレッテルが貼られるので、僕は家に向かって全力で走りました。
 しかし家まではまだ1キロ以上あり、走っても走っても家には着きません。僕を追い越していく車が皆僕に向かって「お前悪い子だぞ、悪い子だぞ、悪い子だぞ!」と言っている気がしました。辺りも段々暗くなってきました。

 僕が不安で泣きそうになっていたその時、親父が車で僕を追い越したかと思いきや、急停止しました。
 車に乗せられ、「何してんだ!」と親父に怒鳴られましたが、なぜかその時僕はこれでさくらんぼが取れると喜んでいました。
 祖父母の家に戻ると、親父よりもさらになぜか祖父に思いきり怒られ、人生を語られました。もちろんさくらんぼは取れませんでした。
 それから自宅へ帰ると母が僕をウェルカムビンタで迎えてくれました。
 次の日学校に行くと、数人の友人に5時以降に外に出ていた事を見られており、『悪い子』としてしばらく生きていくことになりました。

 (札幌市・PN:リサイクル男)
 97.11.10 放送 (第109回)  
 あれは僕が小学校3年生。夏休みに入るちょっと前の暑い日の事だったと記憶しています。
 大親友のM君と学校の帰り道、2人で他愛のない事を喋って歩いていました。
 と突然、M君が叫びました。
 「あっ、あそこにお金が落ちてるよ。」と言うんです。
 100円玉でも落ちているのかな?と思って何気に見てみると、確かにお金でした。しかもそれは1000円札だったのです。
 いつもなら何も言わず懐に押し込んでいたのでしょうが、僕らにとって1000円というのは余りにも金額が大きかったので、2人の話し合いの結果、交番に届ける事になったのです。
 当時の僕たちには、『玉はセーフ、札はアウト』といった感覚があったと思います。
 それぞれ家に帰り、親にその事を告げ、早速家から1番近い駅前の交番に向かいました。

 駅までの距離は3キロぐらいなのですが、当時としてはいつものテリトリーをかなり超えた、ちょっとした冒険といった感じでした。
 最初のうちは2人とも元気で、「この1000円を届けたらお巡りさんきっと喜ぶよ」とか、「持ち主見つからないといいよね」などという楽しい会話がなされていました。
 しかし、夏の暑い日、太陽は段々僕らの元気を無くしていきました。
 そして「何でこんな事しなきゃいけないんだろう。めんどくさいな。」といった考えが2人の頭を横切りました。
 と、そこにまさに砂漠の中のオアシスといった感じの、1軒の駄菓子屋さんを発見しました。しかし僕らはお金を持っていません。
 いいえ、無い訳ではありません。
 僕とM君は3秒ほど見つめ合った後、何にも言わずにその駄菓子屋に入っていました。
 その駄菓子屋で僕らはまさにアラブの石油王でした。手始めに、いつもは手が出ないような100円のガチャガチャを。一度やってみたかった、あんこ玉16個乱れ食い。そしてすかさず粉末ジュースを飲むといった、小学生レベルの夢を次々とかなえていきました。
 そんなこんなで時間を潰し、ちょうど駅を往復したぐらいの時間を見計らって家に帰りました。
 僕はお金を使い込んだ事がバレないように、必要以上に事細かに「ウンウンウン、書類にサインをしたんだよ」だの「お巡りさんが誉めてくれた」だのといった当時の知識目一杯の嘘をつきました。

 事件はその1年後の夏休みに突然訪れました。
 ぼんやりした顔で朝食をとりながらテレビを見ていると、そこでは中学生が200万円を拾って交番に届けたというニュースをやっていました。
 何気にそのニュースを見ている僕の隣でうちの母親が「そういえば警察に届けた1000円、あれから連絡がないけどどうしたのかしら。」という言葉が。
 その瞬間、僕の軽く封印したはずの記憶の扉がパカッと開きました。
 「ヤバい、あん時のお金はもう使っちゃった。何とか話題をそらさなくちゃ」
 と思った僕はおもむろにテレビのチャンネルを変えました。
 しかし、親の方はそんな僕の考えなどお構い無しに「もうかれこれ1年ぐらいになるんじゃない?」などとほざいております。
 PTAのクラス代表を務め、集会などでは猪の一番に発言し、皆からは『斬り込み隊長』と呼ばれていた僕の母親の行動は早く、早速一緒だったM君の親に電話をして対応を協議しています。
 「大変な事になった。どうしよう。」と思って電話の内容をこっそり盗み聞きしていた僕に衝撃の言葉が聞こえました。
 「それじゃ警察に連絡してみましょうよ。」
 ガーン。
 この後、皆さんはどのような事を想像するでしょうか。多分、その使い込みがバレて親に説教を食らったというような事を想像するでしょう。
 しかしそうはなりませんでした。今になってみれば、むしろそうだった方が僕の心の傷はもっと軽いものになったかもしれません。

 うちの母は早速その交番に電話をかけました。そしてそのような記録は全くないという事を聞かされました。もちろん僕たちが使い込んでしまっているのですからそんなものあるはずもありません。
 しかし母親は納得せず、その交番に僕とM君、そしてM君の親を連れ立って乗り込んだのです。
 最初のうちはやんわりと対応していたうちの母親も、警官の「子供の言う事ですから」という一言に逆上。「子供だと思ってバカにしないで下さい!」だの「それじゃあうちの子が使い込んだとでも言うんですか!」だのと言って、そのお巡りさんに詰め寄ります。
 「書類上のミスがあったんじゃ…」と言う警官の言葉を無視して、ヒステリックに怒鳴り散らすうちの母。そんなおばちゃんパワーに押される形で、その警官は平謝りに謝っています。
 そんなやりとりがなされている間中、僕は心の中で「ごめんなさい、お巡りさん。ごめんなさい。」という言葉をずっとリフレインしていました。

 その後、僕の家に菓子折りと鉛筆1ダースを持って、お巡りさんが謝りに来ました。
 今でもその鉛筆は使わずに、僕の想い出ボックスの中にひっそりとしまってあります。そして時々それを眺めてはお巡りさんが帰り際に僕に向けた視線を思い出します。
 今でもお巡りさんを見かけると、あの視線が僕を見つめているような気がしてなりません。

 (埼玉県・PN:白魚の踊りぐそ)


 あれは中学校2年の夏休みの事でした。
 親友だった双子のS兄弟が長野に転校してしまうというので、僕の6畳間で夜を語り明かす事になりました。
 僕たちはトランプや桃太郎電鉄などをしながら最後の夜を楽しんでいたのですが、当時クーラーのなかった僕の6畳間は3人の熱気で溢れかえり、窓を全開にしても扇風機を回しても、ジュース、アイスでも凌げないほどの猛暑となっていました。
 午前3時頃、限界点を超えた僕らは、プールに行く事にしました。
 この時間に開いていてタダで入れるプール。そうです。学校のプールです。
 S兄弟は「水着はもう引越しの荷物の中だよ」と言ってましたが、「裸でいいじゃん。こんな時間だから大丈夫だよ。」と言うと2人は納得し、3人は意気揚々と母校の小学校のプールへと向かいました。

 プールに着いた僕らは早速全裸になって暗い水面へ飛び込みました。
 闇夜のプールではしゃぐ事数分。突然、「誰だー!」という声と共にスポットライトが突きつけられました。
 僕らは着るものも着ず、急いで逃げました。しばらく逃げて息をついていると、S兄の姿が見当たりません。僕とS弟はとりあえず学校に戻ってみました。
 服を取りにプールに戻ろうとすると、プールサイドにS兄の姿が。
 彼は服を取ろうとした所を捕まったらしく、手に服を握り締めたまま警備員に全裸で説教されていました。会話は聞き取れませんでしたが、懐中電灯でライトアップされたS兄の顔は明らかに泣いています。
 「助けなきゃ」と思った僕とS弟は警備員をおびき出し、その隙にS兄を逃がすという作戦を立てました。そして僕らは力一杯「キャー!」と悲鳴を上げました。
 ところがおびき出されたのは警備員さんではなく、付近を巡回中だったお巡りさんでした。
 「どうした?」とゆっくり近づいてくる警官を見ながら、僕は「待てよ、僕が警官だったら全裸でびしょ濡れの少年が夜中に奇声を発しているのを見たらどうするだろう?」というような事がチラッと頭をよぎりました。
 次の瞬間、僕は走っていました。

 S弟を置き去りにして。

 振り返ってからスタートの遅れたS弟は警官に捕まっていました。
 僕はそのまま一心不乱に走り続けました。

 明けて、次の日の夕方、僕は2人の見送りに行けませんでした。
 その後、S兄弟の自白と現場に残った衣服から僕の事もバレ、親、学校、警察から怒られた挙げ句、悲鳴のせいで飛び起きて窓から偶然見たという同級生に、全裸でランニングの姿を目撃され、1人残った僕は学校で変態扱いを受け続けました。そしてそのまま暗い気持ちで年末。
 僕は、見送りに行けなかった事とこれら全ての事についての詫び状を兼ねた年賀状を長野に住むS兄弟に送りました。
 翌年、返事は来ました。
 そこには妙に他人行儀な感じで「あけましておめでとう 来年からは年賀状を送って頂かなくて結構です」。
 そして小さな文字で「逆メロス」とだけ書いてありました。「逆メロス」の意味は、当時中学校で勉強していた『走れメロス』から推測できます。

 これ以来、毎年夏が来る度に、S兄の泣き顔と僕が走り出した時のかすかに聞こえたS弟の「あっ。」という声が思い出されます。
 長野オリンピックが見たくても見られません。
 僕は大丈夫なんでしょうか?

 (東京都世田谷区・PN:あの日に帰りたい)
 97.11.3 放送 (第108回)  
 あれは小学校4年の時でした。
 僕はクラスで『生き物係』という係をしていました。僕のクラスでは金魚を飼っていました。お祭りの金魚すくいで捕ってきたような、安っぽい金魚でした。
 そしてある日、その中の1匹がまた死んでいるのが見つかり、担任の先生が「昼休みに埋めてきてね」と僕に言いました。
 埋葬も生き物係の重要な仕事なんです。初めの頃は石でお墓を作り、花まで添えていた僕ですが、いいかげんめんどくさいと思ってしまいました。
 そして昼休み、僕は金魚を埋めに行くふりをしてこっそり流しに捨ててしまったんです。
 「よし、見られてないな。バッチリだ。」
 僕はスナック感覚の罪悪感を覚えながら、皆がサッカーをしている校庭に向かいました。
 昼休み、5時間目と何事もなく過ぎ去りました。
 しかし掃除の時間、流しの方から女子の悲鳴が上がりました。
 そうです。金魚は完全に流れていなかったんです。小4にもなっておっきな物は流れないという排水溝の仕組みを理解していなかったんです。
 そのフロアで金魚を飼っているクラスはうちだけだったので、犯人はすぐに割れました。

 その日の『帰りの会』という名の学活で、僕は皆から責められ、泣きながら生き物係の辞任を表明しました。
 次の日、僕には『金魚殺し』という名が付いていました。僕が金魚を殺したわけではないのです。埋めなかっただけなのです。なのに、この時点で僕は金魚殺し。
 心にかなりの傷を負っていたのですが、まさかの第2話がやってきたのです。

 この事を学年文集に書いた奴がいたんです。
 その文集は泣きながらドブに捨てたので手元にはありませんが、確かタイトルは『かわいそうな金魚』というものだったと思います。
 それを書いた奴はコケくさい水槽に近寄ろうともしない女子だったのですが、いかに自分が金魚を可愛がっていたのかを書き連ね、挙げ句に金魚が死んでいたことは書かず、僕が流しに捨てた事だけを実名で書いていたのです。
 これでは僕は極悪人ではないですか。担任の先生も何でこれを載せんのかなー?
 近所で優しい動物好きの良い子で通っていた僕には致命傷となりました。

 あの日から僕は大人の階段を自力で上るのをやめ、時の流れという名のエスカレーターに乗って今に至っています。

 (埼玉県浦和市・PN:旅行猫)


 小4の3学期の初めに東京から山口の田舎に引っ越した僕は、学校で注目の的になり、『都会人』だとか言われましたが、僕の住んでいた所は東村山市だったので、そんなに都会ではありませんでした。
 でも、その事は言えません。「文京区から来た」と言っていました。
 その学校の4年生のクラスは2クラスしかなかったのですが、その2クラスの男子全員が僕の所に集まってどうでもいい質問をしてきます。
 それに耐えられなくなった僕は走ってその場から逃げ出しました。すると皆が「足速いねー、50m何秒?」と聞いてきました。
 僕はその当時から足は遅い方で、50mのタイムなんて憶えていなかったので適当に「50mはわからないけど、80mは10秒だよ」と答えてしまいました。もちろんウソです。後でよく考えてみると、そんなに速く走れるはずはありません。
 すると皆は「すげーよ」と口を揃えて言いました。

 次の日学校に行くとその事が学校中に広まっていました。上級生の人が僕の所に来て「お前、すごいんだって?今度競争しようぜ。」と言われる始末。
 その時になって僕は事の重大さに気づきましたが、もう遅いのです。僕の足並みに遅いのです。
 でも4年生の時はタイムを計るような行事がありませんでした。そして5年生になった5月頃にタイムを計る時間が来ました。
 あれから5ヶ月は経っているので皆は忘れていると思いましたが、世の中そんなに甘くありません。
 クラスで1番速いS君が「俺じゃ役不足かもしんないけど、一緒に走ってよ。」と言ってきました。
 もう逃げられません。人々がこの壮絶なバトルを見ようとどんどん集まってきます。ここで50m10秒強の走りを見せたら僕は終わりです。
 そしてスタートの時はやって来ました。
 ヨーイ、ドン!

 僕は転びました。わざと転びました。派手に転びました。そしてオーバーアクション。
 当然保健室に運ばれる僕。
 心配する群集。
 僕の作戦は成功しました。
 僕は卒業まで足の故障を理由に1度も走りませんでした。そして広島に引っ越しました。

 伊集院さん、僕は学校中の人を騙してしまいましたが、大丈夫なんでしょうか?

 (PN:鳥かごの鳥)


 あれは僕が中学校1年生ぐらいの時の事でした。
 僕は幼稚園ぐらいの頃に親父の秘蔵のエロチックな漫画を見つけて以来、そういうキャラクター付けになっていたので、中学校に上がる頃には頭の中は珍奇な妄想で一杯でした。
 当時の僕は溢れるピンクな思いを抑え切れなくなってしまい、それをオリジナルのイラストノベルにしていました。内容は凄腕のエージェントが尋問と称して女子高生に色んな事をするといった、ものすごく変態的なものでした。
 しかし僕の中では結構良い出来で、捨てるのが惜しくなった僕はそれをトイレの棚の上に隠しておきました。
 もったいないと思って。
 それが間違いの元でした。

 1週間ぐらい経ってちょっとその事を忘れかけていた頃、兄と弟が僕の事を呼んでいるので行ってみると、明らかに僕のタッチで描かれたあのイラストノベルを持ってこっちを見てるじゃないですか。しかも半笑いで。
 「こんなもん見っけたんだけど。」
 「な、何それ?誰が描いたんだろうね?」
 そう言うと、僕は足早に自分の部屋に帰りました。
 流れる脂汗はしばらく流れ続けていました。

 (北海道・PN:エロティカルファイター山本ゴンザレス)
 97.10.27 放送 (第107回)  
 あれは僕がまだ幼稚園に通っていた頃の事です。
 ある日、友達の伊藤君が「僕、ファミコン買ったんだー。スーパーマリオやりに来ない?」と僕と小沢君を誘ってくれました。
 次の日曜日早速行く事になったのですが、伊藤君の家は結構遠いです。しかも菊組のよい子のお約束の7つのうちの1つに、『自転車は家の周りでしか乗ってはいけない』というのがありました。幼稚園児の僕らにとってそれは法律です。仕方なくとぼとぼとぼとぼ歩いて行きました。

 1時間ほど歩き、伊藤君の家に着きました。初めてなのに迷いませんでした。
 僕らは早速、伊藤君のマリオをやらせてもらいました。「キノコを取るといいよ」と言われた僕は、最初のクリボーを掴んで死にました。小沢君も奴には勝てませんでした。
 その後、伊藤君のマリオショーを8面の4クリアーまで見せられ、2度と僕らの番は来ませんでした。
 幼稚園児に取って帰宅の時間が来るのは早すぎます。僕らは帰る事になりました。
 しかし、やっぱり帰る道が良く分かりません。小沢君の記憶と2人のカンに全てを任せ、僕の家に着きました。
 でも、小沢君の家はもう少し行かなければなりません。
 「わかる道まで着いてきてよ」という言葉を僕は聞こえなかった事にして、「じゃあね」と言い残して家に入りました。僕もそこから帰ってこれる自信はなかったのです。
 すごく不安な顔をした小沢君は、1人で歩いて行きました。

 食事を済ませた僕は、窓の外を見ました。そこには人影が3つ。1つは小沢君でした。2人の中学生ほどの男に囲まれていました。
 そしてほどなく、3人はどこかに行ってしまいました。
 「小沢君が死んじゃう。良くて半殺しだ。」
 僕はそう感じました。
 そして、送っていってあげなかった事と助けに行けない自分が悔しくてトイレの中で泣きました。

 翌日、小沢君は生きていました。僕は、
 「昨日の2人は何だったの?何だったの?」と聞きました。
 小沢君は言いました。
 「僕が帰れなかった事知ってたんだ。」
 あの2人は親切に小沢君を家まで連れていってくれたそうです。

 小沢君はそれから3年後引っ越しました。それっきり小沢君には会っていません。でも年賀状は毎年届きます。
 奇麗事は言いません。僕は小沢君に会いたくないです。2度と会いたくないです。
 なぜなら、僕の小沢君はあの日死んでしまったはずだからです。

 (PN:コリモツ紳士)


 あれは確か4年前、僕が小学校6年生の時のことです。僕にはI君という友達がいました。
 僕はその頃、成績が学年トップ。I君はスポーツ万能でサッカー部のエース。僕らは男同士なのにも関わらず、交換日記を付けていたほどはちきれんばかりの親友だった事を憶えています。
 僕らは趣味も同じ、身長も同じ、給食を食べるスピードなんかも同じ。そして、好きな人まで同じでした。
 さわやかスポーツマンのI君は僕よりモテていましたが、僕らの共通の好きな人Sさんに関しては、僕の方が有利な点がありました。僕とSさんは通学路が一緒だったのです。
 どうでもいい事に聞こえるかもしれませんが、僕らとSさんのクラスは違っていたので、登下校の時ぐらいしか話をするチャンスはなかったのです。もちろん小6の頃の事ですから、「一緒に帰ろう」なんて恥ずかしくて言えませんでしたが、大抵偶然会ったふりをして一緒に帰っていました。
 これだけでも僕とSさんが結構いい感じだった事を分かって頂けると思います。いや、分かって下さい。

 そしてあの日。
 珍しく男友達のT君と2人で帰っていると、後方にSさんを確認した僕は、わざと立ち止まってみたり、石ころを蹴りながら歩いたりして歩みを遅くしていました。
 そして家が並んで建っている通りに差し掛かった時、突然T君が「ピンポンダッシュしよーぜ」と言いました。
 その家々を見るとどの家も門の外にベルがあって、まさにピンポンダッシュには格好の場所です。
 「よし、やるか。」
 僕とT君はランドセルをバタバタ揺らせながら走りました。
 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポーン。
 6連射です。(注・伊集院さんは5回しか言いませんでした)
 僕とT君は安全な場所に隠れて、家から人が出てくるのを見ようと思いました。
 遠くの安全な場所まで走って一番最後にベルを押した家をチラッと見た時、僕は青ざめてしまいました。

 なんと、Sさんが捕まってるではありませんか。
 やがて他の家からも人がぞろぞろ出てきて、Sさんを取り囲んでいます。
 僕はピンポンダッシュの誘惑ごときで後方にいたSさんの存在を忘れていた自分を絞め殺したい気持ちにかられながらも、出て行く事も出来ずただぼーっと見ていました。
 隣でT君が「誰か捕まってやがるぜ。」と言っていましたが、怒る事も出来ません。遠くからだったのでSさんの表情までは良く見えませんでしたが、しきりに目の辺りを擦っていました。

 どうしよう。どうしよう。

 僕の頭の中では、担任の先生に良く似た悪魔がグルグルと回っています。
 次の瞬間、僕は走りました。

 Sさんとは逆の方向に。

 T君は「どうしたんだよ」と言って迫ってきましたが、涙と鼻水でグショグショになった顔を見せたくはなかったので、さらにスピードを上げました。

 その後は良く憶えていませんが、辺りが薄暗くなった頃、チーズ蒸しパンを握り締めて家に帰った事だけは憶えています。
 小学生だった僕は、お金を持っていなかったはずなのですが、なぜチーズ蒸しパンを持っていたのかは未だに僕の中の七不思議の一つとなっています。
 少し落ち着いた僕はいつも通りI君との交換日記を広げました。
 しかし、交換日記に書くための授業中一生懸命考えたネタも、既に頭の中で真っ白になっていました。今も変わらぬ僕の汚い丸字に比べて整い過ぎたI君の字は、僕を軽蔑しているようにさえ思えました。
 そしてあっという間に卒業式が来て、成績の良かった僕は1人私立の中学校に行きました。

 I君とSさんは同じテニス部に入り、仲良くやっているようですが、僕は昔のように悔しいとも思わなくなっています。
 ただ、捨てたいのだけれども捨てていないあの交換ノートだけは、あの日のまま僕の机に置いてあります。

 (PN:キャライア・マリー)


 小学校の時でした。
 ドイツからの帰国子女の私は、学校一の国際派と自称していました。ちょっとしたことで、「これはね、ドイツ語で〜って言うんだよ。」と言って周りが感心するのを見て得意になっていました。
 そんな時、M君が「うんこってドイツ語で何て言うの?」と聞いてくるではありませんか。私はそれを知りませんでした。
 しかしここで答えないという事は私のプライドが許しません。
 どうするか迷った挙げ句、私はウソの自分語を彼に伝えました。
 彼はそれを信じ込んで、その時はそれで終わりました。
 しかし、気付かないうちに私はねじれた大人のらせん階段を上らされていたのです。

 次の日、取り返しの付かない事になっていました。
 自分語、流行ってたんです。
 私は「皆どーせドイツ語なんかわかんねーんだ。なー、わかんねーんだ。」と自分に言い聞かせてビクビクしながら暮らしていました。
 しかし最悪の事態が起きました。男子生徒の約4分の1が、文集にその事を書くと言ってきたのです。しかもごていねいに私の名前も出して。
 こりゃあ親にバレる。
 怖くなった私は、ウソをついていた事を泣きながら、泣きながら皆の前で白状しました。
 私は親にバレないのと引き換えに、『ニセドイツ』と卒業式まで呼ばれ続けました。

 (北海道旭川市・たけひと)
 97.10.20 放送 (第106回)  
 誰でも小さい頃、物がなくなるとすぐ人のせいにしてしまった事があると思います。僕もその1人でした。
 小学校5年生の時、初めて買ったシャーペンがなくなりました。僕は、「誰かに盗られた」と大騒ぎ。クラスの人の「ちゃんと探したのー?」の言葉も「探したよ!」と言って取り合いませんでした。
 誰かが「Sが盗ったんじゃねーの?」
 当時クラスでも目立たなかったS君。本人の「違うよ、違うよ。」の声もかき消され、S君のせいになってしまったのですが、学級委員の「学級会で話し合おうよ。」の意見にその場は収まりました。

 昼休み、ランドセルから教科書を取り出そうとした時、ランドセルの底に何かあります。

 …シャーペンでした。

 一瞬にして青ざめました。
 取り返しのつかない事をしてしまったという思いに、バレた時の皆の反応が怖くて怖くて、更に取り返しのつかない事を…。

 …S君のランドセルに入れてしまいました。

 学級会の時、潔白を証明するため机の中の物とランドセルの中身を出すS君。
 当然出てきます。
 出てきてしまうのです、シャーペンが。

 S君はクラスの皆からストレートに「泥棒」と言われました。
 いたたまれなくなった僕は、「他の誰かがこっそりとS君のランドセルの中に入れたんじゃないの?でなきゃ、S君が自分から出すわけないじゃん。」と言いました。
 だけど皆小学生。結局S君は泥棒になりました。
 しかしS君は僕を慕ってくれて親友になりました。

 あれから10年。
 成人式に行けません。

 (東京都あきる野市・PN:卑怯者)


 小学校6年生の時の話です。当時の僕の趣味はマンガを描く事でした。
 ある日、消しゴムを買いに近所の文房具屋さんに行くと、店の入口にマンガに最適のペン先、1個80円と書いてある紙と共に憧れのペン先が箱に山積みにされていました。
 それを気にしながら中で消しゴムを買い、店を出ようとした時、ペン先が僕を呼んでいました。
 しかし、僕の所持金はお釣の40円だけ。

 頭の中で悪魔くんが「ずいぶんたくさんあるねぇ、ペン先。こんなに一杯あるんだから1個もらっちゃおうか?」と語りかけてきたのです。
 しかし天使くんもいます。「だめだよ!文房具屋のおばあちゃんが泣いちゃうぞ。」と止めに入ってきました。
 僕はどっちの言う事に従うべきか迷いました。そうこうしているうちに頭がシビれてきました。
 気がつくと、僕は自分の部屋にいたのです。
 その時初めてわかりました。さっきの闘いはどっちが勝ったのかと。
 僕の手にはペン先が握られていました。

 しかし、
 「これは神様からのプレゼントなんだ。」
 そう思った僕はそれを使ってマンガを描く事にしました。
 ところが、大変な事に気付いたんです。そうです。ペン先があってもペン軸とインクがないじゃないですか。
 僕の中の小さな悪魔には「ペン軸とインクもないと描けないねぇ。もらっちゃおうか?」ここまで言う力はありませんでした。
 呆然とペン先を見てるうちにだんだんと自分のした事が怖くなってきました。
 「どうしよう、バレたら死刑だ。」
 そう思った僕は翌日再びその文房具屋さんに行きました。
 なんとかバレずに罪を償う方法はないかと考えた結果、僕はある事を実行しました。

 この日は500円持っていたので、まず150円のボールペンを買い店を出ました。そしてすぐ店の中のおばあさんの所に戻り一言。
 「おばあちゃん、お釣が100円多かったよ。」
 するとおばあちゃんは「おお、そうかい。」と言い、僕から100円を受け取りました。もちろん、元々お釣はピッタリだったんです。
 しかしこれで罪は償えたんです。償ったどころか、20円の利子を付けました。心晴れました。

 堂々と店を出ようとした僕におばあさんは言いました。
 「坊やみたいな正直な子は珍しいねぇ。偉いねぇ。」
 僕は情けないのと申し訳ないのとで少し泣いてしまいました。そして心で確認しました。
 「あれは万引きじゃない。だって店を出る時心の中で「お金は明日持ってくるから」って言った、言ったよ言った、そう言った。その証拠に今日利子をつけて払ったもん。何の問題もない。」
 ところが問題は1つ。

 この500円は母親の財布からだまって持ってきたということです。

 伊集院さん、僕は大丈夫なんでしょうか?
 あの日から僕は大人の階段を非常口から上ってます。

 (PN:星のゲーマー)


 あれは、私がまだ幼稚園の頃の事です。
 ある日幼稚園での意味のない事が一通り終わり、後は帰るだけになった時、どこからか女の子の泣く声が。どうやら、例の黄色いバッグの肩にかける紐が切られているらしい。
 当然大問題です。

 先生はクラス全員を円形に座らせ、「誰がやったの?この切り口はハサミの切り口よ。犯人が出てくるまで帰らせないわよ。」とわめいていました。
 30分ぐらい経った頃でしょうか、私が手を挙げました。
 当然先生からは往復ビンタをもらい、女子に無理矢理謝らせられ、クラスの皆から冷たい目を向けられました。
 理由を聞かれた時、私は言えませんでした。なぜ言えなかったのかは言えます。

 言えなかった理由は、
 「お腹が空いてきたし早く帰りたいなぁ。先生は白状すれば怒らないと言ってるし、いいや。オレがやったことにしよう。」

 先生はものすごく怒りました。
 以来、大人は皆ウソつきだと思うようになり、僕はいじめられっ子になっていました。

 (埼玉・PN:ゴスマニア46セブン)


 あれは今から4年前、僕が小学校6年生の時の事です。
 僕は当時、尊敬していたムツゴロウさんのようになりたいと、飼育委員会の委員長に立候補しました。
 その時の張り切りようときたら凄いもので、下級生に無理矢理『ムツゴロウJr.』と自分を呼ばせていました。

 そんなある日、学校で飼っているチャボの夫婦に一羽のヒナが産まれました。当然このヒナに対する愛情は物凄いものでした。
 忘れもしません、6月12日の日曜日が訪れました。僕は母親に「僕はヒナの世話をしてこなきゃならないから」と朝6時に家を出ました。
 いつものようにヒナに餌をやったりして世話をしていました。
 ふと、ヒナを水飲み場に連れて行ってあげると、突然おしっこがしたくなったのです。
 少し離れた場所で放尿し、そろそろヒナを籠に戻そうと振り返ると、ヒナがいない。
 しかし、ヒナの泣き声はします。はて?

 そうです。ヒナは下水に流されたのです。

 僕は耳を通っていくヒナの泣き声に耐えられなくなってきました。夢中で蛇口をひねり、ヒナの声が聞こえなくなるまで水を全開にしてしまいました。
 その日の事は余り憶えていませんが、晩飯がどんぶり物だったことだけをよく憶えています。
 翌日校長先生から「チャボのヒナが行方不明になった」という話が全校生徒に聞かされました。

 伊集院さん、こんな僕では大丈夫なんですか?
 その事件の後、飼育委員はブッツリと辞めてしまいました。
 大丈夫なんですか?

 (千葉県・良太)
 97.10.13 放送 (第105回)  
 あれは私がマジメ君だった小学校3年生の時の事です。
 マジメ君にしかわからないと思うけど、マジメ君という奴は周りの友達や先生に「真面目真面目」と言われ、ある種のプレッシャーのようなものをかけられ、自分は真面目でなければいけない、自分はマジメ君なんだと思い込んでしまい、己というものを殺して真面目になりきろうとするもんなんです。私も当時そう思い込んできた1人でした。

 そんな私の中にその頃、「マジメ君は勉強・運動両方の面で常に見本にならなくてはいけない」という項目がありました。私は幸い与えられた仕事をこなす能力は人よりも優れていたので、勉強の面では大丈夫でした。
 かといって、運動の面はどうかと言えばあまり悪いわけではない、どちらかと言えば良い方でしたが、たった1つ出来ない事がありました。
 それは水泳でした。昔海で溺れかけて以来、私は水恐怖症で、水の中で目を開けることも出来ませんでした。
 しかしそんな事は周りの友達、そして先生はつゆ知らず、「まこと、お前は何m泳げるんだ?」とか「まこと君なら50行くよね。」こんな事を言い出す始末でした。先生に至ってはこの事を聞いて「それじゃあ、まことに初めにお手本を見せてもらおう。」とか言ってるではないですか。心の中では「どうしよう」と思っていながらも、顔では自信満々のマジメ君キャラを貫き通していました。

 体育の授業は5、6時間目。私は給食の時間に色んな事を考えました。急にお腹が痛くなって早退しようとか、今この場で倒れて病気のふりをしようとか、色んな事を考えましたが、給食もあっという間に終わり、すぐに体育の時間はやって来ました。
 私は海水パンツになり、シャワーを浴び、腰洗い漕に浸かって出てきた時、とっさに「先生、トイレに行きたいです。」と言ってしまいました。
 先生は「行ってきなさい」と言い、私はとりあえずトイレに駆け込みました。トイレの中で私は何が何だかわからなくなってしまい、とりあえずトイレの小窓から逃げてしまいました。それから先はあまり憶えていません。
 ただ気がついた時、僕は海パンで、辺りは真っ暗で、夕方6時になるとチャイムが鳴るスピーカーから何かが放送されていました。

 耳を澄まして聞くと、「S市市役所からお知らせです。今日午後1時30分頃、S市に住むまことくん(8歳)が通っている小学校から行方が不明となっています。見かけた方はS市警察署にご連絡下さい。服装は海水パンツ、黄色の水泳帽です。」と言っているではありませんか。
 私は事の重大さに気付き、その場から家に帰ろうとしましたが、今どこにいるのかもわからなくなってしまっていて、その場で泣いていました。
 何分か経って婦人警官が偶然私の事を見つけてくれました。その婦人警官と一緒に警察署に向かう途中、周りの人達は私を見てさっきの放送の子だとすぐわかり、「よかったねー、よかったねー」と言ってくれました。

 (PN:北条院まこと)


 6年前、中学校2年生の時です。親の仕事の都合上で引っ越しをしました。
 そして引越し先の中学校の初めての授業で、担当の先生が僕をまじまじと見ると、僕に話しかけてきました。
 「君か、転校してきたのは?」「はい。」「そうか。で、そうだなー、このクラスで誰が一番かわいいと思う?」と突然聞いてきました。
 僕は正直困りました。クラス全員がはっきりと耳には忍びない顔をしていたので、とっさに僕は「そうですね、どんぐりの背比べ。」と答えてしまいました。

 その途端、クラスがうるさくなりました。自分は「しまったと思いましたが、後の祭りでした。
 「ああ、このクラスでいじめられっ子は自分だ…」と思いました。
 が、何と話は別の方向に進んでいきます。
 騒いでいた理由は、クラス全員「どんぐりの背比べ」の意味がわからなかったからでした。そして、それに気付いた僕は幻滅しました。
 ちなみに、僕のその学校での卒業文集の作文の題名は、『何もなし』でした。

 (東京都・PN:とたん屋根)


 あれは小学校4年生のバレンタインデーでした。
 僕と親友のM君は小学校3年まで一緒のクラスで、結構仲の良かったSさんをお互いに好きだという事も知っておりました。
 当時根拠のない自信に満ち溢れていた僕は、もしかしたらSさんからチョコをもらえるかもしれないと思い、朝いつもより丁寧に髪を整えてきたのを思い出します。

 僕とMはいつも通り一緒に学校に行き、下駄箱に何もないのにがっかりしながらも何でもなかったように教室に入って行きました。
 クラスでも人気者のU君は、机の周りに2、3人の女子に囲まれてチョコをもらっていました。それを横目に、僕たちは前後の席だったのでそこで女子やU君の悪口を言っていました。
 そしておもむろに机の中に手を突っ込むと、教科書と違った箱のような感触が。

 「チョコだ…。」

 心の中で『俺祭り』の始まりを知らせるための花火がポンポンと勢い良く鳴り響く中、親友のMが「どうかしたの?」と尋ねてくるので、「ここでさとられたらなんかまずい」と思い、「何にも。」と答え、その放課後、僕は掃除当番であるのも忘れて1人早歩きで帰宅。
 母親が「どうだったの?チョコは。」と聞くので、ここで大騒ぎしたら僕の自尊心が傷つくので「あ、1個ね。」とさも当たり前のように言って、自分の部屋に閉じこもり、大急ぎで包み紙を破り中身を見ると、カードと共に手作りに大きなハート型のチョコレート。「誰だろう?」と思いカードを開くと『M君大好き Sより』とありました。
 しかし、その時には無意識のうちに既に2口かじっていました。僕は悔しいやら包み紙はボロボロだしもう食べちゃってるしという気持ちやらで、結論は、

 「…なかったことにしよう。」

 そしてそれはもう忘れよう忘れようと過ごしていました。

 しかし、3月14日のホワイトデー、なんと母親はしぶとくチョコレートをもらっていたのを憶えていたらしく、ホワイトデーのお返しのキャンディーを買っておいてくれました。自宅で食べてしまったらゴミが出てバレてしまうので、知ってる人が誰もいない出来るだけ遠くの街のコンビニのゴミ箱に捨てようと思い、立ちこぎで自転車をこいで行きました。
 しかしいざ捨てようと思うと、何だかキャンディーがもったいないと思い、1つだけ口に放り込んで家路に帰りました。
 あの時のキティちゃんのキャンディーの味、酸っぱかったような気がします。

 (PN:すりきれコマネチ17歳)
 97.10.6 放送 (第104回)  
 小学校4年生の時でした。
 クラスメートの1人が転校する事になり、明日プレゼント交換会をする事になりました。
 当時お金がなかった僕は、『プレゼントは心』と決め付け、手作りプレゼントの構想を練っていました。
 しかし、構想は膨らむもののクラフトワークの汽車すら作れない事に気付いたのは午後9時。そこから千羽鶴、さらに百羽鶴までランクを下げて徹夜での作業にかかりましたが、23羽目でリタイア。
 次の日はその折鶴を紙袋に入れて持ってきました。

 「プレゼント交換だからハズレも必要。」そんな理由を付けました。
 あっという間に4時間目。メインプログラム・プレゼント交換になりました。
 調子はずれの歌に乗り、回るプレゼント。ミュージックストップ!
 その時僕の手元には瀬戸物のハニワが(当時まあランクアップと思ったものです)。
 「さて、僕のジョーカーは?」と探すと転校する彼の元へ。2、3%の確率にもかかわらず彼の元へ。
 さすがにげんなりしている彼を見て罪悪感を感じ、僕のハニワとのトレードを申し出ましたが、彼は「いいよいいよ、これだってプレゼントだから。」と苦笑い。
 「はあ、彼がそう言うならいいかな」と思い、給食の準備にかかりました。

 すると、彼とハニワの持ち主だった男が来て、「なあ、俺のハニワと交換してやってくれよ」と言ったので、それじゃあと交換しようとすると彼は「いいよ、いいよ!」。
 ムキになって断りだし、どうしていいかわからなくなった僕は泣いてしまいました。
 家に帰ってからハニワを粉々に砕き、下水に流しました。しかしこの思い出は消えません。
 僕はそんなに悪い事をしたんでしょうか。

 (PN:死臭の森)


 あれは私が小学校2、3年生ぐらいの時です。当時私たちが集まっていたら、それはビックリマンシールの交換会でした。学校の男子生徒のほとんどが集めていましたが、私とそのT君を含む6、7人ほどのグループが一番熱狂的でございました。

 ある日、緊急招集がかけられ、私は弟を連れてその公園に行きました。そこでT君が皆に見せたのは伝説と化した『お守りシール』でした。その『お守りシール』はうちの学校では誰も持っていない物で、もう船橋市にはないと言われておりました。
 「手、手にとって見せて。」と言う僕に「ああ、いいよ。」T君は迷わず貸してくれました。
 手に取った瞬間、これまでの苦労が走馬灯のように甦りました。バカな噂に流されて隣町のガードを越えたデイリーストアーのレジの横に置いてある箱の右の列の後ろから5番目のチョコを買ったり、そういった事でした。
 そしてその苦労と同時に私の中に1つの考えが浮かんでしまいました。
 「何で、何であんなに苦労した僕が手に入れられなくて、Tは手に入れられたんだ。」

 そう思うや否や、私はそのシールを持って走ってしまいました。
 逃げおおせて、アパートの階段の下に隠れて、改めてそのシールを眺めました。と同時に凄い事に気が付きました。
 明日学校に行ったら、T君や他の皆に出会ってしまうじゃないかということです。この疑問は幼い僕を悩ませました。
 そして5分後、今日の夜12時までに取り返されなければ時効だと自分を納得させました。つまり今日1日安全な所にいればいいんです。
 私は家路を急ぎました。

 家まであと数mとなった時、後ろで叫び声が。
 「いたー!追いかけろー!」
 なんと、私包囲網が出来ていたのです。
 後からわかったのですが、その包囲網はT君達5、6人がクラスの皆に声をかけ、この時既に20人ほどに膨れ上がっていました。
 1時間ほど逃げましたが私は逮捕され、窃盗品は押収されました。
 しかしT君は泣いていました。僕も自分が悲しくなったのでしょう、涙を流して「ゴメン、もうしないから、もうしないから」と謝りました。それ以来、「もう人の物は盗らない」と心に決めました。

 僕は心晴れ晴れと家に帰りました。
 しかし、「ただいまー。」元気良く家のドアを開けると、なぜか母親が閻魔様の乗り移ったような顔で仁王立ちです。
 「あんた、T君のビックリマンシール盗ったんですって?」と言います。
 僕は「お母さんがその事を知ってるわけはない、お母さんがその事を知ってるわけはない」と思い、
 「知らないよ。」
 そう言った瞬間、私は玄関に倒れていました。
 「本当の事を言いなさい。盗ったの?」
 母親の顔はマジです。もし「盗った」と言ってしまったら、もう1発、今度は正拳が飛んできそうな雰囲気でした。幼い僕はもうシラを切りとおすことを選択しました。

 「違ーう!T君のシールを宝物ということにして、皆で軽ドロ、軽ドロをしてたんだ!」
 完璧な話だと思った瞬間、弟が後ろからナイスアシスト。
 「違うよ、クラスの人達が言ってたよ。お兄ちゃん盗ったんだよ。」
 私は倒れました。
 「あんたウソまでつくのかい!あたしがいつこんな事を教えたの?今から一緒にT君の所に謝りに行くんだよ。」
 私はつい20分前に泣いて友情を確かめ合ったT君の家に、また泣きながら謝りに行くという惨めな思いをしました。
 私はこの事件の後、人の物を盗む事・ウソをつく事を絶対にやらないと誓いました。

 (北区・PN:スタンネ大先生)
 97.9.29 放送 (第103回)  
 皆さんの中にも、家出をしたことがある人、たくさんいると思います。僕もその中の一人です。僕が家出をしたのは確か小学校3年生の頃でした。今にして思うとなぜ家出をしたのかがよくわからなく、理由もなく家出をしました。
 普通家出というと、お金や荷物などを持っていくようですが、当時の僕にはこのような考えはなく、何も持たずに家を出ました。

 まず家を朝5時に出ました。そして30分ほど歩いて家に着いた僕は、電車に乗るお金もなく、仕方がないので通勤で駅にやってくる人の群れをしゃがんで見ていました。
 最初のうちはなぜか面白かったのですが、でもやはり周りの大人の視線は…。怒られるような気がして、僕はそこにいる事が出来ず、道を適当に歩き出し、疲れたりするとしゃがんだりしながら時間だけが過ぎ去っていきました。
 しかししばらくすると、自分の心の中に「なんで家を出たんだろう」とか「もう家に帰りたい」とか「ものすごく悪い事をしているんじゃないか」という事が浮かんでは消え浮かんでは消えしているうちに、「今なら間に合う」と思い、意を決して自分の家に戻りました。

 でも、自分の家の周りが見渡せる少し小高い丘に行くと、自分の家の周りにはたくさんの人と赤いランプが上に付いた車がありました。
 子供心にまずいことになっていると思った僕は身を翻し、また道の続く限り歩きました。
 その後僕は憶えていないのですが、多分色々な所に行ったと思います。ふと気が付くと、僕は当時駅の近くにあったバッティングセンターの前で、人がボールを打っているのを見ていました。
 僕はもう歩く気力がなく、そこでボーッとしゃがんでいると、中からお姉さんが出てきて「ぼく、どうしたの?今日学校は?」と尋ねてきました。
 僕は心の底から「助かった」と思い、力の限り泣き、「迷子になっておうちに帰れない」と言うと、お姉さんは僕を中に入れてくれ、コーヒーを差し出してくれました。そして親に連絡も取ってくれました。

 その後母親が自転車で迎えに来てくれ、僕を後ろに乗せて家に連れ帰ってくれて、とても嬉しかったのですが、頭の中ではどういう言い訳をしようかで一杯でした。
 「下手に『家出をした』なんて言うと何かまずいしな、どうしよう」などと考えていると、あと一つ角を曲がれば自分の家に着くという所まで来てしまい、そして角を曲がると、両脇には近所の人や学校の先生などたくさんの人が拍手をして出迎えてくれ、絶対に「家出した」なんて言えないという状況に追い込まれてしまい、「早く言い訳を考えなくちゃ、早く言い訳を考えなくちゃ」と思っていると、ついに家に着いてしまい、とうとう母親から「何でお前は朝、家にいなかったんだい?」と聞かれ、僕は「タンポポを取りに行っていたんだ。」と言いました。
 そしてその後、僕は急速に大人の階段を上り始めました。

 (PN:クワトロ大尉)


 この話はついこないだの話なんですが、夏休みの宿題で歴史的場所を見てレポートを書くという宿題が出ていました。
 しかし夏休み、私が宿題などをやるはずもなく、学校が始まってしまい、先生の慈悲により「9月24日まで待ってやる」と言われ、それでもまだ期間があると思い続け、時は流れて9月24日の朝、弱り顔の僕が考えた作戦『俺寺作成プロジェクト』が頭に浮かびました。
 その寺というのは、僕ワールド内のドリーム地方にある想像の寺で、約200年前にどこかの侍がひょんなことから出家して建てた寺で、1863年(イヤムミ)に大火事に遭っているという歴史を持った由緒ある寺です。その名もなぜか『福万寺』。

 そして私はレポートを何とか書いて提出。先生に直接手渡すと先生が眼鏡をかけてレポートを一めくり。
 そして先生が、「おお、福万寺かぁ。よく調べたな。」と言うじゃないですか。なんと、福万寺は本当にある寺だったのです。「続きは後で見ておくからな。」と言い、どこかに行ってしまいました。
 その後先生にレポートと本当の福万寺との余りにも違いのある歴史に、俺ワールド内の寺ということがバレ、こっぴどく叱られました。少し秋の風の冷たい自分の自ギャグです。
 その後親を呼び出され、めちゃくちゃに怒られてしまいました。

 (北区・PN:電車ポーカーの亀井)


 あれは僕が小学校5年の時でした。お小遣いも少なく、お金をほとんど持っていなかった僕は、たった12円安いという理由でわざわざ駅前の西友までホットヌードルを買いに行きました。

 その日、いつも通りに西友に行くと、地下1階にある食品売場のエスカレーターのそばにネスカフェのガラスのコップが1個ずつ箱に入れられ、山積みになって売られていました。
 「おいおい、こんなところに積んでおいて、誰か割っちゃうぞ。」
 僕はそう思いながらそばを通りぬけようとしました。

 割ったのは僕でした。

 山から滑り落ちたガラスの破片が辺りに飛び散っていました。おばさんがどんどん集まって僕の周りを取り囲んでいます。
 「どうしよう、逮捕される。」なぜか異常に焦った僕は、まるで今から店員に見せに行き、弁償するがごとく破片を集めました。逃げるように移動し、物陰から現場を見ると集まっていたおばさん達が散っていくのが見えました。
 チャンス。
 僕は急いで破片の入った箱を近くにあった無印良品のクッキーの後ろに突っ込みました。その間わずか1秒フラット。完全犯罪と思う気持ちと、罪悪感が入り交じった複雑な気持ちで僕なりに考えたのが、おわびとしてハイチュウをきちんと買って帰ったことを良く憶えています。

 数日後、破片を突っ込んだ無印良品の所に行くと、『お気を付け下さい』の張り紙が。
 それ以来、西友には行っていません。

 (武蔵野市・PN:エレクトリック山瀬まみ)
 97.9.22 放送 (第102回)  
 あれは遠い夏の日の午後、そう、確か小学校3年生でした。その当時私のあだ名は『サラリーマン』でした。そのあだ名からクラスでの私の位置づけが想像できると思います。
 私はかねてから招待されていた中山君の誕生会に行くため、お腹を空かし汗だくになりながら小3にしては長かった道のりを自転車で走りました。その時の私の頭の中は、中山君とその仲間達による笑顔とたくさんのごちそうで一杯でした。

 ようやく中山君の家に到着した私は、インターホンを押し、「サラリーマンだけど、遅れてごめんねー。」とおどけて言ってみせる。
 すると彼は何やら不思議な顔をして出てくるではありませんか。すると私の顔を見るなり、「あれ、呼んだっけ?」と一言つぶやきました。
 そんなことを言われたからには私にだって黙っていられません。「じゃあこれプレゼントだから。」と中山君の気を惹くために購入した、小3には高価なファミコンソフト『イー・アル・カンフー』を手渡し、変な方向へ走り去りました。

 子供なりに自尊心があったのでしょう、母に誕生会に行くと言った手前、すぐには家に帰れません。近所の公園でしょっぱい涙を流し、空腹も忘れ、拾った弾まないボールで夕暮れまでの時を壁当てで過ごしました。

 (PN:ルート16)


 僕の思い出は、去年の話。この話はどうしてもクラスの人には言えませんでした。
 高3の時です。僕は、ホームルーム長という、クラスのどうでもいい奴が押しつけられる役職に就いていました。
 仕事といってもどうでもいい物で、授業の前後に「起立、礼」というセリフを言うのがほとんどでしたが、たまの仕事で授業に遅れた先生を呼びに行くという、皆に一番嫌がられる仕事がありました。
 この思い出はそんなホームルーム長の仕事にまつわる物語です。

 ある時、数学の先生Aが時間になっても来ない時がありました。僕はいつも、15分泳がせてから行くことにしておりましたので、いつも通り15分後席を立ちました。
 ところが、クラスの頭ワースト3の皆さんが「おい、あと10分待てよ。」とか「マジカルバナナもう一勝負。」とか言って僕の進路を妨害し、30分くらい縛られ続けました。
 授業の2/3を消費してしまい、呼びに行くべきかそのままやり過ごすべきか迷っていました。

 すると、僕の前に座っていた嫌われ者でヒゲの濃いM君が「行った方がいいんじゃない?」としみじみ言ってきたので、僕は呼びに行くことにしました。
 職員室の教師Aの所に行きましたが、予想通り「なんで今まで来なかったんだ。」などと嫌みたらたら言われながら教室に行きました。
 僕はこの教師を許せないと思い、どうすればいいか考えました。そこで考え付いた事は、『先生に言われた事に少年としてかなりダメージを食らった演技をし続ける』というものでした。小刻みに震えてみたり、ボーッとシャーペンの先を見つめたりと、授業中完全にイッちゃった青少年の演技をしていました。
 すると、事は変な方向に運ばれて行きました。

 授業の終わりに、前に書かせる問題を次々と僕以外のクラス役員が指名されていきました。一応僕の作戦は成功したわけですが、成功の喜びよりも先生ではなく、他の関係ない人に迷惑がかかってしまったという思いの方が上でした。
 授業終了後、先生はサラっと帰ってしまいましたが、副ホームルーム長は「ごめん、本当にごめんね。」と謝り、足止めした3人のうち1人は僕にパンをおごってくれました。
 僕は悪い悪いと思いながらも、演技を止める事が出来なくなっていました。落ち込んだ演技のまま1日を過ごしました。
 休み時間には、周りの人が「あの時さぁ、あいつ泣いていたよ。」と話をどんどん大きくしてしまい、帰ってから仲間を騙した罪の意識を覚えながら、勉強机で泣きました。
 あの時のジャムマーガリン入りフランスパンの味は忘れられません。

 (群馬県・PN:デジタルチャット)


 あれは小学校4年の夏休みの事でした。友人の吉村君や、小林君と一緒に公園でサッカーをしていた時です。
 僕らは、公園の繁みに捨ててあったエロリ本を発見しました。友達の2人は「くだらない」と言ってサッカーを再開しましたが、僕はその未知の世界からの誘いに乗ってみたくてウズウズしていました。

 けれども僕だけ見るのは何かカッコ悪くて、「ほんとくだらないね。」と言ってサッカーを続けました。でも「見たい。あわよくば、テイクアウトしたい。」と僕の欲求はつのるばかり。
 そんな時、「サッカーも飽きたから俺んちでゲームでもしようぜ。」と吉村君が言い出しました。普段の僕ならもちろん大賛成なのですが、今日は違います。吉村君ちに到着するのを待って、僕は叫びました。
 「あっ、ごめん。用事を思い出しちゃった。あー、そう。あー、用事。そうだ。じゃっ。」
 もちろん帰りません。

 2人と別れた後、チャリンコをこぎこぎ公園へUターンです。幸い人影はなく、僕はそのエッチ本を手に取り、蚊に刺されながらも夢中で読みふけり、未知との遭遇を果たして、半ズボンをパンパンにしていました。
 そして、一通り読み終わるとその本を持って帰ろうとしたその時、ブランコの向こうからこっちを見ている人が。小林君です。どうやらずっと見続けたご様子で、半笑いです。

 「お前、帰るんじゃなかったのかよ。」と彼。
 僕は恥ずかしさと情けなさで慌てて自転車にまたがると、無言で走り去りました。
 今でも彼とは友達ですが、何かの拍子にこの話が出るのが怖くて、昔話もろくに出来ません。
 伊集院さん、僕は間違っていたんでしょうか?

 (ラジオネーム:動かす力)
 97.9.15 放送 (第101回)  
 私が小学校3年の頃、近くの丘にタイムカプセルが埋められた事で、ちょっとしたタイムカプセルブームが起こりました。
 私や友達たちは安いプラモやビー玉を、金持ちだった中島君だけは流行っていたビックリマンシールのヘッド(光ってるやつ)100枚を自分達で掘った穴に入れました。
 その夜、松田君にそそのかされた私は、即シールを掘り起こすための道具を持って待ち合わせ場所に行きました。しかし、松田君はいつまで経っても来ないので、私は待ちきれず自分の取り分を掘り起こしました。

 翌日登校すると、クラスの黒板に『うらぎり者』の大きな字と、友人達からの「しかと」が待っていました。
 そうです。松田君は中島君に買収されていて、あの夜公園の茂みで私の行動を一部始終見ていたのです。
 私は仲間復帰の条件として、所有している全ビックリマンシールの分配と、中島君の事を『社長』と呼び続ける事を余儀なくされました。
 松田君は今でも私の親友ですが、あの時の事は二人の間でなぜかタブーになっています。

 (PN:五右衛門)


 私は、両親のお金に手を付けた事はありませんが、強いて言えば私が小学校低学年の頃、当時の私の頭の中はビックリマンシールで一杯でした。友達と話す事もいかにたくさんの種類のビックリマンシールを持っているかでした。
 しかし、1個30円とはいえ小学生の私のお小遣いなどで買える数はたかが知れていました。
 そこで結成したのが『ビックリマン盗賊隊』。友人2人とコンビニに入り、パンツの中にビックリマンチョコを忍ばせて出てくる、これを繰り返すおちゃめな隊でした。
 運がいい事に半年ほどやって1度も捕まった事はなく、気を良くした私たちはいつしか大胆になっていきました。

 そんなある日、家の近くのこども銀行のお札を「毎度どうも」と言って受け取る老人のお菓子屋さんで、私はいつもの行動に出ようとしていました。
 これまでも何度かやった事がある通り、その老人の目を盗み、いつものように物色。パンツに5個のビックリマンを入れ、出口を出ようとしたその時、老人が静かに言った言葉。
 「お姉ちゃん、今日はいくつパンツに入れたの?今日は見てなかったから教えといて。あとでまた、お母さんの所にお金もらいに行かなきゃならないから。」
 みんな知ってたのかぁ…。
 次の瞬間、老人の前でパンツからビックリマンを出すと、涙をポロポロこぼしながら「でもね、私にも色々あるから…。」と訳の分からない事を言い、近くのほら穴で泣きました。

 (江東区・PN:生肉)


 事の始まりは姉の友人達でした。嘘つきだった彼女たちは、当時小学生だった私を捕まえ、面白半分に「この子霊感があるよ。」などと言ったのです。
 この一言のおかげで、姉の友人達にちやほやされ、味をしめ、早速クラスで霊感少女を名乗ってしまったのです。
 特に意味もなく休み時間に叫び声を上げたり、美術室に飾ってあったピエロの絵を極度に怖がってみせたり、パフォーマンスは大成功。注目が注目を呼び、中学校に上がる頃にはタロット占いを始め、頼まれもしない友人の未来を決めつけたりしていました。

 そんなある日、友人のHちゃんにニキビの治し方を相談すると「私ニキビあるんだけどー、Hちゃんニキビってどうやって治したらいいのかなぁ?」「タロット様に聞けばいいじゃん。」とのアドバイス。自分に分からない事をタロットが教えてくれるわけもないのに。
 仕方がなく、カードをシャッフルしていると「ねぇねぇ、タロット様さぁ、水で冷やせば治るって言ってるんじゃない?」と助け船が。
 「そうね、そう言ってるわ。」
 ホッとして休み時間、水道の水で冷やしていると、後ろで私の信者の数人が「嘘つきがニキビ冷やしてる。」

 それからというもの、タロット占いを頼まれても、自分はタロットのやり過ぎでタワーのカードに怒られているなどの嘘を散りばめ、早く高校に行く事ばかりを考えていました。
 今私は高校を卒業し、短期の大学や専門学校などでは就職活動の時期だと思います。そろそろ同窓会も開かれる頃となっています。
 私は霊感少女の頃の私を知る人に会うのがとても怖いです。

 (戸田市・PN:キャラットファイト)
 97.9.8 放送 (第100回)  
 あれは確か祭日の昼間、犬の散歩中駄菓子屋に立ち寄った時の事でした。僕は『うまい棒』を片手に取り、店の奥のおばちゃんを呼びました。
 ところが、おばちゃんはテレビを見続けています。

 その時、僕の足元で「ジョロジョロジョロジョロジョロ〜」という不思議な音がしました。見ると、僕の犬が店の中でおしっこをしていました。しかもメス犬。オス犬のようにチョロッと引っかけるというレベルではありません。彼女は膀胱の中身を全部出しきるつもりです。
 僕は慌てて店の奥に目をやり、運良く先程の音が伝わっていなかった事を確認します。おばちゃんは薄ら寝ぼけでみのさんのトークに首っ丈です。

 しかし犬はおしっこを止めません。約30秒の沈黙の後、店の床には幅20cm、全長2mにわたりおしっこの天の川が出来上がりました。
 僕はすぐさま逃走を図ります。かといって、ドタバタと逃げては通行人に怪しまれてしまいます。
 僕こと犬マスターは普通の客を装って店を出ました。そして角を曲がるとダッシュ。僕は必死です。

 ところが、汁を全部出しきってご機嫌なメリーちゃん(シェットランドシープドッグ・メス4歳)はご主人様に遊んでもらってると勘違いし、しっぽをぶんぶん振りまわしながら僕の膝のカックンポイントに肉球プッシュを叩き込んできます。
 僕はよろけながらも安全な距離まで逃げおおせる事ができました。
 走るのを止めると、「もう遊んでくれないの?」とばかりに犬は僕の足に絡みつき、ちょっぴりご機嫌斜めです。

 そんな時ふと気付くと、僕の手には一本の『うまい棒』が握られていました。お金は払っていません。払ったものといえば牛乳瓶1本ほどのおしっこだけです。とても等価交換は成り立ちません。過失とはいえ、僕は生まれて初めて窃盗をしてしまいました。
 あれから5年経ちます。僕は1度も駄菓子屋の前を通っていません。

 (東京都中野区・PN:チュチョ君のわんぱく汁)


 小学校に入るか入らないかの頃、僕の家に2つ年上の女の子を呼んで遊んでいました。
 その子にいい所を見せようと、近くの店におやつを買いに、お父さんの車の中から紙で出来たお金を2枚頂いてお店に直行しました。
 当時千円5千円1万円の見分けの付かなかった僕は、腕一杯の『うまい棒』をレジに持っていき、そのお金を払いお釣を見てみると小銭がたっぷりと、紙のお金がメモ帳みたいにたくさん。
 そのお金を持って帰るのが子供心にヤバいと思った僕は、確かドラマで覚えた言葉「ツケね。」の一言を残し、家まで激走。それから夢のように楽しい時間を過ごしました。

 その夢から現実に戻された言葉が「ケンちゃん、ちょっと。」という母親の言葉。母の所に行ってみると、お父さんが仁王立ち。
 それから数時間、僕は家の奥にある倉に閉じ込められて泣きました。泣きまくりました。
 やっとの事で出してもらい、彼女の待つ部屋へ戻ると彼女の姿はなく、らくがき帳に「どろぼうするおとこのこきらい」と書かれていました。
 父親に力ずくで倉に引きずられて行く時、「すぐ済むから」と笑顔の言葉に「うん」と笑顔で返してくれたのに。くれたのに。くれたのに。
 僕の初恋でした。

 (鳥取・PN:ジライヤーOKA)


 僕が小学校1年生になったばかりのある日、近所のK君と一緒に家に向かって歩いているとK君が「ねえねえ、こっちに曲がって行くとたくさんマンガ本が落ちてるんだよ。行ってみよ。」と言われて、言われるがままに連れていくと、予想以上に時間がかかってしまい、大量のマンガ本を自分のランドセルに詰め込んでいるK君の姿を見て、急に家に帰りたくなってしまいました。

 その頃親達は必死になって僕たちを探していました。
 約1時間後、K君の親と僕の親の前に着いた時、僕が口を開く前にK君が「マンガがたくさん落ちてるからこっちに行こうって、こいつが言ったんだ。」と僕のせいにするではありませんか。
 両方の親から「こんな本を拾ってきて!」とこっぴどく叱られてしまいました。当時の僕はどうしてだかわかりませんでした。
 しかし今思えば、K君が拾っていたのはマンガはマンガでもかなり行き過ぎたエロマンガだったような気がしてなりません。

 (PN:青田博士)
 97.9.1 放送 (第99回)  
 あれは小6の修学旅行の時、若かった私たちはとても興奮しておりました。
 その夜は恒例のまくら投げの後、暗闇乱闘が始まりました。
 この状況で暴力の矛先が向くのはやはり平野君でした。平野君にはサンドバッグの役をやってもらいました。
 暗闇の中、異常な興奮の中の私は平野君目掛けてもう一生再生する事は出来ないような飛び蹴りをかましました。5mぐらい飛んだ平野君は、窓ガラスに激突しガラスを粉々にしました。
 幸い平野君はカーテンが有ったためたんこぶ程度で済み、暗闇であったため犯人はわからないまま修学旅行は終わりました。

 月日は流れ卒業式。その時配布された卒業文集に平野君が『闇の中で』という題で私の名前とあの夜の行動を1800字にわたりまとめていました。文の最後平野君は「謝ってくれるのを9ヶ月待っていたよ」と書いて締めくくっていました。
 卒業式の夜、私は両親とカステラを持って平野君の家を訪ねた事を今でも忘れません。

 (神奈川県・PN:五右衛門)


 12年ものの自ギャグです。
 今から12年ほど前、僕が幼稚園に通っていた頃、僕は買ってもらったばかりのファミコンでスーパーマリオを毎日毎日プレーしていました。1ヶ月ぐらい経ったでしょうか、僕は15分で全面をクリアーできるようになっていて、天狗になっていました。
 しかし、ある日母親と一緒にスーパーに行って雑誌売場にあった月刊マガジンの表紙が僕の目に止まりました。『スーパーマリオの裏面』。僕の目に入ってきたのはまさにその文章。僕は母親の目を盗んで雑誌売場に戻り、表紙をめくってみるとそこには0面の事が。
 「なにぃ?」天狗になっていた僕は悔しさの余り、この本を買い、「全部マスターして友達に自慢してやろう」、そう思って母親にお金をもらってマガジンを購入しました。
 僕は家に帰ってマリオの所だけを何回も何回も読み、3日でマスターし、そのマガジンを家の茶の間にほっぽらかしにしていました。
 その本を始末しておかなかったのが間違いでした。父親がそのマガジンを見つけ僕に「何だこの本は!」と怒鳴ってきたのです。
 訳の分からない僕は「どうしたの?どうしたの?」と本を見てみると、そこには全裸の女達がイカダで川流れという漫画が描かれているではないですか。
 幼稚園児の僕は見るなり震えだし、「うわぁー!」と叫びマガジンを奪い取り走り出し、鉛筆を取り出して泣きながらエッチなページにバツを書きなぐっていましたが、そのページの多い事多い事。
 結局何だか恐ろしくなり、マガジンは近くの川に投げ捨てました。

 (福島県・PN:でとし)
 96.8.11 放送 (第96回)  
 あれは私が小学校低学年の頃でした。
 私はクラスメートの渡辺君に、渡辺君の友達の家に連れて行かれました。その友達の家でファミコンをやっていると、部屋の片隅にはその当時私たちの間で大流行していた人形消しゴムがたくさんカゴに入っていたのです。
 渡辺君がトイレ、その友達がジュースを取りに行った時、僕はそのカゴから一握りの人形をポケットへと詰め込みました。「これだけあればわからないだろう」。そんな気持ちがあったのかもしれません。

 しかし戻ってきた友達はそのカゴを見て首をひねっています。透明のテリーマンと角の折れたバッファローマンが無いなぁ」。不思議そうにしています。
 私がその場にいるのが苦しくなって、突然「もう帰る!」と言って勢い良く立ち上がりました。
 その時、僕の短パンのポケットから、アメリカの英雄テリーマンが。
 一瞬時が止まりました。
 するとその友達の友達はテリーマンを拾って僕のポケットに無言で詰めて、一息ついてから、「次からは、欲しいって言ってくれよな。」笑顔を投げてくれました。
 僕は恥ずかしいやら情けないやらでその家を飛び出しました。ポケットの人形がやけに重く感じられました。

 そして次の日、絶対謝ろうと思って学校へ向かい教室に入ると、黒板に大きく『泥棒大塚』とわざわざ黄色いチョークで書かれていました。
 「あの笑顔はなんだったんだろう…。」
 それ以来僕は1年間、『泥棒一家』などという個人にはふさわしくない名前を付けられ、枕を濡らし続けました。
 ただ一つ、先生だけは何を勘違いしたのか通知票に「大塚君はクラスの人気者です」と書いて下さいました。

 (PN:ビバ大塚)


 僕の自ギャグ。それは『広島カープ』を中学校の時まで『広島カーブ』だと思っていた事です。
 それについて級友と殴り合いになりました。当然人が集まってきます。そして止められます。
 ケンカの原因を聞かれ、「広島が絶対カーブなのにこいつがカープだって!」
 集まってきた友人全員が、「カープだよ。」と言い、僕は泣きました。しかも鼻血を出していたので女子が保健室に連れて行ってくれました。
 保健室でやっとのことで泣き止み、冷静になった時、僕の心の中では「もうこの学校にはいられない」という気持ちになり、保健の先生が職員室に先生を呼びに行った隙に、逃げました。
 当然今家に帰れば親に怪しまれ、学校に報告されるに決まっています。
 そこで僕は新宿に行き、伊勢丹のデパートの屋上に立てこもる事にしました。
 デパートの屋上で大体2時間ほど遊んだ頃でしょうか。段々寂しくなり、家に帰る事にしました。家に帰る途中、クラスの友人がいないか忍者のように隠れながら帰りました。
 家に着いて玄関に入って5秒後、母親の顔を見たとたん殴られました。
 学校の先生の所に謝りに行かされ、もう大変でした。

 (本名:かとうそういちろう)
 96.8.4 放送 (第95回)  
 僕は小学校4年の頃、ミニ四駆にがっちりマインドコントロールされていました。
 こんなに心酔しているミニ四駆。当然、専用のコースが欲しくなります。両親の財布から資金を集め、常連になった模型店へウキウキ気分で出かけました。
 早速購入したまでは夢に目をふさがれておりましたが、ここで1つ大きな問題が起こりました。「こんなに大きな物をどうやって運ぼうか?」
 親には内緒の買い物。でも小4の僕には持って帰る事は出来ない。
 そこで、親切な模型店の店員さんが「車で運んであげる」と言ってくれました。家の物置まで誘導し、さぁあとは運ぶだけだと思った瞬間、来ました、父親の車が。
 店員の「お坊ちゃん、どこに運べばよろしいのですか?」という表情と、親の不審そうな表情。
 僕は血の気が引き、頭の中で『家出』という単語が浮かんだ直後に走っていました。
 近くの公園で数時間1人で泣いた後、泣き止まないまま家に帰りました。
 思い出です。

 (青森県・PN:フルーツドロップ)


 小学校高学年の頃、私のクラスの女子の間で、答案用紙が配られたら必ず名前の欄に好きな人の名前を書いておいて、回収される直前に自分の名前に書き換えて提出するといい点が取れるというおまじないが大流行していました。
 プチレモンやマイバースディといった雑誌のう散臭さにはまだ気付きもしない純真なロリータ集団は、めいめいの想いの人のパワーを拝借してテストに挑み、答案返却後にはその効き目を報告しあったものでした。
 私も他聞に漏れず、大好きなあの人の名前を記してから計算問題を解く無垢な少女の一人だったのです。

 ある日の5時間目、待ちに待った国語のテストの返却が始まりました。
 「じゃあ、名前を呼ばれた人から前に取りに来て下さい。はい近藤君。…」
 あの人のパワーを借りたんだもの、きっといい点が取れてるはず。まだかな。まだかな。
 「…浅野君。…佐藤さん。…坂巻さん。…岡島さん。…石田さん。…渡辺さん。」
 あれ?おかしいなぁ。いつもなら石田さんの後に呼ばれるのに。
 「…岩崎君。…福田君。…砂川君。」
 …もしや。
 私はただただ自分の名が一刻も早く呼ばれる事を祈り続けました。しかしその願いも空しく、私以外の級友全員は既に返却された紙切れを眺めて一喜一憂しています。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
 その時です。先生がしばらく、私の名を声高らかに読み上げたのです。

 「松原桃太郎さん?」

 皆が笑ってる。その答案用紙はもちろん放課後にこっそり職員室にて受け取りました。
 せめてトム・クルーズにしておくべきだったと、一人後悔です。

 (千葉県・PN:ごみ。)
 96.7.28 放送 (第94回)  
 あれは確か僕が中学校2年の頃でしょうか、当時、まあ今もそうなんですが、当時の僕は気の弱さ・気の小ささにかけては天下一品だったので、その影響で今まで延び延びになっているある決断をさせられてしまいました。
 そう、エロブックです。

 その日私は初めてエロブックを買いに行きました。店内には運良く誰も客はおらず、しかもレジには店長らしきおじいさんが。
 チャンス。
 僕は以前から目を付けていたエロブック、ちなみに文庫本タイプの写真集なんですが、これを選んだ事が後の命取りに。
 文庫本タイプの写真集とキン肉マンのコミックス3巻と7巻2冊を手に取り、そのキン肉マンの間にエロブックを挟むという、通称『エロサンド』を作りレジへ。

 とその瞬間、「木村さんごめん、レジ代わって。」「はーい。」奥から出てきたのはそれはそれは綺麗なお姉様。僕は「いやーまいっティング」とも思いつつ、まあここまでは「ノーアウト1塁、バッターは川相。さて川相は何をするでしょう?」ということぐらい予想のつく展開だったので、そんなことでは僕はまだ動じませんでした。もちろんこの時心臓は16ビートを奏でてはいましたが。

 しかしほんとの問題はこっからなんです。店員さんは2冊のキン肉マンを普通にレジを打ち終えたのですが、なぜかメインのエロ文庫だけはなかなかレジを打ってくれません。そしてその店員さんはエロブックを何度も何度もペラペラめくっているではありませんか。どうやら、本の間に挟まっているはずの注文書をお探しの様子。当然、柏原芳恵よろしく女性のヌードが行ったり来たり。
 しかもふと振り返ると、さっきまで誰もいなかったはずなのになぜか僕の後ろに4、5人並んでいらっしゃいました。いや、その皆様の僕に対する視線の熱いこと熱いこと。
 その時の僕の心境はと言うと、うーん、うまくは言えないんですが一つだけ言える事は、とりあえず消えてなくなりたいという事だけです。
 挙げ句の果てはその女性店員、「店長、店長!」と店内中に聞こえるバカでかい声で店長を呼んでくれました。
 気がつくと僕は、走って逃げていました。
 お楽しみ頂けましたでしょうか。これが私の自ギャグです。

 (千葉県・PN:山手線外回り)


 子供の頃から僕は自分の役割というか、立場を妙にわきまえた人間でした。
 当時の計測方法で肥満度30以上に太っていた僕は、デブとして毎日どんなに辛くても「これでいいのだ、毎日どんな目に会ってもこれでいいのだ」とニコニコと寛大に、まさに『デブ=いい奴』という宿命通りに自分を演じておりました。
 むろん給食はどんなに嫌いな献立が出ようとも3回以上おかわりし、クラスメイトの残した飯は「俺が食ってやるよ」と胸をドンと叩き、全て残さず食べて、これまた『デブ=食いしん坊さん』の宿命通りに踊っておりました。

 小学校4年生のある日、公園で友達4、5人で集まって『薬』という遊びをしていました。各自が家から薬になりそうな物を持ちより、ペットボトルにそぎ調合し、新薬を開発するという遊びです。
 物々しい色の新薬が開発されたその時、I君が「なあ、誰かこの薬、飲んでみろよ。」
 当時僕は『デブ=食いしん坊』の宿命の元に、人前で楽しそうにアリすら食べたことのある男でした。
 I君の言葉が冗談とも気付かず、ニッコリ微笑み、その薬を一飲み。
 それから3日間僕は生と死の境をさまよい、4日目の昼目を覚まし、5日目に登校しました。
 心配する友人を引かせてはいけない。その一心で僕が放った一言。
 「甘さが足りなかったね。」
 僕は正しかったのでしょうか。

 (千葉県柏市・PN:ミルク)